幕間-『Let's dance!』
「…………、」
ディート・フルロ・ペンネは、薄っすら口を開けたままで呆けていた。
朝の食堂に毎朝顔を揃える幹部たちは、身動きもしない彼の顔を訝しげに見つめている。そもそも彼が驚いて硬直すること自体が滅多にない。
しかし、視線を感じていても、ディートにはそれを見返すことはできなかった。
原因は手元の新聞である。
「頭領、どうしました」
幹部の一人に尋ねられたディートは、のろのろと紙面から顔を上げる。ようやく問うた相手を見やったが、またしても視線は逸れて、あらぬ方向へと飛ばされていた。
宙を見つめ、ディートは擦れた声で呟いた。
「――エリアスったら。人がせっかく隠してやってたのに出て来ちゃってるのよ」
一同が――側らに控えていた給仕までもが――息を呑む気配がした。
がたがたがたん、と複数の椅子が一斉に音を立てる。血相を変えるとまではいかないが、強張った顔が並んでいた。主の一言から大まかな事態を把握した幹部らは朝食の残りもそこそこに、食堂を後にした。
――ペンネの名を背負う者が、世の動きに出遅れた。極めて異例で重い事態だったのだ。
一際背の高い幹部の一人が、大股がちにディートの横にやってきて、巨体を縮めるように礼を取る。
「情報が遅れまして、申し訳もありません。すぐに調査いたします」
「任せたわ――本当に、向こうで何があったのかしら」
後手に回ってしまったか、とディートは歯噛みしながら、問題の記事を破り取る。昨日の昼間に起こった出来事のようだったが、それならば現地に張らせていたペンネ家の者からこちらに既に報告が上がっていなければおかしい。
「……さては奴の仕業ね。サイト、残りの皿片付けといて」
「は」
舌打ちしながら立ち上がると、ディートは自室への道を急ぐ。
(ぬかった……まさか、こんなことって)
階段を一つ飛ばしに駆け上がり、ドアを蹴る。部屋に飛び込むと、すぐに机の中からファイルを引き出して、猛然と資料をめくり出していた。
■将軍ら、行方不明に■
昨日午後、北方の国境線における軍事衝突の戦闘を一時停止し、トラク市街で行われていた会談に、突如不審人物が乱入して戦闘になり、ミゼット軍の11名が死傷、また混乱の最中、現地にて指揮を取っていたシグマ・アルスミード少将並びにジェス・カリス准将が消息不明の事態となった。当時行動を共にしていた副官らの話から、乱入してきたのは前『翠』、無所属の魔術師エリアス・トライドらの一派と見られており、現地では既に将軍らの捜索が開始されている――
(魔術師一派――は、エリアスの傍には、確か彼の後輩のテイワーとトースキンがついていたはずだから、きっと彼らのことを指している。三人一緒に行動するなんて、色持ちが二人もいるのだから魔連に察知されない訳がないのに――)
そこでふと、気付いた。
彼らが少将らにしでかしたことの真相ではない。もっと別のことだ。
「……翠、藤、炎。ひょっとすると、“あいつ”も?」
先日、ラグナのことを探ろうとしてここを嗅ぎまわっていた人間のことだ。
魔術師連合では、魔法の使い手としてトップクラスとなった者に、賢色と呼ばれるいわゆるシンボリックカラーが与えられることがある。かつて翠の色を与えられていたエリアスもそう、現在その翠の席を埋めるラグナもそう。もともと彼らの出自が多様だったこともあり、色の名前は語源があまり統一されていないようだが、それだけに色の名は彼らの体をよく表していると言ってもいい。
ディートの頭にその人間のことが浮かんだのは、実際に対峙して倒された者たちから聞いた話では、件の侵入者は蒼い仮面をかぶった人間だったからだ。彼は――顔は隠していたが、体格からしておそらくは男だと思われた――家の者たちが上げた誰何の声に、一言、謎の言葉を投げかけてから去ったという。
何のことだろうかと思っていたが、そういえば、そうだ。
