chase-21:太古の海
この町に着くまでに、思ったより日数がかかってしまった。
舟がつくと、ラグナは依然ぐったりした王犬を抱えたまま、一番に降り立って駆け出した。
すぐ後をラグナの王犬がわうわうと走り、背後から「ラグナ!」と驚きと咎めの声をスイートが上げて追いすがる。
スレイはそれを眺めながら、肩を一つすくめただけだ。舟の先端に結ばれたロープを引っ張っていくと、岸辺の杭にくくりつけていた。
辺りを見回しながらも、足は止めない。
町には素焼きの煉瓦を積み上げて作ったような建物が立ち並ぶ。どこか牧歌的な雰囲気さえ漂わせるが、それも平時の話だ。
ティーリス北限の町、アインには今、人の気配はほとんどなかった。
土がむき出した通りの坂を駆けあがり、ラグナは井戸を探していた。シグマの王犬の話もそうだが、確かめなければならないことはもう一つあった。
町の中央に石で組まれたものを発見すると、ラグナはその縁にかじりつくようにして井戸の中を覗きこんだ。
深い。そして――やはり、ここにも水がない。
底に水はかろうじて溜まっているくらいで、普段からすればずいぶん水位は低いのだと、石に残る水の跡から推測する。
「川からの水ではなく……地下水脈からのようでごぜぇますが……」
ラグナは眉を潜めた。普通、枯れてはならないはずの井戸が枯れている。
「……」
黙って考え込んだラグナの元に、ようやく息を切らしてスイートが追いついた。
「ラグナ! いきなり一人で走り出して、何をしているかと思ったら……!」
「スイート」
「全く! ……スレイが町に残っている人に話して、部屋を借りてくれるらしい。とりあえずそこで休もう。それで、井戸なんかに来て、一体何が気になったの?」
「……少し、気になることがありやしてね」
ラグナはすっと杖を取りだして、スイートに振り向いた。
「スレイはここには来ないんですか?」
「決まったらこっちに知らせに来てくれるとは言っていたよ。舟の荷物、どうするの」
「運んでおいてくれませんか。私はここでちょっと試したい事があるので、後から手伝いに行きやすから」
「……ボクはいたらまずいって?」
「今から魔連に連絡をとります。機密事項が絡むといけないので、外してほしいのでごぜぇますよ」
「……分かった。行ってくる」
腕を組んで、不機嫌そうに言う。そうですか、と頷いたラグナは、宙に図形を描き出した。
遠ざかるスイートの背中を見つめながら、描き終えた図形のひとつ手前に、くるりと円を描いた。中央に水面のような波紋が広がり、ゆらゆらと円の中の景色が歪みだす。やがて中央には、一人の女性の顔が浮かび上がっていた。
豊かな藍色の長い髪を顔の片側に寄せて、理知的な視線をこちらに流す白衣の彼女は、ラグナの良く知る人物だった。
『……珍しいこともあるのね。貴女がこっちに連絡をとるなんて』
「ローゼ!」
ラグナはぱっと明るい声を上げた。
ローゼ・レヴィア。魔術師連盟の本部に勤務する魔術師の一人で、ラグナの師匠がまだ翠を名乗っていた頃の知己だった。
「太古の海の担当になったんですか。貴女で良かったでごぜぇます」
『ええ。一年前からね。太古の海は今、面倒なことが分かって、てんやわんやしているのよ。責任者の私なんてなかなか捉まらないんだから、運が良かったわ』
「といいやすと、何かがあったんで?」
『魔連内部でちょっとね。貴女が今関わっている王犬の件で面倒なことが分かったのよ。だから、うちに連絡をしてきて正解だったわよ、ラグナ』
「……この子たちの?」
腕の中にいた王犬を見下ろして、ラグナは首を傾げた。
『魔術師の犯罪捜査をウチでやっているのは知ってるでしょ?』
「ええ」
『その王犬の密輸に、指定種管理部の末端が関わっていたの。彼は洗脳魔法を受けていたわ』
「それって……」
その言葉が意味するところに気が付いて、ラグナは目を瞠る。
『何者かが王犬をミゼットに招き入れて、混乱を起こそうと謀ったようね。おかげでミゼット王国からはあらぬ疑いをかけられて、魔連の外交部は死に体よ。全員顔が緑色をしているわ……。
とにかく。末端とはいえ、洗脳魔法にかかった人間がいたってことは、私たちの中の何人かにも侵食された疑いがあるってことよ。
大急ぎで太古の海の全員が優先的に検査を受けたけど、私と部下は全員幸運にもシロだったわ。相手も専門家に勘付かれては困るからかしら、さすがにここに洗脳で小細工を加えることはしなかったようね。
……他は、ティーリス帝国の方に出ていた魔術師も引っかかってるし、トラクの軍事衝突もその影響を受けていると考えていいわ。そのせいで今、精神魔法に詳しい人間は全員出払っているの。指令部の方はまだ結果が返ってきてないから、あなたへの王犬解放の指令は今、限りなく黒に近い灰色の状態だと思っておいてちょうだい。いずれにしても何らかの罠の可能性が高いわ。
私の方からあなたに急ぎで報告しなければならないのはそれぐらい。連絡をくれたのはそっちなのに、ごめんなさいね。改めてあなたの方の要件を聞きましょう』
ローゼは淡々と語ったが、ラグナの想像以上にまずい事態が起こっていた。下手をすれば、ラグナのもたらす情報もまた、魔連にとって致命的な状況を作り上げてしまうのではないだろうか。
だが――同時に、ラグナは小さくほくそ笑む。
