5 水曜の不天
私が『生』を求める事…それは……誰かの『死』を望む事……
…あのね、……あたし……
昨日は…ね。あたしの十五回目の誕生日で…礼奈だって来てくれたし、とっても楽しかったのよ…?
…今日だって、いつもみたいに酷い頭痛も無くて…吐き気だって殆ど感じてなかったの。なのに…なのに、どうして……
……どうして…赤い、血なんて吐くのよ…!
ちょっと…喉の奥に何か引っ掛かったかな、って…あたし、ただそう思ったから…だから……手で、口許を押さえて咳込んだの。
別に、苦しかった訳でもないのに…手が真っ赤になって……
…あたし、あたしね…もう、びっくりして……
………………
…母さんね、すぐにお医者さんを呼んでくれた…
いつも通りに診察してくれた後で、お医者さん、注射をしながらあたしに言ったの。
「これからは、診察の時にいつもこの注射をしましょう」
って…
でも、…でもね? …これだって、吐血を抑えるだけなんでしょ? あたしの病気が治るんじゃないのよね…
…あたしね、生まれて初めて吐血して…とってもショックだったの。恐くて…思わずあたし、礼奈に電話しようとしてた。でも、でもね…礼奈、もう受験生なんだもん。夏期講習に行って一生懸命勉強してるのに…呼び出すなんて……
分かってる…礼奈なら、すぐに飛んで来てくれる…分かってるのよ。でも、でもね…だからって、それに甘えてちゃいけないのよね。
……そう、もう…夏期講習が始まってるの…
この夏で…足が動かなくなってから……一年になるのよね…
……始めは…ね? ただ、足が痛いだけだったから…あたし、てっきり捻挫か肉離れくらいにしか思ってなかったの。ただ、骨折してたらいけないからって…すぐ近くの大きな病院で、念の為に検査してもらったのよ。
レントゲンで診ても、何も無かったから…安心して、痛み止めの注射だけで、あたし…その日は帰ってた……
…その時の痛みはね、すぐに無くなったの。でも、でもね…注射の効力が切れたからかな……又、痛みが酷くなってきたの。その度に病院に行って、その度に注射してもらって……
どんどん、足は重くなってた…
ちょっと歩くだけでも疲れるようになって…おかしいな? って真剣に思い始めた時には……あたし、もうベッドから動けなくなってたの…
…お医者さんはね、とっても頑張ってくれて…今は、もう足の痛みなんて、すっかり無くなってる。でも、でもね…精一杯調べてくれてるんだけど、あたしの病気、何なのか分かんないみたいで……とっても大きな病院だから、本当に分かんないんだろうな、って…
それでも、お医者さん、頑張って治療してくれてるのよ。だから…ね。…あたしだって、負けないくらい頑張ろうって…そう、思ってたのに……
…だって…だって、そうでしょ? …足が動かせないだけなのかな、って……だったら、あたし、まだ頑張れるかな…って……
…どうして……どうして? どうして、こんなに毎日頭痛がするの…? どうして…こんなにいつも、胸元が苦しいの…? …どうして…どうして、赤黒い血なんて吐くのよ…!
……あたし、もう…歩けないだけじゃなくて……
このまま…ずっと苦しんで…
………………
……もう…誕生日なんて来ない気がするの…
あたし……明日になったら、『死んでる』…かも……
…恐いのよ! …あたし、…嫌、絶対に死にたくない……
…でも…お医者さんも治せなくて……、ううん、…お医者さんだって頑張ってくれてるのに……
……でも、…でもね…
…怖いの…体が震えてくるのよ…!
………………
…入院だって、考えてた。でも…だからって、病気が治る訳じゃないのよ…気分的にも、きっと自分の部屋の方が楽だし…それに……
ヴェストルとも逢えなくなりそうで…
…あたし、自分がもうすぐ死ぬかも知れないなんて……そんな事、考えた事も無かった。だって…そうでしょ? あたし、まだ中学生だし…本当なら、もっと長い間生きていけるのに……
……『死』なんて、遠い問題だと思ってたんだもん…
でも……でもね……もう、すぐそこに…すぐそこにあるかも知れないのよ!
