表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星斗幻想紀  作者: 風光
1/12

1 月曜の光風

         私達は、あれらをどう扱ってもいいのよ…




 まったく…いつもと変わらないぐらい、綺麗な夕焼けなんだから……

 あたしね、その日、珍しく溜め息なんて吐いていたの。

 …だって…だって、仕方ないじゃない…?

 中学二年生の夏から、ずっとベッドの上にいて…足が動かなくなったことなんて、もう気にしてなかったのに…

 でも、でもね? …だからって、「もう、治らないんですね…」なんて…そんな母さんの呟き、聞きたくもなかったわよ…!

 原因も分かんなくて…ね。心の底じゃ、そうかも知れない、って考えてたけど…でも、月に二回も検査をしてもらってるし、もしかしたら…って。

 …そう思ったって、いいじゃない。

 折角、三年生になったんだし…礼奈と一緒に受験勉強でもして…

 でも、でもね…もう、それも無理なのよ。

 …だから、あたし…ほんのちょっと、泣いてたの。

 勿論、ちょっとだけなんだけどね。

 そう、もう避けられない事で悲しむなんて、らしくないんだもん。

「あっ…」

 今、金星の輝きが強くなった気がする。

 あたしの部屋の窓ね、西に向かって大きく開けてるの。いつも、出来るだけ大好きな星が見られるようにしてもらってるのよ。前ね、そんなあたしの話を聞いて「美星じゃなくて、見星ね…」なんて礼奈、くすくす笑ってたけど…う〜ん、ちょっと許せないな。あたし、結構この名前が気に入ってるんだから。

 その星の中でもね、あたしは金星が一番好き。茜色の空を背景にして、あんなに綺麗な黄金色に輝けて…とっても羨ましい気がする。勿論、あたしが見れるのは宵の明星だけなんだけどね。

 でも、でもね…? 今日は、何だか、特別に強く光っているみたい。瞬きもしないで、じっと見つめてきてくれる…励ましてくれてるのかな? なんて。

 …本当に、あたし…ちょっとどきどきしてる。


 この日はね、『特別』な事ばっかり詰め込まれてたみたい。

 あたしがそうやって、暮れていく夕空を黙って見ていると…急に、その窓の外から、若い男の人の声が聞こえてきたのよ。

「やぁ、元気になられたようですね」

 え? …えぇぇ〜!

 優しそうな声だったんだけど…でも、でもね? 窓から不意に一人の小人が入ってきたら、あたしだって死ぬほど驚くわ。

 小人の年齢ってよく分かんないけど、にこにこした丸顔はあたしより五つぐらい年上かな。帽子を軽く被ってて、どっちかって言えば落ち着いた服装なの。

 その小人ね、ベッドの上で半身を起こしてるあたしに近付いてくると(空を飛んでるのよ! でも、何だか別に不思議じゃないみたい)ちょっと痩せたかなって思う指先をとって、にっこり微笑んでくれたの。

「僕は、ヴェストルと言います。どうですか、美星さん。星夜の町に行ってみませんか?」

 ヴェストル? 黒くて短い髪の下に見えてるのは、普通の藍色の瞳なんだけど。混血なのかな…あれ? 小人なんだもんね、別に国籍なんて…

 えぇ〜ん、あたし、今、とっても混乱してるぅ。

「さぁ、立って下さい」

 立って下さいって言われても、あたし……

 なんて言おうとした時には、もう、あたし、ベッドから降りてたの。でも、でもね…全然、不思議に思えないのよ。

「そうですよ。僕がお誘いしたんですからね」

 そんな、簡単に言わないで! 大体、どうしてあたしまで、部屋の中に浮かんでるのよ。

「僕と一緒なら、別に何でもありません。さぁ、美星さん」

「さぁって…」

 …あ〜ぁ。あたし、今日一日くらいは『悲しみに耽る女の子』してたかったのに! どうして、窓の外に飛び出さなくちゃいけないのよ。

 そりゃね、ブルーになるなんてらしくないけど、でも、でも今日くらいぃ〜

「もっと、高くまで行きましょうか」

「え?」

 ちょ、ちょっと待ってよ! わっ、わわわっっ!


