chase-22:パシられろこの鬼が
(師っ匠ぉぉおお……!! どういうことでごぜぇますか……!)
今ここに師がいるなら締め上げたい。「ギブ!ギブ!ごめん!許して!」と言ったって許してやらない。
何をトチ狂ってシグマを反乱軍の駐屯地の近くに突っ込んだ。知っててやったのか。いや知らなくても罪深い。杖を握る手に力がこもる。
これでは反乱軍が丸儲けではないか。シグマがラグナの身柄を得たぐらいで果たして反乱軍に加担するのかは不明だ。それでも、反乱軍側のスレイがラグナという最強の切り札を切ったことに変わりはない。
なぜなら。
なぜなら、こいつは。
「会いたくてたまらなかったぞ」
ぞっと笑ってみせる男を見上げて、無機質な仮面の裏でラグナはふつふつと怒りを滾らせる。
くうん、きゅうん、と腕の中の王犬が鳴く。じたばた暴れた銀色の小さなかたまりは、ラグナの手から抜け出すと、その腕をたんっと蹴ってシグマの肩によじ登った。
薄い色の目でそれを見やり、男は小さく嘆息する。
「おまえではないのだがな」
「その犬は趣味が悪いと思うのでごぜぇますが――」
影が差した。ラグナが見上げた瞬間、近づいてきたシグマが薄く笑む。ラグナはひくりと頬を引きつらせた。前回のように止めてくれるスイートはいない。スレイすら。
だのに足は、先ほどから動かそうとしているのに、自分の物ではなくなったかのように動かない。
「――ぅあっ」
ようやく後ずさって仰け反った時、どんっと腰に井戸の石の縁が当たった。
頭ががくんと後ろに引っ張られた。
そのまま上半身は井戸の中へ。
男の腕がするりと伸びて体に巻きつく。
次の瞬間、驚くほど繊細な力加減でラグナの落下は止まっていた。
辛うじて体重を支えるのは井戸の縁に残った腰と男の腕だけ。宙ぶらりんのまま、ラグナは男の腕の中に収められてしまった。
「動くな? ――そのまま、その水の無い井戸に頭から落ちたくはないだろう」
優しく殺人毒を含んだ声が降り注ぐ。こんなえげつない声を出せる人物など、この男の他にラグナは知らない。
しっかり支えるのでもなく、少し男が手を離せば、ラグナの体はいともたやすく井戸の奈落へ飲みこまれる。
なんて凶悪犯だ。絶妙な力加減で逃げられもしない。
シグマはラグナの顔を覗き込んだ。満足そうに細まる目。
「今日は気分が良い。おまえの質問にいくらだって答えてやろう」
ぐっと睨むが、無駄だということは百年前から分かっている。
「……転移には、いつ、巻き込まれたのでごぜぇますか」
「三日ほど前だな。おまえの師には恐れ入った。抵抗するヒマもなく魔法をぶつけられた」
低い声で尋ねたのに返され、少しラグナの体が引き寄せられる。しがみつけと耳元でささやかれ、非常に、非常に、非常に不本意ながら、背中に腕を回した。――では、共鳴現象が働いていたのはその三日間だ。王犬は川を上る間、いつもぐったりしていたからだ。
「それで、どうしてここに」
「目が覚めると反乱軍の野営地のど真ん中だ。今朝ようやく意識が戻って、半日せずに動けるようになった。町が近くにあると聞いて抜け出して様子を見に来たら、おまえがいた」
シグマが少し腕の具合を調整したが、ラグナは相変わらず宙づりのままだ。
片腕で支えられたまま、つっと背中を片手が伝いおりた。思いがけない感覚に息を詰める。
「――っ」
「さて、今度はこちらから質問だ。私がおまえの答えに満足すれば、この状態、ひとまず助けてやろう」
「この鬼畜……うぁあ!」
罵った瞬間、嗤った男はラグナの手首を掴み、背中を支えていた手を一気に腰の下までずらした。
頭の位置がさらに下がって、逆さに井戸の壁が見える。ぱらぱらと髪の束が顔にかかった。
