第五章(1)
昔、ある人に言ったことがある。リフェがまだ少佐だった頃。自分が《不可視の死神》と呼ばれるようになった頃の話だ。
相手は側近で、同じ孤児院出身。イーストに来てからの幼馴染ともいっていい人物だった。
当時はロウ少尉と呼ばれていた人。気心も知れた仲だったからか、ついポロリと言ってしまったのだ。
「俺ね、守りたいんだ」
そう言えば、相手は当然のように『何をですか?』と聞き返してきた。
「全部」
「は?」
ロウは、疑問というよりは、戸惑いを持った顔で眉を顰めた。その顔を見て、リフェは苦笑する。
「あの、すみません。それ、無理だと思います……」
申し訳なさそうに言いつつも、ロウは真っ直ぐリフェを見返して言った。別に嫌な気はしない。リフェも分かっていることだ。
持ってきてもらったココアを一口飲み、眼下を見下ろす。
魔法兵士部隊ビルの屋上からの夜景は見慣れているはずなのに、今日はずいぶんと薄暗く思えた。
「あはは、そうだね。なんて言ったら良いかな。俺が守りたいと思った、俺の手の届く範囲のもの全部、かな? 俺だって、どんな奴らでも助けたいとか思わないよ。でも、自分が決めて、そこに手が届くなら、俺は守りきりたいんだ」
「それも、難しいですよ」
「うん、知ってる。もう、昔守れなかったから」
誰よりも傍にいた母親は、リフェを庇って死亡した。守るどころか、守られた。
遠くにいた父親は、知らないところでリフェを守り続け、リフェの知らないところで死んだ。守る術すらなかった。
手を握っていたはずの親友は、嵐の海に消えた。守れたかもしれないのに、手を放してしまった。
それでも、守れるものがあるのなら守りたい。せめて、この小さな手が届く範囲のものは守りたい。そう思って軍人になった。それを目標にして強くなった。けれど――
「でもね。俺が守りたいものを守っていたら、他の誰かの守りたいものを奪うことにも……なるんだよね」
それは、当たり前のこと。
守りたいものは同じじゃない。誰かの守りたいものが、こちらには排除すべきものだという時がある。軍人であり続けるなら、そちらの方が多きかもしれない。
たった一つの正義や常識なんて、ないのだから。
「なんとなくは、気づいてたんだ。でも《不可視の死神》って呼ばれるようになって……あらためて思い知った。俺は……誰かの死神なんだな、って」
グッと何かを握るようにして、リフェは手を下ろした。
この小さな手は何を守ってきたのだろうか。そして、何を犠牲にしてきたのだろうか。
「死に誘う、神……か」
ロウは握ったままの拳を見るリフェから目をそらしたかと思うと、まるで日常会話をするかのようにさらりと言った。
「死に誘う神……。そうかもしれませんね。私も昔、少佐に殺されましたし」
「へ?」
リフェは目を丸くしてロウを見る。今自分は、とても滑稽な顔をしているだろう。
ロウは軽く言ったが、あまりにも唐突で、あまりにも酷い言葉だ。
「ちょ、ちょっと酷いよ! 俺、君を傷つけたことなんかないって。そ、そりゃあ訓練の時とかにちょっと……いや、けっこう……あううううう」
思い返せば、訓練の時など『公私混同はしない』という言葉のもと、ロウを思い切り殴り飛ばしたりした記憶がある。骨を折った時もあったような気がする。
傷つけていないとは言えない。
頭を抱えるリフェを見ながら、ロウは笑っていた。
「そうじゃなくて、少佐が殺したのは『暗殺者の私』です」
ロウは出生が分からない。物心ついた時には暗殺者として生きていたという。望んでその世界にいたわけではないようだが。
そんなロウを、たまたま出会ったリフェが孤児院に連れて行った。そして、同じ凶器を握るのでも、暗殺者ではなく、軍人としての世界へ引っ張り込んだ。
