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鬼畜チェイス  作者: 風癒
魔術師、もふもふ北上す   【ティーリス動乱編】
21/27

chase-19:翠の記憶

 エメラルドの色は、いつも憧れの象徴だった。


 幼い時の記憶は、ある時期を境に朧気になってしまっている。唯一はっきりと思い出せるのは、暗く冷たいあの部屋に、一人押し込められて泣いていた時の事だった。奴隷の烙印を刻まれた背中が訴える激痛さえ、不安や寂しさ、心細さの前には霞んでしまった。まるで、明日が永遠に失われてしまったかのような。ラグナにとって、あのひと時は人生の中で最も暗い時期の一つだった。


 しかし、そうやって床に座りこんで、止まることのない涙が作った染みをぼんやり見つめていた時。


 とても大きな音がした。


 叫び声が聞こえた。子供のものも大人のものも。


 それでもラグナはまだ泣いていた。涙はいつになっても枯れなかった。きっとこの身が干からびるまで涙に搾り取られてしまうのだと思っていた。


 次にもう一度、一際大きな音がして、気付いた時、ラグナの目の前には派手な衣装の男が立っていた。彼の手にあった獅子頭の巨大なメイスに目を奪われたラグナは、次いで彼の背後に目をやった。何もない。冷たく固く、無慈悲に閉ざされていたはずの扉は熱されて溶け落ち、彼の背景はただ真紅に燃え上がるのみとなっていた。

『――これが爺さんの秘蔵? へぇ、そうなのか』

 呆然としているラグナに、男は告げて、大きな手を差し出してきた。


『おまえ、行くあてねぇなら俺のところに来いや。世話してやる』


 ラグナは訳も分からないまま、男の手をとった。その指にはまっていたエメラルドの指輪が、炎の光を鮮やかな橙に反射して煌めいていた。


 彼の手を握った日から一週間経ち、ようやくラグナは、エリアス・トライドという名を知った。


 かつて翠の魔術師と呼ばれた、師の名前を。





 分からないことだらけだ。

 ラグナは思って、ぎぃこ、ぎぃこ、と木製の古びた舟が鳴くのを聞きながら、ため息をついた。

 景色がゆっくりとした速度で流れていくのを見ていたスイートが、ちらりとこちらを見やるが、またすぐに岸の様子に目を戻した。

 櫂を漕いでいるスレイはもの言いたげにしていたが、二人とも何も口を開かないため、黙り込むしかない。その足の間でじゃれあってはしゃいでいるのが、王犬たちであった。

 スレイの話では、北西に行くなら、少し距離が離れているが、川をさかのぼって、そこの船着き場を利用した方が早いのだという。王犬たちの故郷リディンス山から流れ出る水が、ラグナたちの道だった。

 ちょうど駅のある町から歩いたところに漁師たちの使う舟があり、軍事衝突の報によって避難した住民の持ち物を、ひとまず船着き場までの足として拝借したのである。


「……お師匠様が私を後継として指名して魔連に残した時、魔連側がしつこく私にお師匠様についての話を聞いてきたことがありやした」


 ぽつりと呟くと、怪訝そうに二対の視線がラグナに向けられた。


(エメラルド)の魔術師として、魔連は私を会議に召喚して、妙なことばかり聞かれたのを覚えていやすよ」

「妙な、こと?」

 スイートが首を傾げた。

「ええ」


(『何も知らないのか。どんな研究をしていたのかも?』)

(『知っているも何も……というか、お師匠様の研究って、ほとんど生体魔法と情報収集魔法に命かけていやしたし、お師匠様の家にあったのはそれに関する書籍が全てでしたから……――』)

(『それは提出された資料や彼の家を訪ねた魔術師も言っていたな。それは、何のために?』)』

(『そりゃもちろん……』)

 お歴々を前にして、ラグナはこう言ったのだ。

(『――女と気兼ねなくガチで『分かった、それ以上言わなくていい。あの色ボケ男について尋ねた我々が馬鹿だったようだ。顔色一つ変えずにそれを口にする君も大概だが』)

 全く、どうして翠のは代々変態が揃うのだ――、云々(うんぬん)、かんぬん。


 とにかく、その一言で、ラグナにはほとんど利用価値がなくなったかのような態度を魔連はとっていたのだ。

「なのに今更どうしてラグナにこだわるのか。そこが理解できないってことだね?」

「ええ。しかし、今思い出しても変態とは失礼な話でごぜぇましたね。いつか一発殴れやしやせんかねぇ」

 のんびりと言うラグナだったが。

「…………何だって、そんなに彼らは君の師匠の研究について知りたがったんだ?」

「さぁ?」

 殴る発言に若干引きつつも、スレイが発した素朴な疑問に、ラグナは首を傾げて返す。

「でも、お師匠様は魔連に所属していた頃は、本当に優秀な魔術師だったんでごぜぇますよ」

「魔連も彼をただで手放すのが惜しかったから、ラグナにいろいろ聞いたってことなんだろうね」

「……本当にそうだったんでしょうかね?」

「え?」

「本当に、そうだったんでありやしょうか?」

 ラグナは空を仰いだ。天高く昇った日が眩い。肌を刺す日差しは鋭く、雨を降らす雲一つさえ見当たらない。川も枯れ果てる勢いだった。

「あの後、私もいろいろとあって、忘れていやした。でも……今思い返すと、あれは……」

 尋問された後、部屋を出ていく時、ラグナは閉じた扉越しに確かに聞いていたのだ。

(『……まぁいい。既にアレはこちらの手中にある。例え何をしようと、以前のようにはいかないだろう』)