 …これくらい高く昇ると、空も綺麗ね。オリオンがとっても近く見えるし、シリウスなんて相変わらず冷たい感じだけど、金星が妬むくらいの澄んだ光を放ってるじゃない。

「どうですか?」

 分かってるわよ、ヴェストル。あたし、こんな星空が見られてとっても満足してるわ。でも、でもね? こんな高い所まで連れてこなくてもいいじゃない。それに、他の日でもよかったんでしょ?

「美星さん、今日は沈んでましたからね。金星の煌めきを強めたりもしたんですが、どうしても腑甲斐無さを感じて…思わず、自分で飛び出してきてしまったんですよ」

 少し照れたように、ヴェストルがそう言ってきたの。

 …え? 金星を、って…

「西方に輝く間は、僕の管轄ですからね。別に不思議ではありません」

 そう? とっても奇妙な話だと思うけど…

 でも、あたしね、尋ねるのも馬鹿らしく思えてきたのよ。

「…ねぇ、そろそろ下りない?」

「そうですね」

 あたしの指を引いて、ヴェストルが先に落ちていく。あたし、もう一度だけ、満天に広がる宝石の群れを振り返ったの。

 正直に言ってね、この小人が連れてきてくれたお陰で、足の事なんてすっかり平気になってたのよ。こんな『素敵』な夜空の下では、ちょっと情けないくらい些細に思えるんだもん…

 ね。


 だんだん、地上の形が見えてくる。マッチ箱くらいにしか見えなかった塊が、ちゃんと高層ビルに変わっていくのよ。あたし、そんなに高くまで昇ってて、全然恐くなかったの…ヴェストルが指を放したら、落ちてたかも知れないのにね。

 あれ? 何か、変な感じがする。…まるで、人が居ないじゃない。

 ビルの隙間にね、青くて分厚い闇が流れてるの。でも、でもね。それ、淡く澄んだ暗闇で…柔らかな毛布みたいかな。霞がかかったみたいに、殆ど何も見えないのよ。

「星夜の町で見えるのは、ほんの僅かな存在なんです」

 道のすぐ上をね、あたし達、飛んでたの。本当に、誰も居ないのよ…やっぱり、気味が悪いじゃない? だから、あたし、小人に文句を言おうとして…

 その時、一つの明かりを見つけたの。

 急いでヴェストルから指を放して、あたし、道路に飛び降りてた。だって、ね? 小人より、やっぱり普通の人の方がいいじゃない? しかも、その窓から漏れる灯りで照らされてたのが、友達だったんだもん。

「夕子!」

「……?」

 小さな家の門に駆け寄ったあたしに、夕子も気付いて出てきてくれる。半年ぶりで、とっても懐かしくて…あっ! あたし、でも、本当は足が動かなくて……

「ミホじゃない! よく『子どもの家』が分かったね」

 あれ? 夕子、足の事なんて全然気付いてないみたい。『子どもの家』…? そう言えば、夕子、そんな所でアルバイトしてたかな。

「なぁんだ、デートの途中だったの?」

夕子の言葉に、あたし、とっても驚いてた。だって、あたし、誰とも…

「違いますよ。美星さんとは、つい先程知り合ったばかりですからね」

 愉しそうな声に、あたし、慌てて振り返ってた。ちょっと待ってよ! 小人なんて見たら、夕子、気絶するじゃない!