もう、十年近く昔の話だ。
「あの時、少佐が『暗殺者の私』を殺してくれたから、『今の私』がいるんです。私は……それにとても感謝しています。だから……」
ロウは笑う。優しい笑顔だと思う。きっと、暗殺者時代にはできなかった顔。
「《不可視の死神》リフェ・テンデル。嫌いじゃありません」
少しは自惚れてもいいだろうか、とリフェは思う。ロウが失くしかけていた笑顔を守ったのは自分なのだと。この手で守れたものがあるのだと。
「俺は……」
リフェが言葉を紡ごうとしたその時、ロウは長い溜息をついた。そして吐き出すように言う。
「だいたい、グダグダ一人で悩むのは少佐の悪い癖ですね。キノコが生えてきますよ」
「生えないよ!」
一瞬にして感傷が霧散する。言いつのろうとするリフェを前に、ロウはビシィッと指を鼻先めがけて伸ばした。
「どうして軍人が単独行動をほとんどせず、小隊を組んだりしてると思ってるんですか」
「そ、そりゃあ任務を……」
「誰かができなかったことを、別の人間がカバーするためでしょう。だから、貴方が守れなかったものは私が守るんです」
「え?」
「少佐の手の届く範囲で零れ落ちたものは私が拾い上げます。私の手から零れ落ちても、別の仲間が拾い上げてくれるでしょう。一人で全部背負おうとするから、そうやって悩むんですよ。頭はいいけど、時々馬鹿ですよね」
言い切ったロウは、リフェの疑問を無視して踵を返した。まっすぐ向かうのは出口だ。
「ちょ、ちょっと!」
呼び止めれば振り返ってくれた。ロウの髪と目は、こんな薄暗い夜でもとても鮮やかに見える。それは、きっと薄紫の、朝焼けの色をしているからだろう。
「少佐は一人でほとんどのことをこなせるから大丈夫だし、頭がいいから諦めも早いんでしょうけど、たまには周りも見たらいかがですか? いつだって、助けてくれる人は案外そばにいるものですよ」
『身長が高すぎるのもいけないんですよ。足元が見えてません』とまで言われた。
ロウは笑う。その顔を見て、リフェも笑った。
少し、泣き笑いに近かったかもしれない。
(何をやってるのかな、俺は)
こんなにも近くに、頼れる者がいるというのに。
「励ましてくれるのは嬉しいけどさ、幼馴染なら、その敬語と階級呼びはやめない?」
髪をかき上げながら、リフェは文句にも似た言葉を告げた。それは、恥ずかしさと情けなさを誤魔化すための照れ隠しだ。
しかし、ロウはいきなり表情を引き締めると、屋上の時計に視線をやった。
「仕事中は公私混同をしないのでしょう? ですから……」
こちらを見る目に、冷たい光が宿った。それを見たリフェはギクリとする。
そういえば、自分は仕事中に、この側近の目を盗んで屋上まで上がってきたのだ。もちろん、やるべき仕事は終わっていないわけで――
スゥッと息を吸うロウに、リフェは顔を強張らせた。
「とっとと部屋に戻って書類を片づけてください! 終わらないなら今日は帰しませんよ!!」
「はいぃ!!」
地上まで響くのでは、と思えるロウの怒声に、リフェは慌てて駆け出した。
結局、この後は悩む暇もなく仕事をする羽目になる。頼れる側近は、仕事の鬼でもあるのが難点だ、としみじみ思った日だった。
そして、今更ながらにリフェは思う。
ロウが今回のサウスの騒動を知ったらどう言うだろうか、と。
きっと、『昔言ったじゃないですか、周りを見ろって! その身長縮めたらいかがですか!?』と怒るのだろう。
だから、せめて今から足掻こうと思う。必死にもがこうと思う。
頼れる側近ではないけれど、今リフェの傍には、頼ってもいいと言う青年がいるのだから。