…やだ、…震えが止まらないよ……
嫌…まだ、死にたくない……
あたし…あたし……
(…美星さん)
……え…?
急に…体が『何か』に包まれて…
とっても温かい…
…そっと、抱いてくれてる……そっと…優しく…
ヴェストル………
あたし……
……あたし、泣きながら…眠りに就いてた…
「美星さん…」
「うっ…ん…」
とっても心地好い声……え? …えぇぇ〜?
あたし、びっくりして跳ね起きてた。どうして、こんな時に限ってヴェストル、格好良い姿になってるのよ! …え〜ん、あたしの髪の毛、こんなに乱れてるぅ。
「気分はどうですか?」
今は酷くないわよ。でも、でもね? どうして、こんなに早く…
あたしね、その時になって初めて、窓の外が暗くなってるのに気付いてた。あんな所に、もう『熊の番人』が見えてるじゃない。あたし、どうして……
「あっ!」
「美星さん、今日はとても心を乱していましたから…昼間でしたが、『力』を使ったんです」
そんな風に、ちょっと照れてるヴェストルって…なんて素敵なんだろう! …そうよね、あたし…死ぬかも知れない、なんて思ってたのよね……
「…ありがとう、ヴェストル。…あたし、一人で混乱して…まだ、死ぬなんて決まってないのにね」
そうよ。まだ決まってもないのに、不安になるなんて…らしくないわ。
あたしがにっこり笑って見上げたら…急に、ヴェストル、抱き寄せてくれたの。もう、あたし、びっくりして…
「ヴェ、ヴェストル…?」
やだ、あたし…胸元まで赤くなってる…
「美星さん…苦しいんでしょうね。…辛いんでしょうね……」
ヴェストル……
「僕には、美星さんの痛みが…きっと、ほんの僅かしか分からなくて……何も出来なくて……済みません…」
「ううん、謝ったりしないで! …あたし、ヴェストルが来てくれただけで嬉しくて…苦しい事なんて、全部忘れるのよ。
…それにね、きっとヴェストル……あたしの事、全部分かってくれてるんだもん……もう、謝ったりしないで…ね」
「…有難う御座います」
そっと、温かな腕が離れてく…お願い、もう少し……
…ううん、まだ、頼めないの……あたし…まだ、何も言ってないんだもん…
優しく微笑みながら、ヴェストル、あたしの指先を取ってくれる。いつもと同じように、星夜の町へ…
ヴェストルがずっと来てくれるなら、あたし…不安にも恐怖にも耐えられるかも知れない。…ううん、耐えなくちゃいけないの。
だって……あたし、ヴェストルを悲しませたくないんだもん。
「…いつも、ありがとう」
だから、あたし…そっと囁いてた。
「はい? 何か言われましたか」
「ううん! 何でもないの…」
でも、でもね? 《本当》に思ってるのよ…
…いつも、傍に居てくれてありがとう…って……
夏の大三角形が、遥かな天頂を目指してる。デネブとベガからずっと視線を下げてみたら、そこにはちょっと不気味なアンタレスが蠍の心臓で輝いてた。
とっても綺麗で微かな流れ…星って、こんなに沢山あるんだなぁって、いつもそう思うの。あの星の一つからこっちを見ても…きっと、太陽なんて単なる『点』でしかないのよね。地球なんて、全く見えるはずがないのよ。そんな…目にも見えないような星の上で、あたしがこうして夜空を見上げてる……とっても、気が遠くなるわ。こんなに地球だって大きくて広いのに……
…きっとね、あたしが悲しんだり、笑ったりしても…きっと、あんなに散らばってる星達にしてみたら……
…そんな事、全く意味の無い事なんだろうな、って…
「そんな事はありません」
あたしがぼぉーって眺めてたら、ヴェストル、そう言って笑い掛けてくれた。
…やだ……もう、初めて逢ってから四ヶ月も経つのに…あたし、まだどきどきしちゃう。
でも…でもね。…それって、とっても素敵な事なのよね?
