chase-20:風が吹く
首を長ーくされた方。お待たせしました。
――ぽたりと。
空から滴が落ちてくる。
滴は差し出した手の平に落ちて弾けた。手の上で光を湛える水を、彼はぼんやり眺めていた。
久方ぶりに手にした、濁っていない、きれいな水だった。
*
反乱軍の野営地で枯れ木に登り、借り物のコートに包まりながら見張り番を務めていたジェスは、雨の気配に目線を上へやった。
「……雨?」
呟いた時、不意にジェスは、トラクで軍事衝突が起こってから、この国で今日まで、雲一つさえ見たことがなかったと思い出した。
ティーリスの渇きに早くから気付き、指摘していたシグマが倒れてから既に三日。眠りは深く、彼の男が目覚める気配は未だにない。その元凶となった事件を振りかえって、ジェスは首を傾げた。
「あいつ、どうやって王犬なんかを使い魔にしたんだろうなぁ……?」
記憶が確かならば、王犬が火を吐いた時、それを剣で一刀両断した彼は、王犬を苛烈とも言える勢いで攻めたのだ。相変わらず凄まじい切れの剣技は、見ていて思わず呼吸が止まるほど。傍観者にすら息もつかせぬ、鬼神の如きでたらめな強さだった。
しかし、それでも妙なことは妙だ。
「魔獣を使い魔にできるのは魔術師ぐらいだって、前に聞いたことがあるんだが……って、うぉ……」
首を傾げたところで、ぱらついていた雨は本降りになってくる。見張りを放り出すわけにもいかない。参った。その時、ジェスを呼ぶ声がした。
「准将さん!」
下から呼ぶ声に視線を落とすと、木の根元から一人の青年がこちらを見上げている。見ればその手には大事そうに畳まれた合羽があった。彼も同じものを着ている。
「若が准将さんに渡すようにって」
「おお、助かった助かった。こんな雨、まともに浴びたら堪ったもんじゃねぇ」
言いながらするりと木から滑り降りる。ありがたく合羽を受け取ると、薄灰のそれを上から被り、フードを引き上げて溜息を吐いた。
「悪いな、コートだけじゃなく合羽まで借りちまって。俺らは盛装してたから……、こう自然のど真ん中じゃ、国の赤は目立ってしょうがない」
言うと、苦笑が返ってきた。
「いいんですよ。大国の将軍が二人もこちらにいらっしゃるので、みんなの士気も上がってます」
「俺らは別に指揮とる訳じゃねぇんだけどなぁ」
ジェスは言いながら、木立の奥へと視線を戻した。
軍とはいえ、その多くは元がこのあたりに住んでいた農民だ。自分たち職業軍人が属する国がそもそも違うことも、よく理解していないのだろう。
暗に協力はしない、と仄めかして、ジェスはのんびりした調子で頭を掻く裏で、思考を巡らせる。実際にどうなるかは分からない。自分の国がどちらに着くか……それは軍でなく政治方面で取り決められることだ。暴走して既成事実を作る訳にもいかない。ミゼットはティーリス側を支援する気でいたようだったが。
それでも内乱には協力しないと言っても、なし崩し的に参加することも最悪有り得る。その時はうまく立ち回ってミゼットの利になるように情勢を動かすことで、戻った時に功績と独断に対する罰とでとんとんにしてほしいところだ。ここの若と呼ばれている頭がどこまで切れ者かどうかで最終手段の可否が決まるだろう。
(その前にシグマが目覚めたらいいけどなぁ。……うまいこと言ってずらかる方法とか、ねぇかな)
頭とは一度顔を合わせたが、どうもその時に全容を掴みとれなかったのが気にかかる。現在のジェスといえば、シグマを人質に取られているも同然の立場なのだ。
どれほど有能でも、意識がなければただの荷物ということか。
やれやれと口の中で呟いた。
(……まあ、あいつなら起きたら最後、大体どういう状況でもがっつりひっくり返せるだけの能力と気概があるし。大丈夫だとは思うがねぇ……?)
