1 月曜の光風
私達は、あれらをどう扱ってもいいのよ…
まったく…いつもと変わらないぐらい、綺麗な夕焼けなんだから……
あたしね、その日、珍しく溜め息なんて吐いていたの。
…だって…だって、仕方ないじゃない…?
中学二年生の夏から、ずっとベッドの上にいて…足が動かなくなったことなんて、もう気にしてなかったのに…
でも、でもね? …だからって、「もう、治らないんですね…」なんて…そんな母さんの呟き、聞きたくもなかったわよ…!
原因も分かんなくて…ね。心の底じゃ、そうかも知れない、って考えてたけど…でも、月に二回も検査をしてもらってるし、もしかしたら…って。
…そう思ったって、いいじゃない。
折角、三年生になったんだし…礼奈と一緒に受験勉強でもして…
でも、でもね…もう、それも無理なのよ。
…だから、あたし…ほんのちょっと、泣いてたの。
勿論、ちょっとだけなんだけどね。
そう、もう避けられない事で悲しむなんて、らしくないんだもん。
「あっ…」
今、金星の輝きが強くなった気がする。
あたしの部屋の窓ね、西に向かって大きく開けてるの。いつも、出来るだけ大好きな星が見られるようにしてもらってるのよ。前ね、そんなあたしの話を聞いて「美星じゃなくて、見星ね…」なんて礼奈、くすくす笑ってたけど…う〜ん、ちょっと許せないな。あたし、結構この名前が気に入ってるんだから。
その星の中でもね、あたしは金星が一番好き。茜色の空を背景にして、あんなに綺麗な黄金色に輝けて…とっても羨ましい気がする。勿論、あたしが見れるのは宵の明星だけなんだけどね。
でも、でもね…? 今日は、何だか、特別に強く光っているみたい。瞬きもしないで、じっと見つめてきてくれる…励ましてくれてるのかな? なんて。
…本当に、あたし…ちょっとどきどきしてる。
この日はね、『特別』な事ばっかり詰め込まれてたみたい。
あたしがそうやって、暮れていく夕空を黙って見ていると…急に、その窓の外から、若い男の人の声が聞こえてきたのよ。
「やぁ、元気になられたようですね」
え? …えぇぇ〜!
優しそうな声だったんだけど…でも、でもね? 窓から不意に一人の小人が入ってきたら、あたしだって死ぬほど驚くわ。
小人の年齢ってよく分かんないけど、にこにこした丸顔はあたしより五つぐらい年上かな。帽子を軽く被ってて、どっちかって言えば落ち着いた服装なの。
その小人ね、ベッドの上で半身を起こしてるあたしに近付いてくると(空を飛んでるのよ! でも、何だか別に不思議じゃないみたい)ちょっと痩せたかなって思う指先をとって、にっこり微笑んでくれたの。
「僕は、ヴェストルと言います。どうですか、美星さん。星夜の町に行ってみませんか?」
ヴェストル? 黒くて短い髪の下に見えてるのは、普通の藍色の瞳なんだけど。混血なのかな…あれ? 小人なんだもんね、別に国籍なんて…
えぇ〜ん、あたし、今、とっても混乱してるぅ。
「さぁ、立って下さい」
立って下さいって言われても、あたし……
なんて言おうとした時には、もう、あたし、ベッドから降りてたの。でも、でもね…全然、不思議に思えないのよ。
「そうですよ。僕がお誘いしたんですからね」
そんな、簡単に言わないで! 大体、どうしてあたしまで、部屋の中に浮かんでるのよ。
「僕と一緒なら、別に何でもありません。さぁ、美星さん」
「さぁって…」
…あ〜ぁ。あたし、今日一日くらいは『悲しみに耽る女の子』してたかったのに! どうして、窓の外に飛び出さなくちゃいけないのよ。
そりゃね、ブルーになるなんてらしくないけど、でも、でも今日くらいぃ〜
「もっと、高くまで行きましょうか」
「え?」
ちょ、ちょっと待ってよ! わっ、わわわっっ!
…これくらい高く昇ると、空も綺麗ね。オリオンがとっても近く見えるし、シリウスなんて相変わらず冷たい感じだけど、金星が妬むくらいの澄んだ光を放ってるじゃない。
「どうですか?」
分かってるわよ、ヴェストル。あたし、こんな星空が見られてとっても満足してるわ。でも、でもね? こんな高い所まで連れてこなくてもいいじゃない。それに、他の日でもよかったんでしょ?