「美星さんが感じている《全て》は、『宇宙』に何らかの影響を必ず与えています。それは《縁》や《業》となって、複雑な『時間』の川筋を変えていくんですよ」
そうなんだ…何だか、とっても嬉しい気がする。
でも……でも、ね。やっぱり…どんな大きな苦しみでも、とっても些細な事に思えちゃうのよ。
…例えば……『死』なんかも、ね……
「美星さん、そろそろ降りましょうか」
「…うん」
いつも見せてもらうけど、星空って全く同じ姿をしてないんだもん。見る度に、名残惜しくなるのよ。
あたし、ヴェストルに手を取ってもらいながら、暫く天蓋に煌く宝石の群れを振り返ってた。
…その時ね、ふと思ったの……
……ヴェストルにしても、あたしは…
あの、星の一つと同じなのかも知れない…ううん、実際には見えてない、小さな星の小さな存在……
ただ……それだけなのかも知れない…
……寂しいけどね…
青い大気の川が、ゆったりと街中を流れてく。殆ど何の物音もしない静かな町…
あたし、その星夜の町でヴェストルと並んで歩いてた。もう、すっかりこの不思議な空間にも慣れちゃったの。『ここ』が、何処なのかは分かんない儘なんだけどね。
あれ? ここ、病院の前じゃない。
…ちょっと、やだな…
ヴェストル…そんなあたしの気持ちが分かってるはずなのに、どんどん前庭の中に入ってくのよ。あたし、仕方無くその後ろに続いてた。
「やぁ、やっぱり来ていたんですね」
…え?
立ち止まったヴェストルの横で、あたし、その視線を追い掛けてた。
……綺麗な女の人が、一人、悲しそうに俯いてベンチに腰掛けてる…
「あの人は?」
あたしより、五つくらい年上かな。…丁度、若者の姿になったヴェストルと同じくらい…
「彼女は、もう随分と長い間、この星夜の町に住んでいるんですよ」
「住んでるの?」
だから、ヴェストル…あの人の事知ってるんだ。
…あれ? …あたし…何か、変……胸の奥に、小さな針が刺さったみたい……
「さやかさん。どうかしたんですか?」
「あっ! ヴェストルさん…」
その人、急いで立ち上がって…歩み寄ったヴェストルを迎えてる。
…柔らかくて、いつも微笑んでるような優しい瞳をしてる…頭の上でね、手入れの行き届いた髪を一つに束ねてるの。とっても素敵な女性……
その人ね…座る所を作りながら……ちょっと、頬を染めてる気がする……
「あの、そちらの方は?」
「綺美星さんです。…美星さん?」
「あっ、初めまして…」
やだ…あたし……
…きっと、今…とっても嫌な顔して笑ってる…
……だって…だって、とってもお似合いなんだもん……
「今日は、どうしたんですか? とても悲しそうでしたが…」
「…はい」
ヴェストルを挟んで、あたし、黙って腰を下ろしてた。
やだ…あたし、どうしよう……
……胸が痛いよ…
「ヴェストルさん、私…今日、とても親しくしてもらっていた方を…姉のように思っていた方を亡くしたんです……」
…え?
あたし、思わず顔を上げてた。その表情に気付いて、ヴェストル、あたしに説明してくれたの。
「さやかさんは、心臓が悪いんですよ。今、この病院で移植を待っているんです」
「…じゃぁ、その人も…」
さやかさん、小さく頷いてる。
「はい…同じように、心臓移植を待っていたんです。
二年前、私が入院した時には…秋恵さんは、もう、既に一年間臓器の提供を待っていました」
ちょっと待って! じゃぁ、もう二年間も待ち続けてるの…?