「なぁ、この雨、何日ぶりに降ってんだ?」
「え? えーと……さて、どれくらいぶりですかね……俺の記憶が確かなら、もう一ヶ月近く、まともに降っていなかったと思いますよ。雲の一つも見当たらない日照りばかりだ」
「そんなに長くか……」
「ええ。川は生活の分しかまかなえないほど枯れてしまって。植えた苗も、全てダメになってしまう。収穫の見込みがない、税も払えず、先の戦争で疲弊した国に蓄えなどあるはずもなく……このままでは、俺たちは死を待つしかない……この決起は、命がけで上げた民の叫びみたいなもんです」
「……」
ジェスは何を言う事もできなかった。不安げに揺れる青年の瞳をちらりと窺いながら、思う。
(こいつらは、何も気付いていないんだな……。『この国だけ』、違うってことに)
シグマに促されてジェスも気付いた、この国の不自然さ。
渇いたのではない。渇かされたのだ。どうやってかは分からないが、この国だけに狙いを定めて、空を操作した者がいる。
世界の摂理を操る。そんなことができる存在は、この世にただ一種類のみ。魔術師たちだ。
(魔連の奴ら、何を考えてティーリス帝国に干渉した? 帝国はこれに気が付いているのか?)
それに、シグマとジェスをここに送りつけた張本人、エリアス・トライドが言っていたことも気にかかる。魔連にシグマは狙われている。ラグナを囲ったのが原因なのだろうか。そもそも、極めて冷徹だと知れ渡っている彼が、何も考えずにただの好みでラグナを選ぶのか。そこもずっと疑問として残っている。
何かある。間違いなく、何かが。だが、事の全貌は全くうかがい知る事も出来ない闇の中にある。
(気持ち悪ぃな……)
ジェスは眉を潜めた。
「ああ、そういえば、少将さんの話ですけど」
「ん?」
ふと思い出したように、シグマの事を口にした青年の横顔をジェスは見やる。
「さっき、薄っすら目を開けたって言ってましたよ。爺さまが」
「…………あ?」
*
見張りを青年に任せ、野営地に駆け戻ってきたジェスは、息を切らしてテントに飛びこんだ。
「シグマ!」
がばりと膝をついて寝ている男の側に座ると、隣で様子を見ていた老医が仰け反った。
「……そこまで鬼気迫らんでも。ちゃあんとワシが見ておりましたよ」
「さっき、目を覚ましたって聞いたんだ。本当か」
「『咽が渇く』と、水を所望されておりましたの。飲み水は幸いこの近くから湧き出た川があるので、先ほどそれを汲みに行かせましたが……」
そこで言葉を切って、老医はシグマの白い顔を見やる。
「未だ、はっきりした意識ではないようで。なかなかに、使い魔と深い繋がりであらせられるようです」
「他に、何か言っていなかったか?」
「ここの事を、聞かれましたな。今のところ、ただの野営地だとだけ、伝えておりますが」
「……分かった。後は俺から詳しく話すことにする」
老医は顎をひと撫でして頷いた。
「では、少し、席を外させてもらってもかまいませんかの。用を済ませれば戻りますので」
「ああ、分かった……」
ゆっくり立ち上がった老医は、テントの中からふらりと外へ出て行った。
「……行ったか」
擦れた声が耳に飛びこんだ。医者を見送っていたジェスははっとシグマの方を見た。今まで閉じていた瞼は薄っすらと開き、淡い蒼の瞳がそこから覗いていた。
「おい、大丈夫か。いきなり倒れ込んだからこっちは度肝を抜かれたぞ」
「ふん……」
鼻を鳴らし、シグマはのろのろと瞬きをした。そこにはいつもの切れはない。振り払えない睡魔に抗っているようだった。
「あれから、どれだけ経った」
「三日だ。おまえ、王犬の事件で奴らのうち片方を使い魔にしただろ。急にトラクからこっちに飛ばされて、奴らとの距離が離れすぎたのが原因だとさ」
「……ふ、なるほど」
自嘲するように淡く嗤うと、シグマは目を伏せた。
「……共鳴現象は、こちらでも起こり得た訳か……」
共鳴現象、と言われて、ジェスはふと気づいた。そういえば、シグマはラグナと王犬が起こした共鳴現象に気を取られている時に不意を突かれて、彼女を捕まえ損ねたという。その時すでに、ラグナは王犬を使い魔とした後だ。やはりシグマともう一頭の王犬の間には、関係が築かれていることになる。
「……私が目を覚ますことができたのなら、私の方に、ラグナは近づいてきているということだ」
「ああ、……そうなるな」
「……近くに、集落や町は」
「あるっちゃあるが、もう半分ほどの住民がそこを出て行っているそうだ。水源に近いだけで何とか持ってるが、川の水量は明らかに減ったって言ってな」
それを聞いて、シグマは考え込むような色を瞳に乗せた。
「…………風に」
唐突にシグマは口を開いた。
「あ?」
「風に気付いた」
風、とジェスは訳も分からず繰り返した。
「私は気付いたところで、どうにもできんがな」
「……何言ってんだ、おまえ」
「天候を操る術について、思いついたことがある」
ジェスの言葉に気に留めた様子もなく、シグマはつらつらと語る。眠気でぼんやりとしているはずの蒼氷の瞳は、熱に浮かされたように何か別の色を映している。
「できるとするなら、それは風を操ることで可能になる」
「……雨雲の流れを、風で操作するのか?」
かろうじて理解できる言葉を拾い、ゆっくりと問い返す。こいつは、何を言っている?