 訳あって鍛えられた地獄耳が、しっかりと捉えていた内容から察すると。

「……お師匠様は、魔連に、警戒されていたのかもしれやせん。今でも、と付きそうでありやすが……」

 ふーん、とスレイが気の無さそうに相槌を打った。

「あ、そうだ。分からない事があるんだけど。君は色持ちとしてもかなり若いよね? そんな若い弟子を残して、魔術師エリアス・トライドはどうして魔連を離れたの? よっぽどのことがない限り、魔術師は魔連に所属して自分の身分を守るんだろう?」

「あ、えっと、それはですね」

 ラグナは口を開きかけて、答えに窮した。どう説明すればよいのだろう。

「スレイ」

 しかし、それを遮って、咎めるように、スイートが静かな声で青年を呼んだ。

「いいんです、スイート。隠すほどのことではありやせんよ」

「でも」

「師匠の恥は弟子の恥。ですが、それを隠すのはもっと恥です」

 ラグナの言葉に、スイートはうっと詰まる。

 ラグナはスレイの瞳を見据えた。蜂蜜の複雑な色合いが彼の青い瞳に映り込む。こちらの目に魅せられてか、スレイが軽く息を呑んだ。

「……お師匠様は役職を罷免されたのでありやすよ。戦時外に、人を魔法で殺した咎でね。……私のせいです」

 ばしゃん、と櫂が水面を不格好に打った。静まり返った舟の上に、波の音だけが響く。

「……あー。えーと」

 スレイはあれこれと言葉を探していたらしい。逡巡のあげく、開けていた口を閉じて、俯いた。

「…………ごめん」

「気にしないで下さい」

 言いながら、ラグナは(スタッフ)を水の中にそっと差し入れた。

「もう昔の話です」

 魔法が神秘の働きを見せる。

 舟は櫂の助けなしに、音もなく再び進みだした。

「少し急ぎやしょう。もうずいぶんと日が高くなりやした」

「そうだね。確かに急いだ方が良いと思う。ラグナ」

「はい?」

 含みのある声色に、ラグナはスイートを見やった。彼女の腕の中には、王犬の片割れが収まっている。

 何だろうと思う間もなく、違和感に気付いた。王犬の様子がおかしい。ぐったりとスイートの腕の中で力をなくして、ふんふんと鼻を動かしては不安そうに彼女の胸に頭を擦りつけている。

「話していた時から急に元気がなくなった」

「……彼はどうしたんでごぜぇますか?」

 元気のない片割れを覗きこむもう片方の王犬に訊ねると、王犬はふんふんと鼻を鳴らして、ふぅっと荒く息を吐いた。


『寂シガッテル』


「え?」

『主ガ、遠クニ行ッチャッタノ。怖イヤツ、ラグナヲ苛メタ』

「シグマのことでごぜぇますか? でも、あれはまだ――ティーリスとミゼットの国境境にいるはずですよ?」

 すると、ラグナの言葉に、きゅぅん、くぅん、と切なくシグマの王犬が声を上げた。

『――違ウッテ。オウチノ方二近クナッタノ。イキナリ』

「――は?」

『主、イナクナッチャウ。怖クテ、鳴イテル』

「……」

「ラグナ?」

 急に黙り込んだことに異変を感じたのか。スイートが怪訝そうにこちらを見る。

(あの男が、いなくなる?)

 それはある意味、ラグナの人生にとって非常に良いことのように思われるが。その時、一瞬感じた違和感に、ラグナは戸惑った。

 シグマが王犬の片割れを引き連れてラグナの前に現れた時、ラグナは王犬をシグマが(くだ)したのだと思った。現に、王犬にはシグマの場所が分かる。その事があったから、ラグナは多少安心してここまで旅を続けてこられた。しかし、ふと疑問に思ったのだ。

 魔物を使い魔にできることがある。それを魔物の選定と人は呼ぶ。

 しかし、あの男はこの王犬に、何をしたのだろうか。恐れるあまり、ラグナの中では判断基準が少し狂っていたらしい。彼なら何をやってもおかしくないと思い込んでしまっていた。ラグナは魔法の優れた技術を示した訳だが、よもや暴力だけでねじ伏せたとは思えない。そんな生易しい手段では王犬は折れたりしない。選定が行われたからには、王犬の琴線を刺激するだけのものをシグマは持っていたはずなのだ。では、それは何だったのだろうか。