 …そう思ったのに、ヴェストルなんてそこには居なかったの。代わりに立ってたのは…細面で、柔らかな髪をした優しそうな男の人。藍色の瞳がとっても深くて、静かで…ちょっと、冷たいくらいかな。

 でも、でもね? とっても格好良いのよ! 思わず真っ赤になって、どきどきしちゃったくらい。

 あれ? …でも、あたし……この人、前に見た気がする……

 それに、さっきの声、ヴェストルの……まさか…

「ねぇ、ミホ、中に入ってみる?」

「そうしましょうか、美星さん」

 茫然としてるあたしなんて無視して、二人とも仲良く『子どもの家』に入っていくじゃない。あたし、大急ぎでその男の人を捕まえて、囁いてたの。

「ちょっと! そんなに大きくなれたの?」

「はい。それに、僕が一緒なら足の事も気付かれませんよ」

 平気な顔で、当然みたいに話さないでよ!

 でも、でもね…う〜ん。この顔じゃ、文句も言い難いのよ。本当に、格好良すぎるんだもん。

「早く!」

「う、うん」

 暫く、ヴェストルとは話をしない方がいいみたい。ちょっと、落ち着いてから…ね。


 こぢんまりとした玄関。とっても綺麗に整えられてる。

「あっ、また…」

 急に夕子が正面にある掲示板に駆け寄ったの。

 見たら『AIDS撲滅!』って書かれたポスターに、太くて赤い線が乱暴に引かれてる。

「…え? どうして…」

 だって、ここ…HIVに感染した子ども達が居るんでしょ?

 あたしの不思議そうな視線に気付いて、夕子は恥ずかしげに話してくれたの。

「こんな言葉を使わないでおこう、って人達がいるの。ボランティアをしている人の間でも、意見が分かれてるのよ。AIDSになった人達に、早く死ねって言ってるようだ、って…」