あるではないか。その一言に対応する《シンボリックカラー》が。
「――、って訳?」
その色を呟くと同時に、顔をしかめた。その響きに妙な覚えがあった。
「いつだったかしら……前に、何度か。最後に聞いたのは……」
額に手を当てて考えこんだ。記憶の引き出しを次々に開けていくが、なかなかこれというものがない。
おそらくまともに意識がある時のものではない。きっと酒の席か何かで聞いたのだ。それも、最近ではなく、かなり前に。
(『……グナは………………の印を奴に………………商人じゃない……あれは――だった』)
閉じていた目を開き、ディートはじりじりと焦りがこみ上げてくるのを感じた。
(『一人、まだ――…………だが、…………れなかった』)
引っかかった。
だが。
「なにこの芋づる式」
ディートは呻く。同時に、じわじわと記憶が戻り出した。ずいぶんと思い出すのに時間がかかったが、その甲斐はあったというものだ。
記憶にある声はエリアスのものだった。
アレは――いつものように、彼から“全て”が終わった後に初めて聞いた名前だ。
「生きていたの? エリアスの話じゃ、確か、彼は」
手の平で目元を覆いながら、眉根を寄せた。
もし、そうだとしたら。自分たちの認識が、誤っていたのだとしたら。
「……魔連が動く訳ね」
早くエリアスを見つけて彼に知らせなくてはならない。アレが生きている。
――魔法を起こすために干渉する世界の理は、一魔術師ごときに覆せるものではない。しかし、かつて彼は世界を危うくひっくり返すところまで登り詰めた、近年でも“最狂”の忌み名を与えられた人間だった。
彼の所業は、いずれも間違っても一端でさえ世間に露見してはならないものだ。情報の秘匿の度合いを言えば、裏社会にいたディートですらエリアスに教えられるまでその存在に気が付かなかった。世界有数の超精度を誇る精神干渉の魔法が様々な人間の意識に影響を与えていたからだ、とエリアスは言うが、結果だけを見れば、大いにディートのプライドを刺激してくれた騒動だった。
当時、秘密裏に水面下でエリアスが繰り広げたというギリギリのやり取り。それによって生じた結果が、数年後にあの事件で彼にまで跳ね返ってくることになろうとは、おそらく誰も見通せなかった。
そしてさらに悪い事に、全てを知るはずの彼は魔連から去り、ディートの庇護下から抜け出て、誰からも手の届かない場所で独自に動き出した。
謎はまだある。
記事ではカリス中佐――あれは確かジェス・カリスの妹だったはずだ――が魔術師による転移の可能性もあると指摘しているが、本当にエリアスが彼らを転移させたのだとすると、その転移先がどこであるかも問題になる。
情報網を駆使して探し当てただけではまだ足りない。なぜその場所である必要があったのかも含めて推察しなければ、エリアスの意図は掴めない。
つらつらと考えを巡らせていたディートは、そこで。
にや、と笑った。
今感じているものは、これまで何度も危機に陥ったディートが、その場の突破口を見出した時のあの感覚に似ていた。
ラグナ・キアがアルスミード少将の元を飛び出してから、ここのところ妙に各所の動きが忙しないとは思っていたが。
「単なる逃走劇かと思ったら。それだけではどうも終わらせられないみたいね」
唇を湿らせ、ディートは眼差しを深くする。
シグマ・アルスミード。
エリアス・トライド。
魔術師連合。
そして、我がペンネ。
ラグナを巡って、悪名高い人間や組織がこれだけ動いている。
大きな騒ぎにならない訳がない。
「上等だ」
踊ってやるよ、エリアス。
「俺は引き続きクイーンを追いかけるとしよう。エリアス。おまえはせいぜい引っ掻き回して、俺を使ってみろ」
ただし。
「気を付けな。あちらさんは、相当にキレモノだぜ」
――コレにぶつかるのは、相当に楽しいかもしれない。
ぞく、と走る戦慄を、ディートはしばらく味わっていた。
皆さんお久しぶりです。ちょっとずつ始動していきますよ。。