chase-05:詐欺姫の二十三シィール
「おまえ、本当にいたぶり甲斐のある奴だな」
発言者である奴は、穏やかに笑ってラグナの頬を愛撫した。
ぞわぞわと悪寒が背筋を走る。強烈に嫌な予感を感じたその時、顎をつっ、となぞっていた手がラグナの首を掴んだ。
ラグナの首が細いのではない。奴の手指が大き過ぎるのだ。
彼の手に力がこもった。長い指の一本一本が首に食い込み、気道が潰れたのが分かった。
かはり、と声にもならぬ息を吐き出す。
呼吸を奪われ、意識が遠くなったラグナを見つめ、奴は喉の奥を低く震わせた。
この、Sが。
相手を喜ばせると分かっていながら、呟かずにはいられない。
案の定、奴は先ほどの穏やかさなど欠片もなく、獰猛に口の端を吊り上げた。
顔が近づく。
「ラグナ?」
ラグナの頬に唇を寄せ、囁いてきた。
「逃げたいか。この、私から」
世界が白く飛びかけている。そろそろ意識を失うはずだった。
だが、寸前に心得ていたように首を解放される。
本当に、憎らしいほどに鬼畜だ。
こうして喘ぐように呼吸をすることすら、何やら妙な快感を覚えさせられてきた気がする。
「ラグナ――捕らえられた哀れな鳥」
ひどく痛めつけてくる癖に、名前を呼ぶ時のその声はたまらなく低くて甘い。必死に空気を取り込む中で言われたものだから、何やら頭の中がぐちゃぐちゃとかき乱されて陶然としてくる。
「……明日、籠の扉を開けておこう」
耳元で奴が囁く。目を、見開いた。
「逃げればいい。私の手の届かない所まで行ってみせろ……おまえは時々、予想外に楽しい」
楽しい?
たったそれだけの理由で、自分を逃がすのか。
「悪くないだろう……逃げ出した鳥が、どこまで飛べるか。見ているのもまた面白い」
――だが、きっと狩人は、その手に銃を握っている。いつでも撃ち落として、鳥を捕らえることができるように。
遊びだ。
これは、この鬼畜の下劣な遊びなのだ。
顎を掴んでそちらへ顔を向かされた。
口を、吸われる。
ラグナはふっと、暗い想いに目を閉じた。
こんな現実――早く、終わればいいのに、と。
*
「………………、」
激しい悪寒に我に返ると、ラグナはベッドの上で身を起こしていた。
ぐっしょりと額が汗で濡れている。息は、浅くて速かった。
「……ゆめ」
舌足らずにそう言うと、一気に“本当の”現実が帰ってきた。
スイートに連れてこられた部屋の中だ。奴の姿なんて、どこにもない。ついでに、スイートも既に起きていていなかった。
脱力しながら視線を落とすと、見れば何かが自分の腰に巻き付いている。
「紅い、コート……」
ぽつんと呟き、ラグナは沈黙する。
コートを引っ掴み、壁に向かってあらん限りの力を込めて投擲する。
鈍い音を立てて、コートは壁に激突し、床に落ちた。
そのまましばらく、ラグナはコートを睨みつけていた。
汗が、顔を伝ってシーツの上へと落ちた。息は少しだけ深くなった。
だが、心臓だけは、早鐘を打って――痛い。
「……は、はははは」
空笑いが出た。
夢の中まで出て来るのか、あの鬼畜。
アレは実際に起こったことだ。逃げようと決心する前日の夜に、奴がラグナに言ったこと。
昨日、スイートに冗談混じりに精神に一生傷が残ると言ったが、本当は冗談でもなんでもない。
だって、二日たっているのに、こんなに首が痛くて、怖い。
「……う」
噛み締めた唇は、塩水の味がした。
どうしよう、どうしよう。
どうやって逃げる?
逃げなかったら、どうなる?