「まさか! そんなはず、ないじゃない? ここに居る子ども達にだって分かるわ。気の遣いすぎよ」

 あたしの言葉に、夕子も頷いてる。

「でも、日本人って遠回しに言うでしょう? 曖昧にして…」

「でも、それってきっと、偽った優しさだと思うの。だって、AIDSっていう病気はなくさなくちゃいけないんでしょ? だったら、それははっきり言うべきよ」

「皆が、ミホみたいならいいんだけどね…」

 そう呟いた夕子って、何だかとっても疲れてたみたい。

「おや。男の子が、部屋から出てきてますよ」

 急に、ヴェストルの声がする。陽気な感じなんだけど…変におかしくなったあたし達を暖かく包み込んでくれる、そんな声。

「駄目じゃない、まぁくん!」

 そのまぁくんは、夕子の姿を見付けて、嬉しそうに近付いてくる。

 …とっても、痩せてるの。夕子に伸ばしてくる腕なんて、骨にしか見えないじゃない…

「この子ね、今日はとっても調子が良いのよ」

 軽々とまぁくんを抱き上げてる夕子の言葉は、ちょっと信じられなかった。だって、明るく微笑んでるんだけど…こんなに痩せ細ってて、今にも倒れそうなのに…

 …調子が良いなんて……

 夕子ね、部屋に入ってその子をベッドに戻してる。

「お姉ちゃんも、もう帰るからね。ベッドから出たら駄目よ?」

「いや…帰らないで」

 四歳にしかなってないまぁくんが、必死でしがみついてる。あの頼りない腕で、出せるだけの力で…

 でも、でもね。夕子、少し厳しいくらいにその腕を解いたの。

「又、来るからね」

「…飴、くれる?」

「えぇ、いいわよ」

 夕子、それ…

 …やっぱり、まぁくんは飴を放り投げてたの。だって、きっと、帰ってほしくなかったから…何かをねだって引き留めたかったから……ね。

「夕子、あたしが押さえとく?」

 部屋を出てしまえば、諦めると思うのよ…

「お願い、ミホ」

 だからね、あたし、まぁくんに触ろうとして…

 …そう、本当は、少しだけ恐かったの。でも、でもね? こんな事で感染しないことも知ってたのよ。

 真剣に見守る夕子の前で、あたし、すぐにまぁくんの腕を取って宥めてた。

「又、今度ね。まぁくん」

「やだ! …帰らないで!」

「そうもいかないのよ。我慢しなさい」

 あたし、なんて酷い言い方してるのかな…

 まぁくんね、目に一杯の涙を浮かべてあたしを睨んでくるの。

 あたし、それ以上、何も言えなくて……

 その時ね、そっとヴェストルが近付いてきたの。そして、まぁくんの額に優しく手を翳してる。

「お休みなさい、まぁくん」

 ふっ…と瞼が閉じられて、可愛い寝息が聞こえてくる。

 ……ふ〜ん…


 あたし、部屋の外に出ると、待っててくれた夕子に少し気になって尋ねたの。

「ねぇ、まぁくんに親はいないの?」

「…ううん、いるわ」

「なんだ、じゃぁ、考えすぎだったのね。あたし、母さんとかがいないから、あんなに夕子を慕ってるのかと思ってた」

 そんな風にあたしが言ったら、夕子、とっても悲しそうな目をしたの。

「ミホ…まぁくんね、両親はすぐ近所に住んでるのよ。でも…あの子が生まれてから、一度も会いに来たことがないの……」

「え?」

「四年間も、まぁくん、『親』が何かも知らないで生きてきたのよ。HIVに感染していることが分かってから…

 …捨てられたのよ……」

「そんな!」

 じゃぁ…四年間、母親も父親も知らなくて…家族って何かも分からないで……

 …そんな……

「まぁくんにはね、きっと、どうして自分にだけ『親』がいなくて…どうして、外にも出られずに、こんな所に居なくちゃいけないのか…全く分かんないはずなのよ。

 …どうして、自分がこんな目に遭わなくちゃいけないのか…って、ね」

「そんな『人間』もいるでしょうね」

 ヴェストルが、簡単に言ってる。

 あたし、そんな他人事みたいな言葉が許せなくて叫んでた。

「ヴェストル! そんな言い方ないじゃない。可哀相と思わないの?」

 でも、でもね…ヴェストル、冷たい静かな瞳であたしを見てくるのよ。

「美星さん、僕はそう思いません。彼等だって、頑張って生きてきているんです。それを可哀相だなんて言うのは、失礼でしょう」

 …! そう、かも知れない…そうかも知れないけど……

「美星さんは、お優しいですからね」

 鋭さの消えた視線が、大きな優しさを込めてあたしを見てくれる。でも、でもね…

 あたし、目を逸らせたの。何だか、とっても遣瀬無い気がする…

「…ミホ、一緒に帰ろうか」

 夕子、あたし達の変な空気を察して、返事も聞かずに仕度をしてる。

 あたしね…正直に言って、もうヴェストルとは離れたかったの……

 塞いでいた気持ちを慰めに来てくれたのは、とっても感謝してる。でも…小人だからかな。ちょっと、あたし達とは違うみたい…


「少し、寒いくらいですね。美星さん、大丈夫ですか?」

 どうして、こんなに明るく話せるのかな。あんなに冷たい言葉を言ったのに…

 …ううん。きっと、ヴェストルにしてみたら、冷たくなんてなかったのよ。それが《真実》だから……

 でも、でもね? 《真実》を告げるばかりが、良いことじゃないでしょ?

 ……これって、あたしが優しいから…?