「美星さん、今日は沈んでましたからね。金星の煌めきを強めたりもしたんですが、どうしても腑甲斐無さを感じて…思わず、自分で飛び出してきてしまったんですよ」
少し照れたように、ヴェストルがそう言ってきたの。
…え? 金星を、って…
「西方に輝く間は、僕の管轄ですからね。別に不思議ではありません」
そう? とっても奇妙な話だと思うけど…
でも、あたしね、尋ねるのも馬鹿らしく思えてきたのよ。
「…ねぇ、そろそろ下りない?」
「そうですね」
あたしの指を引いて、ヴェストルが先に落ちていく。あたし、もう一度だけ、満天に広がる宝石の群れを振り返ったの。
正直に言ってね、この小人が連れてきてくれたお陰で、足の事なんてすっかり平気になってたのよ。こんな『素敵』な夜空の下では、ちょっと情けないくらい些細に思えるんだもん…
ね。
だんだん、地上の形が見えてくる。マッチ箱くらいにしか見えなかった塊が、ちゃんと高層ビルに変わっていくのよ。あたし、そんなに高くまで昇ってて、全然恐くなかったの…ヴェストルが指を放したら、落ちてたかも知れないのにね。
あれ? 何か、変な感じがする。…まるで、人が居ないじゃない。
ビルの隙間にね、青くて分厚い闇が流れてるの。でも、でもね。それ、淡く澄んだ暗闇で…柔らかな毛布みたいかな。霞がかかったみたいに、殆ど何も見えないのよ。
「星夜の町で見えるのは、ほんの僅かな存在なんです」
道のすぐ上をね、あたし達、飛んでたの。本当に、誰も居ないのよ…やっぱり、気味が悪いじゃない? だから、あたし、小人に文句を言おうとして…
その時、一つの明かりを見つけたの。
急いでヴェストルから指を放して、あたし、道路に飛び降りてた。だって、ね? 小人より、やっぱり普通の人の方がいいじゃない? しかも、その窓から漏れる灯りで照らされてたのが、友達だったんだもん。
「夕子!」
「……?」
小さな家の門に駆け寄ったあたしに、夕子も気付いて出てきてくれる。半年ぶりで、とっても懐かしくて…あっ! あたし、でも、本当は足が動かなくて……
「ミホじゃない! よく『子どもの家』が分かったね」
あれ? 夕子、足の事なんて全然気付いてないみたい。『子どもの家』…? そう言えば、夕子、そんな所でアルバイトしてたかな。
「なぁんだ、デートの途中だったの?」
夕子の言葉に、あたし、とっても驚いてた。だって、あたし、誰とも…
「違いますよ。美星さんとは、つい先程知り合ったばかりですからね」
愉しそうな声に、あたし、慌てて振り返ってた。ちょっと待ってよ! 小人なんて見たら、夕子、気絶するじゃない!
…そう思ったのに、ヴェストルなんてそこには居なかったの。代わりに立ってたのは…細面で、柔らかな髪をした優しそうな男の人。藍色の瞳がとっても深くて、静かで…ちょっと、冷たいくらいかな。
でも、でもね? とっても格好良いのよ! 思わず真っ赤になって、どきどきしちゃったくらい。
あれ? …でも、あたし……この人、前に見た気がする……
それに、さっきの声、ヴェストルの……まさか…
「ねぇ、ミホ、中に入ってみる?」
「そうしましょうか、美星さん」
茫然としてるあたしなんて無視して、二人とも仲良く『子どもの家』に入っていくじゃない。あたし、大急ぎでその男の人を捕まえて、囁いてたの。
「ちょっと! そんなに大きくなれたの?」
「はい。それに、僕が一緒なら足の事も気付かれませんよ」
平気な顔で、当然みたいに話さないでよ!
でも、でもね…う〜ん。この顔じゃ、文句も言い難いのよ。本当に、格好良すぎるんだもん。
「早く!」
「う、うん」
暫く、ヴェストルとは話をしない方がいいみたい。ちょっと、落ち着いてから…ね。
こぢんまりとした玄関。とっても綺麗に整えられてる。
「あっ、また…」
急に夕子が正面にある掲示板に駆け寄ったの。
見たら『AIDS撲滅!』って書かれたポスターに、太くて赤い線が乱暴に引かれてる。
「…え? どうして…」
だって、ここ…HIVに感染した子ども達が居るんでしょ?
