第一章(2)
数分後、リフェは疲労感いっぱいで荷物を抱え階段を上がる。
泣いていた少女を何とか宥めすかし、風船の代わりに『困ったことがあったら言いにおいで』と万屋の名刺を渡しておいた。
「ただいま」
「おっせぇんだよ、このバホ!」
「うわっ」
二階の、こちらも手書きで『万屋事務所』と書かれたドアを開けると同時に、罵声と鋏が飛んできた。
リフェは咄嗟に首を横に倒し、右手の人さし指と中指で鋏を掴む。左腕だけに荷物が乗り、バランスを崩してドア枠にぶつかった。
「いててっ、危ないよジーン。鋏を渡す時は柄の方を向けて、って教わらなかったの?」
「渡したんじゃねぇよっ。あっさり受け止めんな。余計にむかつくぞ!」
「そんなこと言われてもさぁ……」
ブツブツ言いながら、リフェは軽く鋏を放った。見てもいなかったのに、鋏は綺麗な放物線を描いてペン立てに収まる。それを音で確認しつつ、彼は荷物を置いてドアを閉めた。
「遅いのが嫌なら自分で行こうよ。今の俺じゃ歩幅も狭いし、高いとこにも届きにくいから、時間がかかるのは分かってるでしょう?」
言いながら、リフェは振り返った。
事務所にしては古ぼけた部屋。応接セットと業務デスクが一つ。大して本の入っていない棚が二つ。向かって左手のドアは給湯室。右手にはもう一つ小部屋がある。しかし、中はダンボールの山。もともと倉庫だったらしいからその名残だろう。ダンボールは扉の前にまで進出し、もう一つデスクが置けるスペースを奪っている。
それでもこの部屋が綺麗に見えるのは所長が綺麗好きだからだ。先程リフェに鋏を投げ、今なお睨みつけている青年。
「てめぇ、従業員な上に居候だろうが。それぐらい働きやがれ。給料差っ引くぞ」
所長である彼は、事務所内とは裏腹の汚い言葉でリフェを罵った。
肩口まで伸びた紺色の髪と目。髪からは尖った耳が少し覗いている。聞くところによるとエルフの血が混ざっているらしい。彼はイライラした様子で眼鏡を上げた。
ジーン・エイリ・ハイディンガード。御年十八歳の彼が所長だ。そしてリフェを加えた、たったの二人。これがこの万屋事務所の全従業員だったりする。
「ったく、お前を拾ってから食費がかさむし、服代も高かったし……」
「服代はちゃんと返すって言ったじゃん。世話になってる代わりに仕事も家事もやってるし……。ちょっとは大目に見てよ」
「ちょっと? ちょっとだとぉ……」
いちだんと低くなった声を発して、ジーンは椅子から立ち上がった。そのままリフェの前まで来ると、ズビシッと強く額を小突く。
「いっ」
「何がちょっとだ。お前が来てからろくな依頼が入らねぇんだよ! 店番、犬の散歩、倉庫掃除、果ては子守だぞ、子守っ。しっかも勝手に格安で受けてきやがって。今月ピンチだ赤字だ家賃が払えねぇんだよ。お前のせいでうちの事務所は経営難だ!」
「何それ、万屋は何でもやるもんでしょ。言っとくけどジーン一人でやってた頃より依頼件数は倍だからね、倍! それに、二人だったらできることなんて限られるじゃないか」
「だからってなぁ、報酬がガキの小遣い並みとか、家庭栽培野菜やら、商店街福引権って何だ!? どうやったらそういう報酬で仕事を請けようって気になんだよ。このバホ!」
「地域密着型でいいじゃない。何事も身近な部分からだよ。だいたい、その『バホ』って何? 意味分かんない言葉使わないでよ!」
「バカとアホをくっつけたんだよ。お前は一つじゃ足りないからな! バホバホバホ!」
「連呼しないでくれる!? ジーンよりいい自信あるし、頑固じゃないだけましだよ!」
「あの……」
「何!? もうお前今月給料なしだ。なし!」
「どうぞご勝手に! その代わり衣料代も返せないけどね」
「あのっ」
「なら別んとこでバイトして返しやがれ!」
「雑用押しつけてるくせによくもそんなっ」
「万屋のチビお兄ちゃん!」
小突き合いから掴み合いに。最後はデコピンの応酬をしていた二人は、入り口から聞こえた甲高い声に動きを止めた。
「あれ? 君はさっきの……」
ジーンに胸倉を掴まれたまま、リフェは来客を見やった。
この辺りではあまり見ない、身なりのいい服を着て涙ぐんでいる少女。間違いなく、先程リフェが下で宥めていた少女だ。もう帰ったはずだったのだが。
「どうしたの? 帰り道が分かんなくなっちゃった?」