 ううん、違う……

「それじゃ、夕子さんはアルバイトにしてもらえたんですね」

「はい。本当はボランティアでいきたかったんですけど、父親がいないから、って…気を遣っていただいて、アルバイトで雇ってもらえたんです」

 あたしが口をきかないから、二人とも、気にしてくれながらも勝手に話を続けてる。

 う〜ん…ちょっとブルーになってるかな、あたし…

 今気付いたら、いつの間にか夕子のマンションまで来てるじゃない。

 その時ね、夕子が声を掛けてきてくれたの。

「ねぇ、ちょっと寄っていかない?」

「でも、もう遅いわよ」

「大丈夫!」

 ちょっと疲れてる気がするし…ここは甘えようかな。

 エレベーターに乗り込む頃には、あたし、すっかり元気になってた。ヴェストルも、後ろにさがって聞き役になってるし…

 それにね、ヴェストルのことで、あたしがそんなに気を揉む必要なんてないじゃない? あたしは、あたし。考えが違ったって、それは『当然』なんだもん。

「夕子の妹って、何歳になった?」

「やっと一年生よ」

「そうよね。そろそろ生意気になってくるわよ、きっと」

「まさか。あんなに大人しい子も珍しいのよ」

「だって、夕子もそう言われてたじゃない」

 まだ、夕子も大人しい方なんだけどね。

 あたし、半年ぶりに出歩いてることなんてすっかり忘れて、夕子と笑いあってた。

 でも、でもね…こうしていられるのも、ヴェストルのお陰なのよ…

 何だか、とっても複雑な気分。

 見えてきた玄関だって、もう二度と歩いては来られないと思ってたんだもん。

「……!」

「あれ?」

 夕子の家の中から、悲鳴と鳴き声が微かに漏れてきてる。

 あたし、夕子と顔を見合わせて、急いで駆け出してた。

 どうしたんだろう…

「お母さん? …陽子?」

 扉を開けて中に飛び込んだ途端、妹の陽子ちゃんが夕子に抱き付いてくる。

 …え? あの、腕の赤い傷は…噛み傷?

 夕子、恐怖で震えてる陽子ちゃんを抱きながら、不安そうにあたしを見てくるの。でも、でもね? あたしだって、これ以上中に入る勇気なんて…

 その時にね、後ろから高い施錠の音がしたの。

「行きましょう、美星さん」

 ヴェストル…何だか、さっきみたいに冷たい声をしてる…

 でも、そんな事に拘ってる余裕もなかったのよ。

 あたし、精一杯の勇気を出して、靴のままあがると、すぐ目の前にある扉を開けて…

「…小母さん?」

 あたし……恐くて、身動き出来なかった…

 …だって!

 大きくね、立ち塞がってるの。…目をつり上げて…あんなに優しかった小母さんが…

 まるで、まるで…鬼みたいになって。

「お母さん…」

 茫然とした声が、後ろから零れてる…

 あたしね、その時、さっきの陽子ちゃんの傷を思い出したの。まさか、陽子ちゃんに噛み付いたの…

「丁度良かったわ。夕子、貴女にも…」

 にやっと笑って…何も言わないで…

 ゆっくり近付いてくるのよ。

 …これって…これって、きっと『夢』よね? …ねぇ、ヴェストル、そうよね?