「私と秋恵さんは年齢も近くて…すぐに、色々な事を教えてもらいました。秋恵さんを通じて、看護婦の方々ともお話をするようになりましたし…病院の事も、そうでない事も…本当に、沢山教わったんです。
…ヴェストルさん…秋恵さんは《本当》に姉のような方でした。…辛くて悩んだ時も、いつも力になってくれたんです…
私が病気の事で弱気になった時にも、いつも叱ってくれました……『駄目よ、あなたと同じくらい、家の人も不安になって苦しんでるんだから。あなたが元気な顔を見せないといけないのよ』って……よく、そう言われました…」
さやかさん…淡々と話してる。とっても強いの…あたしなら、きっと…悔しくて、悲しくて…泣きながら怒鳴ってると思うもん。
ヴェストル……瞳を閉じて、黙って聞いてる…
「いつも…本当にいつも傍に居てくれたんです。…つい、昨日迄は……」
少し、さやかさん、震えてる…
…ううん、あたしだって…
「……急に、容体が悪化したそうです…ついさっき……息を引き取ったばかりなんです…
医師の方々は、残念そうに『彼女は移植のタイミングを逃したんだ』って…そう言っていました。ヴェストルさん…実は先月、…脳死状態の方から心臓の提供があったんです…でも、一番長い間待っていた秋恵さんは、その心臓を一番若い人に移植してください、って…そう頼んだんです。
……その時には、私達も賛成していましたが…ですが……」
「…さやかさん、変えられない事を悔やむべきではありません」
ヴェストル! そんな事、…そんな事言わなくてもいいじゃない! さやかさんだって、きっと分かってるんだから…
「はい…ですが、これが《運命》なら…余りにも悲しいんです……
……怖いんです、ヴェストルさん…」
さやかさん、ヴェストルを見上げてる…ヴェストル、頷き返して…
あたし…あたし……
…苦しいよ……痛いの…体中が痛いの……
「今度は、私が死ぬかも知れない……それが恐いんです…」
「ですが…」
ヴェストルの言葉を、さやかさん…にっこり微笑んで止めさせてる…
「はい…分かっています。ですが…『回帰』に依って《私》が失われるかも知れない……その事は、やはり恐いものなんです…」
「…ですが…さやかさんは、早く移植をしてくれとは決して言われませんね」
…え? …どうして……
あたし、ちょっと顔を上げてた…
「それは……ヴェストルさん。…私が移植を望む事は、それは…私が誰かの『死』を望む事にもなりますから…」
「…そんな!」
辛かったけど……でも、でもね…あたし、叫んでた…
「美星さん…」
ちょっと驚いた顔で、さやかさん、あたしを見てる…あたし、自分の気持ちを悟られそうで……
でも、顔を背ける前に…さやかさんね、優しく笑い掛けてくれたの。
「美星さんは、脳死状態の方を見た事がありますか?」
「う、ううん…」
「確かに、機械や薬を使って心臓を動かしているんですが…まだ、血は通っているんです……体が温かいんです…
医学的には、既に『死んで』いるんですが…ご家族の方々には、とても死んでいるようには見えません。まだ、皮膚も柔らかくて…すぐにでも治りそうなんです。この人は、もう立ち上がる事は無い……ご家族の方々も、意識の上ではよく分かっています。ですが…
人は、その脳死状態の方の温もりに、『万が一』を期待するものなんです……」
「……」
「美星さん…そんな方々に、心臓を取り出す事を承諾してもらえるでしょうか。…まだ温かい…血の通う体から、臓器を取り出す事になるんです……それは、『若しかしたら』と思っていた『死』を…《本当》にしてしまうんです……」
…そんな…そんな……
「…臓器移植は、亡くなられた方がいて初めて成立するものです。『死』がなくては存在し得ないものなんです…
……私は、その『死』を望んでまで、生きていくつもりはありません……」
そうかも知れない…そうかも知れないけど…
…あたし、しっかりとさやかさんを見て口を開いてた。
「あたし…あたしだったら、きっと…そうは思わないわ」
「美星さん…」
「『死んでいるようには思えない人』が《本当》に『死んだ人』になる…その悲しみは、とっても大きいと思う…でも、でもね? …それは機械や薬で動かし続けた心臓が、衰弱して…力尽きて止まったとしても同じなのよ…
違うのは、『長さ』だけ…ううん、それだって…《本当》に患者がどっちを望んでるかなんて分かんないわ」
「……」
「若し、あたしが死んだら…」
あたし、ちょっと息を吸い込んで…