逆に、好都合だ。
「……ティーリスの干ばつ被害について、報告がありやす」
『というと?』
「人為的な水源攻撃。そして、天候操作の魔法の存在を確認しました」
『……詳しく聞きましょうか』
すっとローゼの目が細まった。
「私もまだティーリスに入って数日しか経っていないので、全体の状況については何とも言えやせん。ただ、年単位で準備されたものだとは思われやすね。地元の人間の話では、地域によってはもう農作物も植えられないそうです」
『そんなに……報告ではそんな内容はなかったわね。やっぱり、誤魔化されていた……』
「同一犯の可能性は?」
『……有り得ない話ではないわ。ティーリスとミゼット周辺を混乱に陥れ、魔連の悪印象を強めるのが目的だとすればね。所詮は仮定の話でしかないけれど』
でも、とローゼは言葉を繋ぐ。
『魔術師が肝に銘じることはただ一つよ。私たちが理に干渉することを自分に許しているのは、そこにルールがあるからよ。世界の理は、曲げすぎてはならない。――そういう絶対のルール』
一過性の変化はすぐに戻る。力を加えられた木の枝がたわんで戻るのと同じことだ。
だが、あまりにも大きな変化は、必ず元の形の変形を引き起こす。数年がかりで起こされたこの大干ばつ――ティーリスの自然環境全体が狂ってしまう。
『太古の海の責任者として、翠ラグナ・キア、あなたに今回のティーリス大旱魃の解決における非常権限の行使を認めます。通常の権能を拡張しておくから、存分に力を振るってちょうだい。王犬の事はまた詳細が分かり次第、追って連絡することにします』
ラグナはにやりと不敵に笑みを浮かべた。コレが欲しかったのだ。
「その要請、確かに承りやした。好き放題やっても?」
『いいけれど。――ちなみに何をするつもり?」
ラグナの魔法はしっかりしたワンドさえあれば戦略級の威力がある。シグマの放った精鋭二十人を軽くしりぞけるなど朝飯前。その威力の恐ろしさを、ローゼもまた知っているからこそ、そんな問いを発したのだろう。
彼女のうっすらとした不安をくみ取り、安心させるようにラグナは微笑んだ。
「そうですね。手始めに外交部にこう伝えて下さい。『翠の名により、シグマ・アルスミードを重要参考人として緊急召喚する』」
『……彼、今、行方不明よ? トラクでエリアス・トライド付きの『色持ち』が、洗脳されたティーリスの魔術師に気付いて、少将たちの保護に動いたのよ。魔法混じりの混戦の最中に、少将もジェス・カリス准将も転移事故でふっ飛んだらしいの。ミゼットでは結構な騒ぎになっているようだけど』
ラグナは笑みを深めていく。あの、馬鹿師匠。
ラグナの笑みの質が変わっていくのをうけて、ローゼの顔はひきつっている。軽く頭を横に振り、ラグナは溜息を吐いた。
「構いません。私がそう要請した、それが受理されミゼットに受け入れられた、それが成立さえすればいいのでごぜぇますよ。それと、転移は事故ではなくて、おそらくウチのお師匠様のミスに見せかけた『作為的』なものだと思うので。シグマ・アルスミード本人はこちらで捜索して、勝手に連れて行って勝手に引きずって帰るとお伝えくださいやせんか」
『……それ、大問題じゃない?』
「今はこれほど大きな魔法犯罪が起きている事の方が大問題でごぜぇます。張本人を見つけたら、必ず引っ立てやすので、しばらくお待ちを」
では、とラグナは呟いて、終わりの言葉を結んだ。玻璃が砕けるように映像は壊れ、白く輝きの残滓を散らして消える。
沈黙の落ちたがらんどうの町の真ん中で、ラグナはさて、と腕を組んだ。
「盗み聞きは感心いたしやせんよ」
若干の嫌味を込めて声を張り上げると、斜め後方から、さりっと軽く砂を踏みしめる音が響いた。
盗聴者の靴音はスイートとスレイ、いずれのものでもない。
ラグナは振り向くと、冷めた色の瞳を町の角へ向けた。
角からぶらりと現れたのは、褐色の外套に身を包み、フードを目深に被った人間だった。背格好からして男だ。彼がポケットに手を突っ込んだまま、すいと軽く顎を上げると、薄氷色の目がラグナを射抜いた。
風が吹いてフードが後ろに倒れ、ラグナの様子を窺っていた本人の顔が露わになる。
銀の髪が風に遊ぶ。
冷徹な表情をゆっくりと歪め、彼は微笑む。
ラグナは黙って手に持った杖を強く握りしめた。
「悪趣味。下衆が」
「情報など盗んでこそのものだろうに」
ラグナの罵りに堪えた風もなく、さらりと返す。悪びれたところが少しもない。
「共鳴現象がさぞかし暴れた事でありやしょう。少しは苦しんだのではねぇでごぜぇますか」
「ああ、あれは流石に参ったな。二度としないでほしいものだ」
「貴方をぶっ飛ばしたお師匠様にその文句は言ってくだせぇませんかね。私の責任ではありやせんので」
ところで、とラグナはシグマ・アルスミードに問いかける。
「連れがいたのでは?」
「ああ、置いてきた。おまえの気配が恋しくてな」
「気持ち悪いことを言わねぇでもらえやせんかね……町にはいないようですが」
「何だ、気付いていないのか」
シグマがぼそりと言ったのを拾って、ラグナは眉を潜める。
「ここはティーリス反乱軍の駐留地からそれほど離れていない。――おまえは見事に反乱軍の間諜にかどわかされてきたようだな」
「――」
ラグナは黙したまま、その言葉に目を見開くのみだった。