第五章(5)
水平線に、太陽が最後の光を与えている。空は自分の髪と目に似た紺色から、黒に染まりつつある。
つい先程始まった会食に、ジーンは何度も深呼吸しながら参加していた。
隣にリフェはいない。彼は彼で、別の場所からこの様子を伺っているはずだ。海を後ろにした背に、見えないようにマルゲリータがひっついている。
ジーンは辺りを気にしながら、ふと大道芸をしている道化師に目がいった。常に笑った仮面のような化粧。真白の人形のような色。
それを見た瞬間、背筋に冷水を流し込まれたように動けなくなり、吐き気が起こる。同時に右肩から左脇腹にかけて痛みが走った。
「くそっ」
右肩を抑えると、深く息を吸い吐き気をこらえる。
忌々しいことこの上ない。あれからもう十二年も経っているのに、まだこの傷は痛む。
『ジーン、大丈夫だっぺか?』
「……ああ」
『あいつのつけた傷だべ。そう簡単には消えてくれないっちよ。気ぃしっかり持ちぃや』
あいつ、という言葉にまた道化師の顔が浮かんだ。
マルゲリータの他に、ジーンが契約している召喚獣。ジーンが一番初めに呼び出した禍々しい道化師のことだ。
「もう、十二年も経つのにな」
あれは六歳の時だった。
一族から落ちこぼれと罵られ、失敗作と言われ続けた日々。それを挽回しようと、無理やり契約の儀式を行った。
最初は上手くいったと思った。魔法陣は反応し、その中心に淡い影を作り出したから。
けれど、次に感じたのは形容できないほどの痛みと乾いた笑い声。『足りない』と一言、笑いながら発された言葉。
真っ赤な床に倒れ、薄れゆく視界の中で見たのは、恐ろしいまでの笑みを貼りつけた道化師の姿だった。
『あれ呼び出して、生きてるんが儲けもんだべ。今まであいつ呼び出して生きてるもんはおらんっちよ』
「はっ、どうして落ちこぼれのオレが生きてるんだか。しかも勝手に契約しやがって」
何が起こったのか、目覚めた時、ジーンはあの道化師と契約していることになっていた。
力の弱いジーンが、どうしてあの強力な召喚獣を呼べたのか、生き残っているのか分からない。ただ、あの道化師は二度と呼んではいけない。そうジーンの本能が告げていた。
(けど……今回もしマルゲリータで力にならなかったら、オレは)
『あいつ呼ぶ前に、オラをもちっと信用してくれてもいいんだけんどなぁ』
マルゲリータが落胆したように喋った。
『オラがこんな姿でもおめさと契約したんは、おめさ自身に惹かれたからだべ。ジーンの声が、なんや気にいったんよ』
どこか温かい空気が、二人の間に流れた。
ジーンは軽く笑い、体重をマルゲリータにかける。
「なあ、マルゲリータ」
『なんだベ?』
「オレ、お前のこと嫌いだったんだ」
ガクンと、マルゲリータがこけたのが分かる。このいい雰囲気で何を言うのか、と思っているのだろう。その様子が簡単に目に浮かんで、ジーンはさらに笑みを深くした。
「だってさ、見た目かっこ悪いし。ちんまいのがオレの実力表してるみたいだし。喋り方変だし、妙にオレのこと子供扱いするし……」
『オラ達から見たら、人間なんて赤子以下だべよ』
召喚獣は果てしない時を生きるらしい。だから、ほんの百年程度しか生きられない人間は、彼らから見ればとても矮小なものなのだろう。
「そうか。でもな、今はお前がいてくれて良かったと思ってる。そうじゃなかったら、オレはリフェを助ける力が何もなかったから」
本当に、マルゲリータを呼べなければ自分は間違いなく能無しだっただろう。彼がいて、力を貸してくれるから、ジーンはリフェの後ろをついていける。
感謝の意を伝えれば、マルゲリータはもぞもぞ動いていた。恥ずかしいのかもしれない。
そう言えば、こんな風に話すことも今までなかった。召喚獣は力、道具という認識しかしてこなかったから。
しばらくの沈黙のあと、マルゲリータはゆっくりと話しだす。
『人間は小さくて、オラ達から見れば赤子以下だけんど……そんな短い時間で、すんげぇ強くなる。オラは、それが眩しいと思うんだや。おめさにもそれを感じたから、オラはあん時、呼び声に答えて契約しただよ』
「マルゲリータ……」
顔を見ていないからだろうか。おかしな喋り方をする骸骨のはずなのに、ジーンの脳裏には、優しく笑う、大人の男が映っていた。
『強くなりなや、ジーン。リフェどんのことも含めて、オラが最後まで見届けるっちよ。んで、後世に伝えてみせるだや。だから……強くなりなや』
「……ああ、約束する」
ジーンが力強く答えたその時、最後の光が沈んだ。甲板に明かりが灯るか、と思われたその時、大きな爆発が機関部分で炸裂した。
甲板の上が、一気に混乱状態に陥る。
「マルゲリータ、来るぞ!」
『はいな。ジーン、上っちよ!』
バッと顔を上げれば、甲板よりも一段上になった所に、一人の男が立っていた。手には紛れもなく魔術士の杖が握られ、口はすでに呪文を唱え始めている。
ジーンと同時にラキアスも気づいたのだろう。彼の声が甲板の上に大きく響いた。
「全員今すぐ甲板から離れろ! シュミット、シダ大総統達の避難誘導を!」
「シュナイデ・アングリフ・アイ・ベフライエン!」
その指示にかぶるように、男が呪文を唱え終わった。現れた十数本の氷の刃が、一斉に甲板に降り注ぐ。
「マルゲリータ!」
「「アングリフ・フォ・ベフライエン!」」
マルゲリータが宙に飛び上がり、何本かの氷を大鎌で粉砕する。残った物はイーストの魔術士達が炎で打ち消した。
混乱する甲板。人波に攫われぬようジーンは手摺を掴んだ。その時、目が波に逆らう一筋の流れを捉える。体制を低くし、真っ直ぐラキアスに向かっているその流れは。
「ラキアスさん!」
彼は振り向き、目を見開いた。迫っているのは《銅の呪術師》。その手は魔法なのか、赤黒い光を纏っている。
避けるには間に合わない、そうジーンが思った刹那。
ラキアスの前に、小さな風が立ち塞がった。