「…ただ、灰になるなんて嫌だもん。
あたしなんて…生きてる間、きっと誰の為にもなれないから……せめて、この臓器くらい使ってもらって、役に立ちたいの…
きっとね、皆は悲しむと思う。でも、でもね…あたしは、役に立てた事を喜んで欲しいのよ…
移植をして、その人が幸せになってくれたら…あたしも『幸せ』なんだもんね……」
……あのね…あたしの友達にも…三歳の時に移植手術を受けた子がいるの。あの子くらい、楽しく真剣に生きてくれるんだったら…きっと、あたしは移植した事を嬉しく思うわ。
…その子ね、一日一日をとっても大事に楽しんでるの。毎日、朝と夕方に金色の免疫抑制剤を飲んで…その薬、一生飲み続けないと、拒絶反応が起こるかも知れないんだって。
でも…でもね、その副作用で…免疫力が低下してしまうから、ちょっとした病気にもすぐ罹っちゃって…死ぬ事だってあるそうなの…
だから…その子ね、一度だけしんみりと話してくれた事があった。
「私はね…将来の事なんて考えたりしないの。朝、気持ち好く目が覚めて…楽しく皆と遊んで…夜、ベッドに入ってから…あっ、今日も一日無事に過ごせたんだ、って……それだけを感謝して生きてるのよ」
臓器移植を受けたって、完全に健康で元気な体になるわけじゃないの。でも、でもね? その子、毎日を嬉しそうに暮らしてるの…《本当》に『幸せ』になってるのよ…
きっと、臓器の提供者は喜んでくれてるわ。もう、自分では使えなくなった『体』で、『幸せ』になった人がいるんだもん…
「…海外の方の中には、そう思われる方もいると思います。他人の体の中とは言え、一度は『死』を迎えた方が生き続けているんですから…
ですが、私や、多くの日本人は、まだそれ程まで割り切る事が出来ません…臓器は臓器…死んで逝った方、そのものではないんです……」
「海外には…」
さやかさんの静かな言葉に、あたし、尋ねようとして…
でも、でもね…すぐに止めてしまったの。
「…費用がかかり過ぎるんです。今迄の二年間の入院費だけでも、父や母の負担になっているのに…更に、数千万円の治療費を出すなんて、とても無理なんです…
それに、海外へ行ったからと言って、すぐに提供者が現れるわけではありません。その提供者が見付かるまでの間、付き添いの方も必要になります…
勿論…父や母は無理をしてでも、…私が望めば、行かせてくれると思います。ですが…私はこの日本に残って待つ事にしたんです……頼んで、半ば強制的に臓器を提供してもらうのではなく…自ら提供する意思のある方の臓器を、私は待つ事にしたんです…」
さやかさん…
「…ですが……もう、秋恵さんも亡くなって……」
震えてる…さやかさん、急に震え出してる…
「今迄のように、待てるかどうか…不安なんです……
……恐いんです…ヴェストルさん…」
ヴェストル…縋るようなさやかさんの視線に…そっと…温かい微笑みを向けてる……
あたし…あたしだけのものだって……ずっと…そう、思ってた…
駄目…涙が出てきそう……
……辛いよ…ヴェストル…
「さやかさん…もう、恐れるものなんてありません」
そっと…肩を抱き寄せてる……やだ、やだ…あたし……
…もう……
「ヴェストルさん…」
「もう…終わったんですよ…」
ヴェストルの静かな口調に驚いて…あたし…思わず見上げてた。
さやかさんも目を見開いて…ううん、すぐに素敵な笑顔を見せてる……
「…はい、ヴェストルさん」
うっすらと涙を浮かべて…抱いて、る…ヴェストルに……
寄り掛かってるの…
…きっと、……やっぱり…さやかさん……
「又、思い出した時には…ここに戻ってきて下さい」
ヴェストル…さやかさんの額に…そっと……
キス…して、る……
…そんな……そんな…あたし……
……あたし、声も出さないで…泣いてた……あたし、…哭き出してた…
「…はい。…有難う御座います」
さやかさん、幸せそうに微笑んで…
あたし、辛くて…目を逸らそうとして……
……? …さやか、さん…?
さやかさんが…薄れてく……ヴェストルの腕の中から、消えて…?
…あたし、濡れた瞳の儘、呆然とヴェストルを見てた。
「さやかさんの恐怖は、三年前に終わったんですよ」
重い声で…ヴェストル、背中を向けて話してる…
…あたしを見ないで話すなんて……初めてだった……
「秋恵さんと同じように…容体が急変して…それ程の苦しみも感じないまま、彼女は死を迎える事が出来たんです…」
じゃぁ…さっきのさやかさんは…幽霊なの?