「シグマ・アルスミードは……魔法を使えない、只人のはずなのでありやすが」

 魔法に関してド凡人のはずの男が、魔物に選定をされて、それで今まで王犬の状態を何事もなく維持できていた。よくよく考えればおかしすぎる。共鳴距離だって、ここまで離れても耐えられるとは、もはやバケモノ……。

「相変わらず気っ色悪い男でごぜぇますね、あの将軍は…………、…………。……? …………共鳴、距離?」

 考えながら、気付いた。

 自分は、何やら重要な事実を、それはそれは綺麗に見逃していたようだ、と。

 ぶわっ、と全身から冷や汗が噴き出した。

「……まずいでごぜぇますよ。ちょっとばかりかかなりまずいでごぜぇますよ……!」

「ラグナ、ラグナ。さっきからぶつぶつ言っているけど、大丈夫?」

 スイートの声に、ラグナは伏せていた顔を上げた。何があったのかと訝しむスレイの顔を見つめ、焦ったままラグナは口を開いた。


「何が奴にあったのか分かりやせんが、このままだと王犬が弱っちまいます。万が一があれば――いえ、やめましょう。とにかく、急ぎやすよ!」

 言って、指先で天を突き上げた。

「へ? あ、ちょっ――うわぁああああああ!?」

「ラグナぁ!?」


 手漕ぎのボートが、爆発的な勢いで川をさかのぼりはじめた。





 暗闇の中にいる、夢を見ていた。



 昔の夢のようにも思ったが、すぐに、違うとシグマは気が付いていた。

 太陽のような黄味を含んだ、ふわふわとした白金の髪をなびかせた少年と、自分は向かい合わせに立っている。温かくこちらを見つめる蒼い瞳の中には、無表情の、同じ髪色の少年が写っている。ただし、こちらの瞳は、向かい合う彼のものよりも酷薄な色を呈していたが。

 少年は口元に小さく笑みを湛えていたが、ふと首を傾げて、こちらに手を伸ばしてきた。

「おまえ、髪が伸びたね」

 こめかみ近くの髪を一房、手に取って、彼は不思議そうな顔でそう言った。

「……変わらないな」

 シグマは少年を見つめて呟いた。質問には答えない。

「大きくなったね」

 これは幻に過ぎない。

 幻が、顔をしかめた。

「今、どこにいるの」

「分からない」

 気付くと、少年の瞳に映っていたのは、彼を見上げる白銀の髪の男の姿だった。膝をつく格好で、シグマは目を細めた。

「おまえ、大丈夫なの」

「……どうだろうな」

「さっきから、ずっとここにいる。おかしいよ? 今日の朝はいつくるの?」

 何も聞きたくなかった。

 シグマは目を伏せた。


「――喋るな。死者が、べらべらと」


 黙り込む気配を前にして、シグマは立ち上がった。

 見上げる少年を無視して、その肩の脇をすり抜けていく。

「なぁ。ぼくはおまえを傷つけたか?」

 不意に背中に投げつけられた言葉に、シグマは束の間、足を止めた。

「――いいや。何も」

 なぜなら。

「死人に傷つけられるようなことなど、何もない」

 投げ捨てて、そのまま歩いて行く。

 長い間、そうやって歩き続けて、やがて闇の向こうに、仄明るい空間を発見した。

 紅い絨毯が敷かれた上に、柔らかい、クリーム色の巨大なクッションが置かれている。

 本来ならばシグマの私室にあるものだ。あの魔術師は手持無沙汰な時、よくここに転がっていた。

 彼女は、現に今も、そこに沈んで静かに寝息を立てている。

 近づいていくと、傍らに腰かけた。

 くっと笑う。

「……夢でもおまえは私を煽るか?」

 ばらりと広がった、翡翠色の髪に触れる。絹のように滑らかな、温もりのある感触が、手に広がるのが心地良い。無造作に露わにされた白いうなじに、喉が鳴った。

 身を屈めて、首筋に唇を寄せる。さて、どうやってこの可愛らしいものを無残に苛み抜いてやろうか。

 無慈悲に計り事を巡らせ始めた時、んん、と、少女のような声が漏れるのが聞こえた。


 ごろりと小柄な体が寝返りを打つ。

 ぼんやりと開かれた蜂蜜のような甘い色の目は、シグマを捉えてはいるが、そこには恐怖も怯えもない。別の誰かを見ているようだった。

「…………ファイ? ぁぐっ」

 潰れた悲鳴がか細く喉から漏れたことに気が付いた時には、その細首を締め上げた後だった。


「――誰の名だ、それは?」


 擦れた声が出て、初めて、喉が一瞬にして干上がっていたのだと知る。

「おまえが、何を知っている」

 苛立ち。

 ぎりぎりと歯噛みをした。



「おまえに、何が分かる。ラグナ・キア」


 ただ、自分に愛でられるだけの玩具であれば、それでいいのだ。

 壊れたとして、構うものか。

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