「私だけがなんて…夕子、貴女にも感染させてあげるわ」

「え?」

 あたし、その言葉の意味を考えたりも出来ないまま、夕子の前に立ってたの。だって、小母さん…今にも、夕子に掴みかかろうとしてるんだもん。

 ヴェストルも、音もなくすぐ傍に来てくれる。ちらっと見上げたその横顔にはね…でも、まるで、表情なんて無かったの…

「陽子はね、私が噛み付いたから、もうきっとHIVに感染してるはずなのよ。夕子だって、これから一人で生きていたくないでしょう?」

「HIVに?」

「そうよ。私はどうせ死ぬの。

 だから。貴女達も道連れにしてあげるわ」

 小母さんね、薄く笑ったままで話してる…

 逃げ出したいよ…こんなの、見ていたくない……

「こんなに、苦労してきたのに…私だけが死ぬなんて…

 そんなこと、させないわよね? 夕子、私だけを死なせないわよねぇ…」

 静かに、呟いてる…まるで、あたし達が聞いてなくてもいいみたいに…

「…HIVに感染した腹いせに、この少女に噛み付いたんですか」

 その時、ヴェストルが口を開いたの…氷みたいに、掴み所のない厳しい声で…

「そうよ。どうせ、私が居なければ生きていけないもの。一緒に死んでもらうわ」

「でも…でも、AIDSになるまで、潜伏期間もあって…!」

 あたし、必死になって叫んだのに…小母さん、こっちを見て嘲笑ってる。

「結局は、死ぬんじゃない。なら、そんなものはどうだっていいのよ」

 そう言って、小母さん、急に思い出したみたいに右手のキッチンに飛び込んだの。でも、あたしが動こうとする前に、小母さん、手に……

 包丁を持って、戻ってきたのよ…

「そうよ。今死んでも同じじゃない。どうせ、私が居なければ生きていけないもの。だから、私は頑張ってきたのよ。

 夕子、もう感染なんて面倒なことはしないわ。皆、今ここで、私が殺してあげる!」

 夕子、そんな言葉を聞かせないように、陽子ちゃんをしっかり抱き締めてる。

 あたし、もう…どうしたらいいのか分かんなくて……

 …泣きたかった。…思い切り、泣きたかった。

 でも、でもね…あたしより、夕子の方が…

 だから、あたし…必死になって涙をこらえてたのよ……

「今では、その潜伏期間も伸ばすことが出来るんですよ。感染したからと言って必ずAIDSを発病するわけでもなく、すぐに死ぬことはありません」

 胸元で腕を組んでね、ヴェストル、見下すように言ったの。

 そんな態度に、小母さん、狂ったみたいに叫んでる。

「うるさいわよ! そこ、どきなさい!」

 包丁が振り翳されて…

 …でも、でも…あたし、夕子を庇い続けてた。包丁が迫ってきてもね…逃げ出したりしなかったのよ…

 だって…ね。あたし、本当は足が動かなくて…もう、外に出ることも出来ないのよ。でも、夕子は違うわ。あのまぁくんにとって、夕子はいなくちゃいけない大事な人なの。あたしなんかとは、違うのよ。

