レクイエム
『レクイエム』
心地よい旋律に耳を傾けながら、ピアノにもたれた少女は面を上げ、少年の顔を見据える。
「この曲、なんて言うの?」
「レクイエムだよ」
目線だけ少女に向け、少年の指先は止まらずに音を奏でている。
「レクイエム……?」
少女は首を傾げた。
「鎮魂歌だよ」
「人が死んだ時に聞く曲なのね。だから寂しいのね」
とピアノの上に頬杖をつく。
「そうとも言えないよ。鎮魂歌。字のごとく、魂を鎮める歌さ。『どうか怒りを静め、この世に蘇らないで下さい』ってね。酷い話だろ?」
「そうとも言えないよ」
と少女は得意げに、少年の言葉を反復する。
「死んだ人が、迷って悪霊になったりしないようにするためでもあるんじゃないかしら? ものは考えようよ」
と微笑んだ。
「どうして、この曲を弾いてるの?」
少女は少年の瞳を覗き込んだ。
「好きだからだよ。心が静まる。魂がと言った方がいいかな」
「もちろん俺のね」
と苦笑いしながら、付け加える。
「なんでそんなに綺麗な指をしているの? 羨ましいわ。女の子の私より綺麗」
少年のすばやくなめらかに動いている、白く長く美しい指を見つめる。
「私もピアノやろうかな」
「どうして?」
「好きな人と共通な趣味を持ちたいのよ」
「やめたほうがいいんじゃない? 飽きやすい性格だから」
からかうようにくすくすと声を出して笑う。だが、やはりその指の動きが止まることはない。
少女はむっとしたが、
「そうね。習字も一ヶ月でやめちゃったでしょ。それにスイミングは……」
と指を折りながら数えていく。そして二人は顔を見合わせてくすっと笑う。
流れる清い旋律と、春の優しいぬくもりと、流れる風が、教室の白いカーテンを揺らしていた。
このまま、時が止まればいいと思った。
「ねぇ?」
「何?」
「私が死んだら、その曲、弾いてくれる?」
少年が返事をしないので、少女はさらに続けた。
「私の魂が怒り狂わず、そして迷わず清い魂のまま、成仏できますようにってね」
少女は片目をつぶってみせる。だが少年は頷かなかった。
少年の指は止まることなく旋律を刻む。
少年はレクイエムの調べを奏でている指を見つめながら弾く。白い鍵盤と黒い鍵盤が、上下に軽やかに舞う。いつしか少年の瞳は涙に濡れていた。
もう二度とこの曲を弾くことはないだろう。彼女のもう二度と見ることの出来ない笑顔と一緒に封印しよう。
たとえ怒り狂った悪霊になってしまっていても、彼女に会いたかった。しかし彼女の最期の言葉を反故にするわけにはいかなかった。それが彼の信念。それ故に、生涯この曲を嫌いつづけるであろう。
記憶の中の彼女は、これ以上ないというとびっきりの笑顔を浮かべ、少年のピアノの調べに耳を傾けていた。
少年の瞳から涙がとめどなく溢れ、頬を伝って零れ落ちた。
彼女の為に奏でる最期のレクイエム。
残酷で美しい調べは、いつまでも少年の耳に残った。
Fine.