あたしの不思議そうな視線に気付いて、夕子は恥ずかしげに話してくれたの。
「こんな言葉を使わないでおこう、って人達がいるの。ボランティアをしている人の間でも、意見が分かれてるのよ。AIDSになった人達に、早く死ねって言ってるようだ、って…」
「まさか! そんなはず、ないじゃない? ここに居る子ども達にだって分かるわ。気の遣いすぎよ」
あたしの言葉に、夕子も頷いてる。
「でも、日本人って遠回しに言うでしょう? 曖昧にして…」
「でも、それってきっと、偽った優しさだと思うの。だって、AIDSっていう病気はなくさなくちゃいけないんでしょ? だったら、それははっきり言うべきよ」
「皆が、ミホみたいならいいんだけどね…」
そう呟いた夕子って、何だかとっても疲れてたみたい。
「おや。男の子が、部屋から出てきてますよ」
急に、ヴェストルの声がする。陽気な感じなんだけど…変におかしくなったあたし達を暖かく包み込んでくれる、そんな声。
「駄目じゃない、まぁくん!」
そのまぁくんは、夕子の姿を見付けて、嬉しそうに近付いてくる。
…とっても、痩せてるの。夕子に伸ばしてくる腕なんて、骨にしか見えないじゃない…
「この子ね、今日はとっても調子が良いのよ」
軽々とまぁくんを抱き上げてる夕子の言葉は、ちょっと信じられなかった。だって、明るく微笑んでるんだけど…こんなに痩せ細ってて、今にも倒れそうなのに…
…調子が良いなんて……
夕子ね、部屋に入ってその子をベッドに戻してる。
「お姉ちゃんも、もう帰るからね。ベッドから出たら駄目よ?」
「いや…帰らないで」
四歳にしかなってないまぁくんが、必死でしがみついてる。あの頼りない腕で、出せるだけの力で…
でも、でもね。夕子、少し厳しいくらいにその腕を解いたの。
「又、来るからね」
「…飴、くれる?」
「えぇ、いいわよ」
夕子、それ…
…やっぱり、まぁくんは飴を放り投げてたの。だって、きっと、帰ってほしくなかったから…何かをねだって引き留めたかったから……ね。
「夕子、あたしが押さえとく?」
部屋を出てしまえば、諦めると思うのよ…
「お願い、ミホ」
だからね、あたし、まぁくんに触ろうとして…
…そう、本当は、少しだけ恐かったの。でも、でもね? こんな事で感染しないことも知ってたのよ。
真剣に見守る夕子の前で、あたし、すぐにまぁくんの腕を取って宥めてた。
「又、今度ね。まぁくん」
「やだ! …帰らないで!」
「そうもいかないのよ。我慢しなさい」
あたし、なんて酷い言い方してるのかな…
まぁくんね、目に一杯の涙を浮かべてあたしを睨んでくるの。
あたし、それ以上、何も言えなくて……
その時ね、そっとヴェストルが近付いてきたの。そして、まぁくんの額に優しく手を翳してる。
「お休みなさい、まぁくん」
ふっ…と瞼が閉じられて、可愛い寝息が聞こえてくる。
……ふ〜ん…
あたし、部屋の外に出ると、待っててくれた夕子に少し気になって尋ねたの。
「ねぇ、まぁくんに親はいないの?」
「…ううん、いるわ」
「なんだ、じゃぁ、考えすぎだったのね。あたし、母さんとかがいないから、あんなに夕子を慕ってるのかと思ってた」
そんな風にあたしが言ったら、夕子、とっても悲しそうな目をしたの。
「ミホ…まぁくんね、両親はすぐ近所に住んでるのよ。でも…あの子が生まれてから、一度も会いに来たことがないの……」
「え?」
「四年間も、まぁくん、『親』が何かも知らないで生きてきたのよ。HIVに感染していることが分かってから…
…捨てられたのよ……」
「そんな!」
じゃぁ…四年間、母親も父親も知らなくて…家族って何かも分からないで……
…そんな……
「まぁくんにはね、きっと、どうして自分にだけ『親』がいなくて…どうして、外にも出られずに、こんな所に居なくちゃいけないのか…全く分かんないはずなのよ。
…どうして、自分がこんな目に遭わなくちゃいけないのか…って、ね」
「そんな『人間』もいるでしょうね」
ヴェストルが、簡単に言ってる。
あたし、そんな他人事みたいな言葉が許せなくて叫んでた。
「ヴェストル! そんな言い方ないじゃない。可哀相と思わないの?」