「…はい。…亡くなられる前にも、幾度かこの町へ遊びに来ていたんですが…今では、完全な住人となっています。ですが……この、苦しみや悲しみを癒してくれる世界でも…時折、辛かった頃の記憶を思い出す事があるんです。…そんな時、必ず彼女はこの病院の前庭に来るんですよ…
自分の病室から、いつも眺めていた…元気になって歩く事を夢見ていた前庭に……」
そんな…じゃぁ、移植は…
…そんな……
……それに、さやかさんは…ヴェストルの事…
…あたし……
「…で、でも…ヴェストル……さやか、さんを…」
言うの…? …本当に……
「…助け…助けられなかった、の…? …さやかさん…きっと、ヴェストルの事が……『好き』、で…」
小さな…掠れる声で……
「……」
ヴェストル…
…駄目…涙が…止まらない、よ……
「…定められた事でしたから」
暫くして…ヴェストル、そう呟いてた。
「それに……『死』は恐れるものではない…彼女は、それを知っていたんですよ…
美星さん…『死の苦しみ』は畏れても仕方無いと思います…ですが、『死』そのものを恐れる必要は無いんです。『死』は《唯一の本質》への『回帰』であり、『昇華』なんですから…
…多くの人間は《個》の消失を恐れますが…《個》とは《本質》の一要素であり、極言すれば《本質》と同じものです。《個》が肉体とは異なる《光》である事を知っているのなら…死も苦しみも、その人には《無》となるはずです……
……さやかさんは、それを知っていたんですよ…」
ヴェストル、振り返ろうとしてる…
「美星さん…」
あたし、泣いてるところなんて見せたくなかったから…そっと、俯いてた……
「…確かに、さやかさんは僕を愛してくれました…」
「……」
…やだ…もう……
胸が痛い…痛い、よ……
……ヴェストル…あたしは…
あたしは……
「ですが、僕には応えられなかったんです…
……僕には、既に心に決めていた人がいましたから…」
(……!)
そんな…! …そん、な……
……もう…聞きたくない…
苦しいよ…寂しいよ……
…ヴェストル……
「美星さん…」
やだ…肩なんて抱かないで…
このまま…哭かせて……そっとしておいて…お願い…
「美星さんなんです。…僕が『好き』なのは、美星さんなんですよ……」
……え…?
あたし……泣きながら、ヴェストルを見上げてた…
……《本当》…に…
「美星さんが生れた時から、僕はずっと美星さんの事を知っています。いいえ…それ以前の事でさえも…
僕のような『存在』が、『人間』の美星さんを愛しては迷惑だとも思ったんですが……」
う…ううん! そんな事、絶対に無い……
あたし…あたし……
あたし、嬉しくって……しゃがみこんで、又…泣き出してた……
「この楽しい一時を終わらせる事が恐くて…なかなか言い出せなかったんです。
……美星さん…やはり、迷惑でしょうか……若しも、そうなら…僕は、もう来ません…」
「ううん! 来ないなんて言わないで…あたしも、ヴェストルの事、『好き』なんだもん……ずっと…ずっと……初めて逢った時から、ずっと『好き』なんだもん…」
「美星さん…」
赤くなりながら、告白してくれたヴェストルって…『人間』と同じなの……
あたし、ヴェストルに抱き着いて…思い切り…声を上げて泣いてた……
「…嫌われるかと思っていました……」
「冗談じゃ…ない、わ……誰にも、…ヴェストル、を…取られたくないもん…」
「有難う御座います…」
しゃくりあげてるあたしを…ヴェストル、しっかりと抱いてくれる……
あたし…深い、藍色の瞳を見上げて……
…ヴェストル…そっと……
……キス…してくれたの…
もう…きっと……どんな苦しみだって耐えられる…
……ありがとう、ヴェストル…
5 水曜の不天 おわり
涼風駈ける 緑陰の下
夕づつ愛せし『歴史』の『樹』を
わたしは見上げ 胸に呼ぶ…