思いながら、ベッドの上で震えてうずくまる。
昨日だってこんな風に怯えていた。場所が変わっただけで、何も変わらない。
奴に怯える日々が、何一つ変わっていない。
落ち着け、ラグナ。
スイートがいつ戻ってくるかも分からないんだ。
一呼吸をして、身体の震えを身体の芯へと閉じ込めた。
代わりに涙を拭って、ラグナは笑みを浮かべる。
「……馬鹿でごぜぇますねぇ。独りになるとすぐコレです」
笑えるのなら、何とか大丈夫そうだ。これで今日も強いラグナを演じられる。
ベッドから起き上がると、しばらく自分の格好を見分した。
「……ふむ」
そのまま眠ったせいか、やはり多少は服にしわが残ってしまったようだ。
特に問題ない程度だろうと結論付けて、ラグナは部屋の外へと出た。
――出たら出たで、そこで大事件が待ち構えていたのだが。
*
「ふうん、睡眠薬が欲しい、ねぇ……」
「そ。どうもこないだから預かってる子の寝付きが良くないんだよね。香物とかじゃなくて、無味の飲ませるやつがいい。臭いはボクの方でどうにかできるから。二十シィール。どう?」
ちゃり、と手の中で二枚の銀貨を躍らせると、スイートの目の前で、塒に招かれた男はうーん、と腕をこまねいた。
「最近手に入れるのが難しいんだ。四十シィールは貰わないと」
くす、とスイートは笑う。
「無理。だってこれしか持ち合わせがないもの」
「はぁあ……どうせ売らない限り出してくれないんだろ?」
「よく分かってるね、ギブシー」
「……三十。十シィールは後払いで構わないから」
「せめて二十五だ。駄目かな?」
「詐欺姫、勘弁してくれよ」
「……君が前に欲しいって言ってた媚薬、見つかったけど」
うっ、とギブシーが声を詰まらせる。
「嘘だろ……例のあれは秘薬中の秘薬だぞ。なんで手に入ったんだ」
「偶然いい伝手に巡り合えてね」
スイートはふふ、と得意げに笑って肩を上げた。
「さぁ、二十二シィールにまけておくれ?」
「っ……~~~~~ぁああああーっ、くそ! 二十三! もう無理! 俺が破産する!」
「ありがとう。じゃ、これね」
ギブシーとの間の机に、スイートは二枚の銀貨と、三枚のそれより小さめの銀貨を置いた。
「持ち合わせないんじゃなかったのか!?」
「ウ・ソ・だ・よ。ふふ、引っかかったね」
「くそ、詐欺だ!」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
さぁ帰った帰った、と鮮やかに彼を追い出すと、ドアが閉じる寸前、彼の喚く声が聞こえた。
「ちっくしょう……あんたとの商売に手を出すんじゃなかったよ!」
ぱたん、とドアを閉めると、スイートは無音で微笑んだ。
きっちりと施錠してから、ひらひらとドアに向かって手を振った。
「そのうち美味しい話でも持ってくよ……っと、お目覚めかい、ラグナ?」
「……どうも良く寝れやせんでした」
階段の上にいたラグナはぼそっと呟いてから、首を傾げた。
「睡眠薬って、誰のです?」
聞かれたスイートは一瞬目を大きく開いてから、得心して言った。
「分かった。飲まされるんじゃないかって心配してるんだろ。大丈夫だよ、君のじゃなくて……あれ、えーっと、何て言ったかなぁ」
確か、ティーリス帝国から密輸されていたのを家の者が見つけて奪い取ってきたのだが。思い返しながら、スイートは記憶を辿る。
結構遠い国の『モノ』だった。あまり呼び名が知られていないものも多く、そういう手合いに限って隠語もさりげなくて紛らわしい。おかげでどういった種類か特定するのに時間がかかったのだが……。
「グリム……グリム……思い出した。スラフスキー種のグリムドリバーだ」
口に出した瞬間、ラグナは目を剥いて手すりから身を乗り出した。
「グ……『三級危険指定』ではごぜぇませんか!」
「あ、知ってるの?」
「ばか言っちゃいけません。魔連が定めたガイドの『使い魔指定千種』の中でも、『一般人、あるいはその行使に値しないと判断し得る魔術師がこれらの魔獣を扱っている場合は即刻軍部あるいは魔連に報告せよ』とはっきり赤字で書かれてます」
魔連というと、魔術師連合のことか。
やたら硬い文章を口にしているが、おそらく無意識にまるまる暗記するほど、その指定千種とやらではページの到る所でガイド本から警告がされているのだろう。
「……そう、知らないどこかの珍獣だと思ってたら魔獣だったの。何でまた軍部でさえ手を焼くのを拾ってきたんだろ、あの子たちときたら」
「呑気に言ってる場合ですか! 扱い間違ったらえらいことですよ!?」
「眠らせとくだけで良いらしいけど」
「普通の睡眠薬なんかじゃなくて特級の魔法ぶちかまさないといけねぇんでごぜぇますよ! どこのどいつでごぜぇますか、そんなホラ吹いたアホンダラは!?」
「あー、あの子たちだわ。二十三シィールも損したよ」
ぼやくスイートの側を、つかつかつかつかとラグナが大股で通り過ぎていく。
「お金の話は後です。連れてって下さい。ふんじばります」
「良いけど……たぶんシグマ・アルスミードに見つかるよ?」
「人命が懸かってるのにそんなちまっこいこと言ってられますか!」
「鬼畜将軍にとってはそれこそ君よりちまっこいことだろうね」
ラグナの足が地面に縫いつけられたように止まった。
「……………………前言撤回。スイート、完璧に変装していきます」
「はい、了解」
でもね、とスイートはラグナの襟を捉まえて言った。
「まずは朝ごはんにしよう? ラグナ」
ラグナが何かを言う前に、彼女の腹の虫が盛大に返事をしたのだった。