でも、でもね…ヴェストル、冷たい静かな瞳であたしを見てくるのよ。
「美星さん、僕はそう思いません。彼等だって、頑張って生きてきているんです。それを可哀相だなんて言うのは、失礼でしょう」
…! そう、かも知れない…そうかも知れないけど……
「美星さんは、お優しいですからね」
鋭さの消えた視線が、大きな優しさを込めてあたしを見てくれる。でも、でもね…
あたし、目を逸らせたの。何だか、とっても遣瀬無い気がする…
「…ミホ、一緒に帰ろうか」
夕子、あたし達の変な空気を察して、返事も聞かずに仕度をしてる。
あたしね…正直に言って、もうヴェストルとは離れたかったの……
塞いでいた気持ちを慰めに来てくれたのは、とっても感謝してる。でも…小人だからかな。ちょっと、あたし達とは違うみたい…
「少し、寒いくらいですね。美星さん、大丈夫ですか?」
どうして、こんなに明るく話せるのかな。あんなに冷たい言葉を言ったのに…
…ううん。きっと、ヴェストルにしてみたら、冷たくなんてなかったのよ。それが《真実》だから……
でも、でもね? 《真実》を告げるばかりが、良いことじゃないでしょ?
……これって、あたしが優しいから…?
ううん、違う……
「それじゃ、夕子さんはアルバイトにしてもらえたんですね」
「はい。本当はボランティアでいきたかったんですけど、父親がいないから、って…気を遣っていただいて、アルバイトで雇ってもらえたんです」
あたしが口をきかないから、二人とも、気にしてくれながらも勝手に話を続けてる。
う〜ん…ちょっとブルーになってるかな、あたし…
今気付いたら、いつの間にか夕子のマンションまで来てるじゃない。
その時ね、夕子が声を掛けてきてくれたの。
「ねぇ、ちょっと寄っていかない?」
「でも、もう遅いわよ」
「大丈夫!」
ちょっと疲れてる気がするし…ここは甘えようかな。
エレベーターに乗り込む頃には、あたし、すっかり元気になってた。ヴェストルも、後ろにさがって聞き役になってるし…
それにね、ヴェストルのことで、あたしがそんなに気を揉む必要なんてないじゃない? あたしは、あたし。考えが違ったって、それは『当然』なんだもん。
「夕子の妹って、何歳になった?」
「やっと一年生よ」
「そうよね。そろそろ生意気になってくるわよ、きっと」
「まさか。あんなに大人しい子も珍しいのよ」
「だって、夕子もそう言われてたじゃない」
まだ、夕子も大人しい方なんだけどね。
あたし、半年ぶりに出歩いてることなんてすっかり忘れて、夕子と笑いあってた。
でも、でもね…こうしていられるのも、ヴェストルのお陰なのよ…
何だか、とっても複雑な気分。
見えてきた玄関だって、もう二度と歩いては来られないと思ってたんだもん。
「……!」
「あれ?」
夕子の家の中から、悲鳴と鳴き声が微かに漏れてきてる。
あたし、夕子と顔を見合わせて、急いで駆け出してた。
どうしたんだろう…
「お母さん? …陽子?」
扉を開けて中に飛び込んだ途端、妹の陽子ちゃんが夕子に抱き付いてくる。
…え? あの、腕の赤い傷は…噛み傷?
夕子、恐怖で震えてる陽子ちゃんを抱きながら、不安そうにあたしを見てくるの。でも、でもね? あたしだって、これ以上中に入る勇気なんて…
その時にね、後ろから高い施錠の音がしたの。
「行きましょう、美星さん」
ヴェストル…何だか、さっきみたいに冷たい声をしてる…
でも、そんな事に拘ってる余裕もなかったのよ。
あたし、精一杯の勇気を出して、靴のままあがると、すぐ目の前にある扉を開けて…
「…小母さん?」
あたし……恐くて、身動き出来なかった…
…だって!
大きくね、立ち塞がってるの。…目をつり上げて…あんなに優しかった小母さんが…
まるで、まるで…鬼みたいになって。
「お母さん…」
茫然とした声が、後ろから零れてる…
あたしね、その時、さっきの陽子ちゃんの傷を思い出したの。まさか、陽子ちゃんに噛み付いたの…
「丁度良かったわ。夕子、貴女にも…」
にやっと笑って…何も言わないで…
ゆっくり近付いてくるのよ。
…これって…これって、きっと『夢』よね? …ねぇ、ヴェストル、そうよね?