 包丁を握った手が、すぐ傍まで来てる。…あたし、目を閉じようとして…

 …その時ね、ヴェストルが小母さんの腕を掴んでくれたの。

 すぐ横から、静かな声が聞こえてくる…

「僕は、貴女が自暴自棄になって誰を殺そうと構いませんが…美星さんを傷付けることは、絶対に許しません」

 …ヴェストル……

「放しなさい!」

「分かりました」

 ヴェストル、掴んでた腕を軽々と突き放してる。そして、感情なんて少しも見せないで続けてたの。

「貴女にとって、今死ぬことも、何年か後で死ぬことも同じだと言うのでしたら、僕は止めませんよ。

 すぐに、その手にしている包丁で、喉を掻き切ってしまったらどうですか?」

「そんな!」

 慌てて見上げたら…ヴェストルね、あたしには優しく笑ってくれてるの。安心してもいいみたい…思わず、そんな気になるのよ。

 それにね…こんな時なのに、格好良すぎるんだもん。

 ……どきどきしてくるのよ。


 小母さん、じっと手の中の包丁を見つめてる……

 ちょっと恐い静かな時間が流れて…

 でも、でもね。やっぱり…小母さん、自分の手で死ぬことは出来なかったのよ……


 ヴェストル、暫くしてからそんな動けない小母さんに向かって言ったの。

「子どもは、貴女の玩具じゃありません。貴女に、夕子さんや陽子さんを殺す権利なんて全く無いんですよ。

 ですが、自殺する権利はあります。ですから、そちらの方はお好きなようにして下さい」

「私、私…」

「死を与えようとした者が、死を畏れるとは不思議なものですね」

 ヴェストルね、静かにそう言って背を向けてるの。

 玄関から、外に出ようとしてる。

「ちょ、ちょっと!」

 あたし、ヴェストルを慌てて追い掛けたの。夕子も、陽子ちゃんを抱き上げて続いてる。

 下に降りる階段の近くで、ヴェストル、やっと振り返ってくれた。

「大丈夫ですよ、美星さん。あの人は、もう二度とあんな事はしませんから」

「でも…」

 このまま帰るなんて…あたし、出来そうにない…

 何が出来るかなんて分かんない。…ううん、何も出来ないと思う。でも、でもね? あたし…

 その時ね、後ろからしっかりとした声が聞こえてきたの。

「…大丈夫。ミホ、後は何とかしてみるわ」

 夕子……

 とっても真剣で…悲しみなんて、打ち砕いてる…

 夕子って、こんなに凄い力があったんだ。

「夕子さん、陽子さんは感染していませんよ。そして、もう一度、あの人の検査もやり直してみてくれませんか」

「え?」

「人間は、多くの間違いをするものですからね」

「…はい」

 夕子、力強く頷いてる。

 あたし、あたしには…頑張ってなんて言えなかった。きっと、夕子は精一杯するはずだもん。

 だから…ね。最後は…そっと握手しただけで別れちゃったの…

 でも、でもね…あたしの気持ち、分かったよね? きっと……


「ねぇ、本当に小母さん、感染してないの?」

 随分経ってから、あたし、歩きながら後ろのヴェストルに尋ねたの。そしたら、足下から答えが返ってきたのよ。

「えぇ、もう治しておきましたからね」

 見たら、また、小人になってるじゃない。あたし、呆れたように言ってた。

「ねぇ、どっちが《本当》のヴェストルなの? さっきは、少し恐かったけど…」

 それに、あんなに格好良かったのに。小人じゃ…ねぇ。

「《本当》なんて、ありませんよ。《本当》とは虚無ですし、無限なんですから。それは《唯一の本質》に繋がる、一つの『様相』でしかありません」

「…分かんないわ」

 あたし、正直に応えてた。

 でも…

「ヴェストルは、ヴェストルなんでしょ?」

 窓からベッドに飛び込んで、あたし、そう尋ねてた。そしたら、小人の姿のヴェストルが、温かな目で諾ってくれたのよ。

「そうですよ、美星さん」

「じゃぁ…」

 そう、何だか…今になったら、もっとここに居て欲しい気がする。あんなに、大嫌いなところもあるんだけど…でも、でもね…

 ヴェストル、そんなあたしに、そっと笑い掛けてくれたの。

「はい、また来ますよ。綺麗に晴れ上がった夜に」

「うん!」

 だんだんと消えてくヴェストルを、あたし、少し寂しく見送ってた。

「きっとよ!」

 しっかりと頷いてくれる。

 本当に、もう一度逢えるかな。

 …でも、きっと…そう、きっとまた逢いに来てくれる。

 あたしには、それが分かってたのよ。


 …それから三日してね、礼奈(れいな)がお見舞いに来てくれたの。部屋に入ってきたら、一瞬怪訝そうな顔であたしを見てきたんだけど…

 ヴェストルの事なんて、分かるはずないもんね。

 その玲奈の話でね…あのね、まぁくんが…衰弱して、死んじゃったんだって……

 あんなに無邪気な子どもが…明るくて、愉しげで…懸命に生きていたのに…ね……

 結局、家族なんて知らずに逝ってしまったのよ…

 …報告はね、もう一つ。夕子の小母さん、やっぱり誤診だったんだって。

 ううん、本当はヴェストルが治したんだけどね。


 早く、来てくれないかな…どうして、そんなに逢いたいのか、あたし自身にもよく分かんないんだけど。

 …自由に出歩けるから…きっと、そんなのじゃないと思う。

 う〜ん、苛々しちゃう。ヴェストル、早く来てよ!

                                                                         1 月曜の光風 おわり






     朧に霞む 天穹の許

      灰色の大地に育まれ

     一つの大樹が 腕を伸ばす・・・

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