4-2-2
病院からの帰り道、ノゾミは軽くなった庇うようにしながら帰路を急いだ。
そこはずっとギプスを付けていたせいで、無くなると今度は違和感が残っている。その上負担をかけまいとして殆ど使っていなかったので、上手く力が入らない。
詰まるところ、骨を折るということは色々と不便なのだ。
ともあれ今やるべきことは、一刻も早く家に帰ること。自分から呼び出しておいて、ショウとミコトを待たせるわけにはいかない。そう思うと、自然にノゾミの足は速まっていった。
だが早く帰ろうとすると、嫌でもあの事件現場を通らなければならない。
なぜ、こんなに近所で起こってしまったのかという腹立たしさを振り切るように、ノゾミはその場を駆け抜けた。
「――っ、雨?」
ふいに、頬に冷たく濡れた感触がして天を仰ぐ。空には黒い雲が重くのしかかっていて、家を出た時よりも暗くなっている。
(急いだ方が良さそうだな)
とはいっても、目的地までは目と鼻の先。雨が酷くなる前には帰れるはずだ。
一旦止まっていた足を再び動かし始めるが、水滴がいくつも頭の上に落ちてくる。少ししか距離はないが走り出そうか迷っていると、目的のマンションが見えてきた。エントランスの前には二つの人影がある。
「あ、ノゾ君! お帰りなさい」
「悪い、待たせたか?」
「いいえ、今来たばかりですから」
そう言って微笑むミコトの後ろには、藤色の紬を着たショウが立っていた。相変わらず桃色の髪の毛をツインテールに結わえているが、不思議と彼女にはそれがぴったりと似合うのだ。
「久し振りね。腕、随分すっきりしたんじゃない?」
「ああ。さっき病院に行ったばかりなんだ」
ノゾミは小走りで二人の元へ向かうと、髪の毛に付いた水滴を軽く手で払った。
「アンタ傘持って行かなかったの? 天気予報くらい見ておきなさいよね。今は便利なんだから」
そういうショウの手には雨傘が握られている。
「大昔を知っている奴が言うと、説得力が違うな」
「何よ。褒めてるの? それとも貶してる?」
「貶すわけないだろ」
「それなら良いわ」
何ともないような会話で、妙に心が和むのを感じてしまうのはなぜだろう。最近穏やかでない日が続いたせいだろうか。
立ち話をさせるのも悪いので、ひとまず二人を中へ導くことにした。エントランスを抜けてエレベーターホールへ出ると、途端に外から激しい雨の音が聞こえてくる。本当にぎりぎりで豪雨から逃れられて、今日はもしかしたら運が良いのかもしれない。と、珍しくそんなことを考えた。
自分の部屋がある三階に到着して、ノゾミはズボンのポケットを漁って鍵を取り出そうとする。その直前で後ろの方のポケットに入れていた携帯電話が震えるのを感じた。
取り出して画面を見ると、母からの着信が入っていることが示されており、出るかどうか躊躇ってしまう。
「出なくて良いんですか?」
「……母親からだから、大した用事じゃないだろうし」
電話で聞かされることといえば、ノゾミからしたらどうでもいい小言ばかりだ。それが嫌で出たくなかったのだが、ショウの言葉が背中を押す。
「急ぎの用事かもしれないじゃない。アタシ達のことは気にしなくて良いから、出てみなさいよ」
「……」
そこまで言われてしまえば、断る術は見つからず。ノゾミは渋々画面を開いて、それを耳に当てた。
「もしもし」
「あ、もしもしノゾミ? ちょっと大事な話があるんだけど……」
案の定ショウの予想は正しかったようだ。
だがこんなに改まって話を切り出されるのは初めてで、ただならぬものを感じたノゾミはごくりと唾を飲み込んだ。
「落ち着いて聞いてほしいんだけど――」
母の言葉に耳を澄ます。
もう少し心の準備が整うまで待ってもらった方が良かったかもしれない。
それは、あまりに衝撃的すぎる現実だったからだ。
「…………」
先程、何の根拠も無いのに運が良いのかもしれない、と思っていた自分は、もうどこにも居なかった。
ノゾミはただ瞠目して、携帯電話を落とさないようにするだけで精一杯で。それでも、腕をだらりと垂らしてしまうのには逆らえなかった。
「ノゾ君?」
もはや力が入らなくて指で引っかけるようにしていた電話は、無意識の内に通話を終了させていた。それを不審に思ったのだろう。二人が心配そうにノゾミを見つめるが、それに目を合わせることさえ出来ない。
「と…さん、が……」
出てきたのは、雨音にかき消されてしまいそうな掠れ声。
「父さんが――――死んだ……」
紬とは、普段着にあたる着物のことです。