「私だけがなんて…夕子、貴女にも感染させてあげるわ」
「え?」
あたし、その言葉の意味を考えたりも出来ないまま、夕子の前に立ってたの。だって、小母さん…今にも、夕子に掴みかかろうとしてるんだもん。
ヴェストルも、音もなくすぐ傍に来てくれる。ちらっと見上げたその横顔にはね…でも、まるで、表情なんて無かったの…
「陽子はね、私が噛み付いたから、もうきっとHIVに感染してるはずなのよ。夕子だって、これから一人で生きていたくないでしょう?」
「HIVに?」
「そうよ。私はどうせ死ぬの。
だから。貴女達も道連れにしてあげるわ」
小母さんね、薄く笑ったままで話してる…
逃げ出したいよ…こんなの、見ていたくない……
「こんなに、苦労してきたのに…私だけが死ぬなんて…
そんなこと、させないわよね? 夕子、私だけを死なせないわよねぇ…」
静かに、呟いてる…まるで、あたし達が聞いてなくてもいいみたいに…
「…HIVに感染した腹いせに、この少女に噛み付いたんですか」
その時、ヴェストルが口を開いたの…氷みたいに、掴み所のない厳しい声で…
「そうよ。どうせ、私が居なければ生きていけないもの。一緒に死んでもらうわ」
「でも…でも、AIDSになるまで、潜伏期間もあって…!」
あたし、必死になって叫んだのに…小母さん、こっちを見て嘲笑ってる。
「結局は、死ぬんじゃない。なら、そんなものはどうだっていいのよ」
そう言って、小母さん、急に思い出したみたいに右手のキッチンに飛び込んだの。でも、あたしが動こうとする前に、小母さん、手に……
包丁を持って、戻ってきたのよ…
「そうよ。今死んでも同じじゃない。どうせ、私が居なければ生きていけないもの。だから、私は頑張ってきたのよ。
夕子、もう感染なんて面倒なことはしないわ。皆、今ここで、私が殺してあげる!」
夕子、そんな言葉を聞かせないように、陽子ちゃんをしっかり抱き締めてる。
あたし、もう…どうしたらいいのか分かんなくて……
…泣きたかった。…思い切り、泣きたかった。
でも、でもね…あたしより、夕子の方が…
だから、あたし…必死になって涙をこらえてたのよ……
「今では、その潜伏期間も伸ばすことが出来るんですよ。感染したからと言って必ずAIDSを発病するわけでもなく、すぐに死ぬことはありません」
胸元で腕を組んでね、ヴェストル、見下すように言ったの。
そんな態度に、小母さん、狂ったみたいに叫んでる。
「うるさいわよ! そこ、どきなさい!」
包丁が振り翳されて…
…でも、でも…あたし、夕子を庇い続けてた。包丁が迫ってきてもね…逃げ出したりしなかったのよ…
だって…ね。あたし、本当は足が動かなくて…もう、外に出ることも出来ないのよ。でも、夕子は違うわ。あのまぁくんにとって、夕子はいなくちゃいけない大事な人なの。あたしなんかとは、違うのよ。
包丁を握った手が、すぐ傍まで来てる。…あたし、目を閉じようとして…
…その時ね、ヴェストルが小母さんの腕を掴んでくれたの。
すぐ横から、静かな声が聞こえてくる…
「僕は、貴女が自暴自棄になって誰を殺そうと構いませんが…美星さんを傷付けることは、絶対に許しません」
…ヴェストル……
「放しなさい!」
「分かりました」
ヴェストル、掴んでた腕を軽々と突き放してる。そして、感情なんて少しも見せないで続けてたの。
「貴女にとって、今死ぬことも、何年か後で死ぬことも同じだと言うのでしたら、僕は止めませんよ。
すぐに、その手にしている包丁で、喉を掻き切ってしまったらどうですか?」
「そんな!」
慌てて見上げたら…ヴェストルね、あたしには優しく笑ってくれてるの。安心してもいいみたい…思わず、そんな気になるのよ。
それにね…こんな時なのに、格好良すぎるんだもん。
……どきどきしてくるのよ。
小母さん、じっと手の中の包丁を見つめてる……
ちょっと恐い静かな時間が流れて…
でも、でもね。やっぱり…小母さん、自分の手で死ぬことは出来なかったのよ……
