序章
序章
高く高く、どこまでも伸びる蒼い空と、深く深く、全てを包み込む青い海。
世界のどこまでも続くその景色が、リフェは好きだった。
初めて見上げた蒼穹の空も、周りを囲む紺青の海も、両親や親友といった、大事な人と一緒に見たという思い出で彩られている。
そんな優しい世界が、不変のものだと信じていた。
「げほっ」
顔にかかる強烈な味の塩水に、リフェは大きく咳き込んだ。
上に広がるのはあの空。体を包むのはあの海。けれど、明かりがない闇の世界。
たったそれだけで世界は一変するのだと、この時、思い知らされた。
月も星も見えない厚い黒雲。容赦なく打ちつける雨。弄ぶように吹く風。そしていつもは美しい青の、けれど今は底のない闇の大海。
黒い塩水は全身を濡らし、風に巻き上げられた波は大口を開けて襲いかかってくる。
乗っていたはずの小さな潜水艇は、今や海に潜る役目など果たせない。ただこの体が波にさらわれないための命綱と成り果てている。
「ジィー……フェ、ジィーフェ!」
「だ、だい、じょ……っ、だいじょ……っ!」
答えようとする親友の声を波が飲み込む。何度この手が離れそうになっただろう。
リフェは、震える体に力を込めた。左手に感じる温もりを、右手に触れる潜水艇を、決して手放すまいと何度も自分に言い聞かせる。
上下する体は、揺られているなどという生半なものではない。落ちる際の一瞬の浮遊感。海に叩きつけられる瞬間の激しい痛み。これほどまでにあの大海原は凶器になるのか、と絶望に似た恐怖すら感じる。
世界の全てを繋げる海は、人間のようなちっぽけなものに左右されない。そんな当たり前のことを今、身をもって感じていた。
雑音のようにうるさい雨の中、暗黒の空に光が走った。稲妻だ。
あれが近くに落ちれば、水につかる自分達はひとたまりもない。想像に浮かんだ姿に覚える恐怖と、だがあれに打たれれば楽になれる、という皮肉な安堵感が頭によぎる。
その時、左手の温もりから力が抜けた。
「ジィーフェ!?」
「も、もう、手を……このままじゃ、お前も」
黒い波間に見え隠れする影は、苦笑しながら手を解こうとする。それに反発するように、なおも左手に力をこめた。
「嫌だ。放すもんか! い、一緒に探すって、ごほっ、君の家族を探すって……っ!」
休む間も与えず襲いくる波に苦戦しながらも、リフェは親友を引き寄せる。
「見つけたら、俺も家族にしてくれるって……君の兄弟にしてくれるって!」
「……リフェ」
暗闇の中で間近に見えた親友の顔は、泣きそうに歪んでいた。
それはこの状況になのか、それとも約束を思い出したからなのかは分からない。ただ、彼が強く握り返してきた。
しかし、自然は人間が嫌いなのかもしれない。今はそうとしか思えなかった。
稲妻の轟音、耳障りな豪雨、そして暴風に煽られた波。それらが一気に頭上へと降りかかる。咄嗟に閉じた目も、まだ海上に出ていた頭も、何もかも暗い海の中に飲み込まれた。
右も左も、上も下も分からない。まるで吹き飛ばされるように水の中で体が回る。
右手に鋭い痛みが走った。同時に、蓄えた空気が一気に泡となって逃げていく。
空気を求めて体がもがく。今自分の向かっている方向すら判断できなかった。焦りと苦しさから意識が遠のく。
(ジィーフェ!)
胸の中で、強く親友の名前を呼んだ。刹那、さらに大きいな流れが襲いかかる。
遊ばれる自分達を嘲笑うように、水の奔流は体験したことがない力で圧迫してくる。それは自分の体も、友の体も、そして、繋がっていた温もりすらも飲み込んだ。
「っ、げほっ。ジィーフェ? ……ジィーフェ!?」
求めた空気を手に入れる。だが逆に大切な温もりがない。右手には痺れるような痛みだけで掴んでいた潜水艇も見当たらない。
「ジィーフェ! うわ!」
再び飲みこまれた海の中、今度は必死に目を開けた。しかし、見えるのはどこまでも暗い闇の情景。
「げほっ、ジィーフェ、ジィーフェどこ!?」
呼んでも答えるのは轟音と雑音だけ。疲労と困惑は、徐々に体力と意識を奪っていく。
そして追い討ちをかけるように、黒い壁がリフェの頭上から襲いかかる。
「っ、う、うわあぁっ……」
今度はもがくこともできなかった。
空気を吸い込むこともできず、波に打ちつけられた体はただ四肢を投げ出し沈められる。もう轟音も雑音も聞こえなかった。
静かに、静かに、ただ静かに。再び何も掴めなかった手を伸ばし、リフェの意識は暗いところに落とされていった。