「違う。転写だ。分かるか、ジェス。風の流れは、地表のものを転写することで生み出される」
この男にしては珍しくうまく説明できないことらしく、苛立つように眉を寄せた。
「……αἰώνの象徴画が予想される。こんな慢性的な状況を作り出すためには、時間指定の要素が不可欠だ……」
「……おまえ、何言ってるんだ?」
ジェスはようやく、警戒の色を滲ませた。
おかしい。
こいつが、魔術について、うんたらかんたら言える立場の人間か。今まで、少しだってそんなそぶりは見せなかったのだ。
しかし、返ってきたのは、意外な答えだった。
「……分からない」
「は」
「いつの間にか……頭の中ではないどこかから、知識が勝手に漏れてきたような感覚だ。どこかに源泉がある。あるとすれば、それは」
一旦シグマは言葉を切った。
「ラグナの頭の中、ということになるだろうな。だが、私には、理解はできない。『翠』のレベルでの深い魔法への理解も何もない状態で、門外漢の私が専門用語の羅列の仮説を得たところで、どうにもできん」
「……それ、ひょっとして、王犬との繋がりの弊害か?」
それは、まさかと思うが。
ラグナの知識と技術が――例えば理解できるレベルへ意訳を行う者が存在しない、原文ままの状態ではあるものの――入手できる窓口が、シグマの脳内に出来上がってしまったらしい、と、とりあえず、ジェスは混乱したままの頭で、大まかに事の全容を理解した。
下手をすればそれは、ミゼット側が、魔連の秘密を握ることに繋がりかねないのではないか?
おいおいおいおい、とジェスは口の中で呟いた。
まだ、この事実に気付いている人間がどれだけいるだろうか。
シグマと王犬の間に、繋がりができたばかりか、とんでもない情報の流出路が構築されたのだ。
「……なぁ、シグマ。おまえ、知られるなよ。絶対に」
声が硬くなるのを抑えきれなかった。
「そうでなきゃ、おまえ……」
「残念な事だが、できん相談だ」
短い拒絶に、ジェスは絶句した。
「もう知られているだろう。王犬を押さえられる方法は限られている。それが使えるのは魔術師だけだ。――王犬が密輸されたルートを調べさせていたが。こちらに出て来る直前に上がった報告では、組織単位での犯行だと考えられたが、界隈で知られた密輸組織の間で、目立った金額が魔連関係のヤミ機関へ動いた気配はなかったそうだ」
息を呑んだ。
――魔術師は、兵器だ力だと目の色を変え手を伸ばしてくる輩から自らを守るために、自らを管理する組織に属する。
シグマに監禁されている最中、暇を持て余してそうジェスに語ったのは、ラグナだった。
あの娘(成人しているが、童顔すぎる)がそれでもシグマのところに囲われて、何も外野から言われなかったのは、きっとラグナ自身が、建前か本音か分からないが、自らの意思であの場にいるという、何らかの意思表明を魔連に対して行っていたからではないのか。それか、魔連はラグナに手出しができない状態だったかだ。
真実がどちらかはさておき、魔術師はそうやって魔連に管理される。魔連へ金が動かなかった、しかし組織立っての犯行の可能性が高い。それは、つまり。
「じゃあ王犬を密輸させたのは、魔連ってことか……?」
信じられない思いでジェスは呻いた。
何のために。何のために、そうしたのだ。
王犬レベルの魔獣が人里で暴れれば、魔術師が動く。その場に一番近い魔術師が対応する。魔連からの技術提供を受ける各国もまた、そうなるようサポートする体制を全力で整える。そういうルールになっている。
ラグナはシグマの手の中にいても、外にいても、そこに行く運命だった。行かねばならなかっただろう。いかな将軍でも、国から命令されれば逆らえない。そしてシグマはやはり、近くに姿を現していたはずだ。
王犬を二人で押さえる流れになっていたことは、間違いない。
分かっていたのだ。彼は、今までの流れを受け、その報告が上がり、ティーリスとの対談の場に足を踏み入れた瞬間から、悟っていたのだ。
『罠』だと。
闖入者であったあの魔術師三人組の存在は、シグマにとっては、むしろ大歓迎だったのだろう。
「だから、初めに言っただろう」
シグマが静かに呟き、もう一度、ジェスに詫びた。
「……『悪い。巻き込んだ。』と」