「は、ぁ……」
「知っているか。頭に血を上らせておけば、数刻と持たずに人は死ぬのだが」
笑みを含んだ声が上から降ってくる。
限界までそらされた頤に息がふきかかる。しかし、ラグナの体もろともシグマが落ちることはない。
仮にも軍人だ。ラグナの体を捉えた時、すかさず彼は宙に浮いたラグナの右の膝裏に左足の膝を突っ込み、井戸の縁に乗せた上で、さらに井戸の壁に爪先を突き立てていた。あとは左腕と自分の腰で片足の付け根を抑え込んで、逆の手首を掴んで引っ張っておけばいい。
どうすれば相手が苦しいか、よく知り尽くしている。
その上咄嗟にそんな神業のような抑え込みができるとは。とんだ鬼だこいつは。
「うぅぅ」
ラグナは呻いた。顔に血が集まって火照ってくる。
苦しい。
「頭を水を注がれ続ける水袋に例えてやると分かりやすいか。この袋、溢れられないように全ての隙間は閉じられている。
穴を開けてやれば袋からは水が漏れ、破れずに済む。開けなければ、行き場のない水は袋を中から圧迫する。
――故に古典的拷問法なら、ここで耳の端を傷つけて流血を促すのが定石だが。さて」
これからどうしてくれようか、と、無音で呟くのが聞こえた気がした。
顔は見えないが、声はひどく楽しそうだ。
ラグナは薄く耳鳴りがしてきた――。
「見事に鎌かけにひっかかってくれたものだな。反乱軍もこんな場所に駐留しているのだから、何かしら人をやって手を打っているとは予想していたが。――あっさり間諜を仲間に引き入れて遠足気分か、魔術師。騙された気分はどうだ?」
「う……」
酷薄な罵倒をぶつけられても、反応する余裕もない。
「おまえの師は一体何をたくらんで私をこちらに寄越した? 共鳴距離だけではないだろう。どの道、私はおまえを追ってティーリスに突っ込むつもりだったからな」
こめかみから額にかけて、うっすらと汗が滲む。早くも視界が昏くなりだした。たまらず閉じた瞼の裏が赤く、そして白んでくる。
がんがんと頭が痛む。吐き気がする。
「けほ……っ」
生理的な涙が滲んだ。
答えを、言わないと。はくはくと唇が動く。声は擦れていたが、何を言いたいか、シグマは読み取ったようだった。
「……そうきたか」
意外そうな。
心底、意外そうな声を、シグマは上げた。
朦朧となりかけていたラグナは、不意にぐ、と手首がさらに強く引かれるのに呻いて気を取り戻した。肩が抜けそうに痛んだ。
上体がほぼ水平になったところで、手首から背中に手が移動する。
ほとんど気をやったまま、宙から引き戻される。ほっとして、ずるりと地面にくずおれたかったが、シグマがラグナの膝をすくってぐったりとした体を抱き上げた。
「では、どうする、ラグナ・キア?」
「…………」
ぐらぐらと世界が回る。
ああ、だが、例えどこかの鬼畜のせいで体調が最悪でも。
知己ローゼ・ラヴィアに請け負った以上、ティーリスの憂いは、祓わなければ。
理を曲げて我を通すのが魔術師ならば。
曲げすぎた理を正すのもまた、魔術師なのだから。
――そう、だから、使えるものは使うぞ。ラグナ。
毒を食らわば皿まで、だ。
シグマ・アルスミード。
てめぇのせいで動けない、この私の、足に、なりやがれ。
「さがして」
寄せられたシグマの耳に、ラグナの唇は囁いた。
「どこかに、この町のどこかに、必ずある。さがして」
薄く開けた視界の中で、シグマの口角が上がるのが見えた。
「何を探せば良い?」
目を閉じたまま、ラグナは指を掲げた。
求められるものを描く事など――翠にかかれば、訳もない。
描き出したものを見つめ、シグマがふっと溜息を吐く。
「これか…………」
知っているのでごぜぇますか、と尋ねた。
シグマは静かに頷いた。