ジーンの手を放し、リフェは少女に尋ねた。この地区は整備もされていないから、小さな子では道が分からなくなることもあるだろう。だが、少女は首を横に振る。
「お兄ちゃん、何でもしてくれる人だって言ったよね。ルカを探してほしいの!」
「ルカ? お友達?」
今度は首を縦に振る。少女は涙を必死にこらえながら、『蝶々見つけたから、捕まえてくるねって言ったの。でも戻ったらいなかったの』と訴えた。
今にもあの大泣きを繰り出しそうな顔に、リフェは気持ちを高ぶらせないようゆっくりと応接セットに移動させる。自分も隣に腰を下ろせば、ジーンも向かい側に座った。
「あのね、お嬢ちゃん。ルカちゃん……いや、ルカ君か? まあどっちでもいいや。とにかく探す代わりに、お兄ちゃん達お金を貰わなきゃいけないんだ。だからお父さんかお母さんを連れて、また来てくれるかな」
「ちょ、ジーン!」
冷たい台詞を疲れたように吐き出すジーンを、リフェは睨んだ。
別にジーンは冷酷な奴ではない。何だかんだ言いつつ、行き倒れのリフェを助けてくれたのは彼だ。けれど融通が利かないと言うか、万屋の仕事に関しては頑として情を見せない。あらかじめ決めておいた額を出さなければ、ジーンは動かないのだ。
(頑固っていうか、変にプライドが高いんだよね)
若さゆえの勇み足か、それとも以前聞いた彼の出自に由来してるのか。
「うるさいバホ。こっちは慈善活動じゃないんだ。仕事なんだぞ、仕事」
「だからって、小さな子にそんな言い方……」
「お金なら持ってるもん!」
二人の話を遮るように少女は立ち上がって、熊型のポシェットをひっくり返す。ジャラジャラという音と一緒に出てきたのは、彼女が集めていただろう貨幣。
「あのな~……」
ジーンが額を押さえて呻く。それはそうだろう。少女が出した額は雑誌一冊が買えるかどうか、といったものだ。この程度で広い街を捜索するなど、まったく割に合わない。
少女はジーンの態度に何か感じ取ったのだろう。ヒクッとしゃくりあげ、大きな目にどんどんと涙が溜まっていく。
「こんなもんじゃ、人探しの依頼は……」
「分かったよ。じゃあこれが依頼料だね」
ジーンが貨幣を一枚取ろうとした瞬間、それをリフェが掠めるようにして手の内に収めた。笑顔のまま少女に見せると、残りは全てポシェットに入れ直してやる。
「てめっ、リフ……ぶっ」
文句を言おうとしたジーンに手近な雑誌を投げ黙らせると、リフェは苦笑しながら少女の頭をなでた。
「ルカちゃんのこと、教えてくれるかな?」
「えっと、えっとね。茶色いふわふわした毛でね、頭に二つ赤いリボンをつけてるの。それでね、それで、今日はピンクのワンピースを着てるの」
「んなので分かるか……ぶふぉ!」
復活してきたジーンに、今度は灰皿を投げる。鳩尾に喰らって倒れるのを目の端で捉えながら、リフェは苦笑した。確かにこれだけでは分かりづらい。
「う~ん、写真とかあるかな?」
そう言うと、少女は一瞬困ったような顔をする。けれど、すぐに何かを思い出したように、懐を探りだした。取り出したのは、小さな楕円形の白いロケットペンダント。
「あのね、これがルカなの」
「へえ、どれど……」
収められた小さな写真。少女と『ルカ』が写っているそれを見て、リフェは絶句した。
いや、確かに『ルカ』を勝手にイメージしていたのだから、少女に非はない。さらには、少女が言ったルカの特徴も間違ってはいない。
(ああ、うん。そういうことね……)
固まったリフェを見て、少女が小首をかしげる。『何でもないよ』と返しながら、素早くロケットを閉じようとした。これを見られてはいけない。誰にって――
「おい……」
後ろから影がかかり、聞こえた低い声にリフェはギクリと肩をすくめた。どうやら、遅かったらしい。
リフェが隠すより早く、怒り絶頂な所長はロケットをむしり取る。そのまま彼は大人気なくも、いたいけな少女に向かって怒鳴った。
「犬の捜索なんか家族でやりやがれ!」
「ふぇっ、大きいお兄ちゃんが怒ったぁ!」
「ジーン、怒鳴るなんて最低だよ!」
「うるせぇっ、誰でもいいからまともな依頼をもってこいやぁ!」
怒鳴り声と泣き声が一緒に鳴り響く。
騒音の発生源と化した事務所内。そんな場所で、ロケットに入った少女と、可愛い『茶色の子犬』だけが、静かに三人を見ていた。




