chase-07:趣味が悪い
炎が燃え盛る。
後ろで一つに纏まっていたはずの髪が、紐が焼き切れたのか、ばらりと宙へ舞う。魔法が炎で解除されて、茶色に染まっていたのが、いつものエメラルドの輝きに戻ってしまった。
王犬の生み出す火は本来、一瞬で人間を炭化させてもおかしくない威力を持つ。
――だというのに。
ラグナは唖然としながら、目の前の王犬を見つめていた。
何やら金の瞳が潤んでいるが。
「……何ですか、その目は」
きゅるん、と王犬が鳴く。それを合図にしたかのように、ラグナを包んでいた炎は消え失せた。
彼らの炎は選択性を持つのだろう。髪留めや服はところどころ焼き切れていたが、ラグナの肌は火傷一つ負っていない。
拍子抜けのあまり、ラグナはへたんっと腰を抜かして座り込んでしまった。
王犬はそんなラグナを静かに見下ろしていたが、突然その横っ面にナイフが数本突き刺さり、盛大に悲鳴を上げて飛び退いた。
驚く間もなく、がっと焦げだらけの襟を掴まれて後退させられる。
気付くと、蒼白な顔のスイートが、ラグナの両肩を掴んで揺さぶっていた。
「ラグナ、大丈夫!?」
「――、……ええ、大丈夫でごぜぇます。何て言うか……そう、えらいことになりましたが」
掠れた声でそう返し、続いて、「よもやこんなことになろうとは思いませんでした」とラグナは呟いた。
激しくスイートに向かって唸りを上げる王犬に、ラグナは一瞥する。すると、王犬は静かにその場に座り込み、尻尾を揺らして大人しく『待ち』の姿勢に入った。
「“選定”でごぜぇますよ。……炎に巻かれても燃やされなかったのは、たぶん、そういうことだと思います」
「……選定?」
「もともと、グリムドリバーが既に暴れ出して、どうにも手を付けられなくなっていた場合の手段は想定していたのでごぜぇますよ。まさか王犬に使うとは思わず、負けが確定の大博打ではごぜぇましたが……」
そう前置きをして、ラグナは語った。
選定とは、魔術師が魔獣を降す際に彼らから貰う、一種の『お墨付き』なのだと。
とはいえ、いきなり選定されるのは稀だ。
何か原因があるだろう、と眉を潜めたスイートに対し、ラグナは少し考えてから口を開いた。
「このスパナ、私は魔法の模様を描く杖代わりとして使いましたが、本来ならただの工具、普通の金属のカタマリです」
ごんごん、と握り締めていたスパナを地面に軽く打ちつける。
「こんなのを杖に使うと、大抵、魔法の威力は十分に発揮できません。私だって通常時ならちゃんと作った杖を使います」
「……あの魔術師を師匠にして学んだ君だから、できる芸当だってことだね?」
はい、とラグナは頷いた。
「どうも、それが王犬の“ツボ”だったようです」
魔獣は使い魔になる時、魔術師の技量を見定める。
ただのスパナ一本で、鮮やかに自分の足に固定化の魔法をかけてみせた技量。どうもそれが、王犬の眼鏡にかなったようだった。
逆に、もし使っていたのが魔法の行使に特化した杖だったなら、王犬の炎はラグナを炭へと変えていたかもしれない。
しかし、話を聞き終えたスイートはがっくりと肩を落とした。
「言うに事欠いて『ツボ』ってないでしょ……」
「仕方がねぇでごぜぇます。魔獣にだって個性があります。好みだって千差万別なんでごぜぇますから」
言いつつ、ラグナはスパナの先でくるくると輪を描いた。そこに小さな金の円が出来上がり、ラグナが円を王犬に飛ばすと、毛皮に引っかかったままのナイフが王犬の顔から抜け落ちた。
「痛かったでごぜぇましょう? 大丈夫ですか?」
くぅん、と王犬は目を細めてラグナにすり寄る。
その時、頭に響く何かがあった。
―― モウ イッピキ ナカマ。 イイ ? ――
「……はい?」
口元に浮かべた笑みが固まった。
今、この王犬は何と伝えてきたのだ?
ラグナが目を瞬くと、王犬はぺろ、と顔を舐め上げてきた。
―― アークハウンド イットウ チガウ。 …… シラナイ ? ――
「……スイート。一頭ではないんでごぜぇますか?」
「…………二頭いるよ。もう一頭はどこか知らないけど……」
スイートは燃え上がる倉庫をちらりと見やり、気まずそうに顔をしかめた。
「この様子じゃ、市街に行っていてもおかしくないかな」
「それを早く言っておくのでごぜぇますよおぉおおおおおおおおお!?」
がっくんがっくんがっくんがっくん、とスイートの胸ぐらを掴んで揺さぶり、絶叫する。
―― イタイ ミミ イタイ ! ナカマ トオク チガウ チカク イル ――
大声に王犬が耳を伏せ、思念を飛ばしてくる。
―― キタ デモ ナンカ ヘン ? ――
「えっ!? 待つでごぜぇますよ!?」
だが、現実は待ってくれない。
「今ちょっと立て込んで――」
半分気絶したスイートを手からぶら下げ、ラグナは振り返り、
――喉が、一瞬にして干上がった。
もう一頭の王犬が、ラグナたちのいる広場の端とは反対の場所から、ゆっくりとこちらへ進んでくる。
目を見開いた。視界の焦点がずれて、光景がぼやけてははっきりする事を繰り返す。
―― ダメ ! クルナ ! ――
ラグナの恐怖を感じ取り、傍らの王犬がしきりに吠えた。
「――ほう。来るなと言うか、犬」
――嘘だ、とラグナの唇が動いた。
眼前へと足が踏み出され、見覚えのありすぎる軍靴が砂を鳴らす。夢にまで出てきた紅いコートが、風に翻って不気味な音を立てた。
静かに口の端を吊り上げ、細めた蒼い目は、どこまでも冷徹で無慈悲。
長い銀髪は、風に舞い散る火の粉の中で燦然と輝く。
王犬を従え――シグマ・アルスミードは、ラグナを見下ろした。
狩人は傲然と笑む。
「見つけた……ラグナ」
低い声と共に、鬼畜将軍は舌舐めずりをし、
「――追いかけっこはもう終わりか?」
嗤いながら、そう訊ねた。
ひくっと、ラグナの喉が鳴る。
やがて、乾いた笑みを浮かべ、ラグナは独りごちた。
「……もうちょっと、選り好みしても良いと思うのでごぜぇますがね」
――よりによって、こいつなのか。
応えるように、シグマの王犬が天目掛けて咆哮した。
逃げ出した鳥は自由を得るか。
悪徳の男は最後に笑うか。
ラグナの幸せは、まだ遠い。