ヴェストル、暫くしてからそんな動けない小母さんに向かって言ったの。
「子どもは、貴女の玩具じゃありません。貴女に、夕子さんや陽子さんを殺す権利なんて全く無いんですよ。
ですが、自殺する権利はあります。ですから、そちらの方はお好きなようにして下さい」
「私、私…」
「死を与えようとした者が、死を畏れるとは不思議なものですね」
ヴェストルね、静かにそう言って背を向けてるの。
玄関から、外に出ようとしてる。
「ちょ、ちょっと!」
あたし、ヴェストルを慌てて追い掛けたの。夕子も、陽子ちゃんを抱き上げて続いてる。
下に降りる階段の近くで、ヴェストル、やっと振り返ってくれた。
「大丈夫ですよ、美星さん。あの人は、もう二度とあんな事はしませんから」
「でも…」
このまま帰るなんて…あたし、出来そうにない…
何が出来るかなんて分かんない。…ううん、何も出来ないと思う。でも、でもね? あたし…
その時ね、後ろからしっかりとした声が聞こえてきたの。
「…大丈夫。ミホ、後は何とかしてみるわ」
夕子……
とっても真剣で…悲しみなんて、打ち砕いてる…
夕子って、こんなに凄い力があったんだ。
「夕子さん、陽子さんは感染していませんよ。そして、もう一度、あの人の検査もやり直してみてくれませんか」
「え?」
「人間は、多くの間違いをするものですからね」
「…はい」
夕子、力強く頷いてる。
あたし、あたしには…頑張ってなんて言えなかった。きっと、夕子は精一杯するはずだもん。
だから…ね。最後は…そっと握手しただけで別れちゃったの…
でも、でもね…あたしの気持ち、分かったよね? きっと……
「ねぇ、本当に小母さん、感染してないの?」
随分経ってから、あたし、歩きながら後ろのヴェストルに尋ねたの。そしたら、足下から答えが返ってきたのよ。
「えぇ、もう治しておきましたからね」
見たら、また、小人になってるじゃない。あたし、呆れたように言ってた。
「ねぇ、どっちが《本当》のヴェストルなの? さっきは、少し恐かったけど…」
それに、あんなに格好良かったのに。小人じゃ…ねぇ。
「《本当》なんて、ありませんよ。《本当》とは虚無ですし、無限なんですから。それは《唯一の本質》に繋がる、一つの『様相』でしかありません」
「…分かんないわ」
あたし、正直に応えてた。
でも…
「ヴェストルは、ヴェストルなんでしょ?」
窓からベッドに飛び込んで、あたし、そう尋ねてた。そしたら、小人の姿のヴェストルが、温かな目で諾ってくれたのよ。
「そうですよ、美星さん」
「じゃぁ…」
そう、何だか…今になったら、もっとここに居て欲しい気がする。あんなに、大嫌いなところもあるんだけど…でも、でもね…
ヴェストル、そんなあたしに、そっと笑い掛けてくれたの。
「はい、また来ますよ。綺麗に晴れ上がった夜に」
「うん!」
だんだんと消えてくヴェストルを、あたし、少し寂しく見送ってた。
「きっとよ!」
しっかりと頷いてくれる。
本当に、もう一度逢えるかな。
…でも、きっと…そう、きっとまた逢いに来てくれる。
あたしには、それが分かってたのよ。
…それから三日してね、礼奈がお見舞いに来てくれたの。部屋に入ってきたら、一瞬怪訝そうな顔であたしを見てきたんだけど…
ヴェストルの事なんて、分かるはずないもんね。
その玲奈の話でね…あのね、まぁくんが…衰弱して、死んじゃったんだって……
あんなに無邪気な子どもが…明るくて、愉しげで…懸命に生きていたのに…ね……
結局、家族なんて知らずに逝ってしまったのよ…
…報告はね、もう一つ。夕子の小母さん、やっぱり誤診だったんだって。
ううん、本当はヴェストルが治したんだけどね。
早く、来てくれないかな…どうして、そんなに逢いたいのか、あたし自身にもよく分かんないんだけど。
…自由に出歩けるから…きっと、そんなのじゃないと思う。
う〜ん、苛々しちゃう。ヴェストル、早く来てよ!
1 月曜の光風 おわり
朧に霞む 天穹の許
灰色の大地に育まれ
一つの大樹が 腕を伸ばす・・・




