chase-15:トラクの獣(前編)
「やはり足りない」
シグマが呟いたそれは、唐突な一言となって司令室に響いた。
シグマが座る机の前で、ジェスはいつも中央司令部でしているようにソファに足を組んで腰かけると、ぽつっと漏らした。
「やる気あんのかあいつら?」
「む……」
机の上のトラクの地図を見下ろしながら、シグマは違和感を感じていた。
いまいち戦闘に『張り』というものがない。
辺りに鳴り響く銃声と怒号。しかし、一兵卒時代からいくつも前線を掻い潜ってきたシグマとジェスにしてみれば、まるでお遊びのように緊張感が感じられない――締まりのない戦闘だ。
一応、敵味方双方の砲撃の為に、町は北部が半ば瓦礫地帯と化しており、残った壁なども歩兵らが銃弾を避ける一時の場所として機能している程度で、それもやがて崩れてしまう、といった状況ではあるのだが。
「これまでの進展具合からして、戦闘は激化するか、あるいは……と考えていたが。やはりな」
「あ?」
「……向こう側が対談を申し込んでくる可能性がある」
シグマは首を傾けながら、地図を畳んだ。
「……シグマ。おい、シグマ。一つ突っ込んでいいか」
「何だ」
「おまえ、普通に思考を繋げ過ぎだ。もうワンクッションそこになんかあるだろ」
「どこに」
「進展具合だけで『今の状況がやたら弛んでる』から『敵側からの対談の可能性』へ推測が飛躍できるか。どっかでおまえ、自分独自の情報から何か一つは付け加えたはずだろうが」
「……ああ」
納得して、シグマは指で、窓から見えるトラクの町を示した。
「ジェス。町のずっと向こうに何が見える」
「……町の向こう?」
言われて、ジェスは怪訝気な顔でソファから立ち上がった。彼は狙撃手としての習性か、壁に身を預けてから、外の様子を見た。
いくらか町のあちこちから煙が立ち上って視界は悪いはずだが、ジェスの目なら、どうにか見通せるだろう。当たりをつけて返答を待っていると、ジェスが「あん?」と疑問の声を上げた。
「なんだありゃ……国境付近で地面の様子が手前と向こうでずいぶん違うぞ」
「干からびているだろう。ティーリス側が」
「いや、分かるが、変だろう。こっちとあっちでそう日の照り方や土の質が違う訳がねぇ。雨だって降ったはずだ」
「だろうな」
シグマは頷きながら、ふと、首を傾げるジェスを横目で見ながら思う。ここから少しヒントが必要になるだろうか。
だが、心配は無用だったらしい。
考え込むジェスの目の色が、ある時点を境に変わった。やや驚いたように目を丸くして、ジェスは小さく訪ねてくる。
「……シグマ。おまえ、そういやラグナを捕まえたのはいつだ?」
「さて、いつだったろうな」
口の端を吊り上げる。
やはり、ジェスは昔からの付き合いだけあって、必要な情報の手がかりさえ掴めば頭の巡りは早い。
「何でだ……? 確か、あれは……スヴェナが起こったのは」
「四年ほど前だったか」
懐かしい話だ。まだ下士官だった頃か。
スヴェナ戦争中、敗戦の色が濃い中を、軍上層部に殴りこむように交渉をかけた事が叩き上げ出世の契機だった。特例で階級を少佐辺りまで引き上げ、大佐、中佐相当の権力を得て戦場を二人で駆けずり回ったのだ。気が付けば戦争はどうにか勝利に終わり、周りからはすっかり英雄扱いされて、大逆転に沸き立つ民衆の中を、疲れ果てながらも凱旋した覚えがある。
その後、この一件でシグマらの意見を採用したとある将官の推薦により、その後正式に将校として大佐、中佐への大出世が決まったが、戦争の事後処理で将校級の教育を受けるどころではなかった。しかし、数か月後にまた小さくはない戦争が予想されていた当時、即主戦力として組み込める二人の能力はあちこちから欲しがられ――制度上は士官に採用するためとはいえ、急遽特別試験が課されたのである。
その他、ジェスがシグマと共に行動しなければ成果は半減だとかどうとかごねにごねて、結局二人で同じところに配属されたのだったか。
まぁ、それはそれとして。
遠い目をしていたジェスは、はっと瞼を押し上げた。ここでようやく全てが繋がったらしい。
「……そういうことか」
ジェスは青ざめた顔でシグマに向き直り、
「ラグナがティーリスに魔法を使ってたってことだな?」
「どうして期待を裏切った。馬鹿かおまえは」
「ぐ」
ジェスの顔面に踵をめり込ませ、壁に寄り掛かって悶絶しだした彼にシグマは溜め息を吐いた。
「おまえの考えはどうも妙な時に飛躍する」
「馬鹿って……冗談に……決まってんだろ……ちったぁ手加減しろよ……おま……」
と、その時部屋のドアが開いて、マグカップ二つを盆にのせたジェスの妹が入ってきた。
「お兄様、アルスミード少将。リザ特製のコーヒーが入りましたのでお持ちしました……って、お兄様、またですの?」
シグマはリザに近寄ると、カップを盆から取り上げた。
「そろそろこいつに冗談の言い方を教えてやってくれないか」
「……もうそろそろ、兄のTPO概念の欠如については学習なさった方がよろしいのではなくて?」
「無理だろう」
予測しようにもこればかりは限界がある、とシグマは認めた。
「仕方ありませんわよ。兄ったら、狙撃の時のために普段の状況を見極める力がほぼ犠牲になっていますもの」
「おいおまえら。俺をよってたかってけなして楽しいか……?」
依然壁と一体化したまま、ジェスが沈んだ様子で言った。
「ええ、だってお兄様ですもの。見ていて私は幸せですわ」
リザはにっこりと微笑む。
「それで、本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……」
ジェスはしばらく口をつぐんだ後、頭を掻き上げながら呟いた。
「向こう側からの対談だろ」
全て諦めたような口調に、リザの笑みは深くなった。
「さすがお兄様。全て分かっていらっしゃるのですね」
「いつもの通り、こいつよりかは時間がかかったけどな」
シグマを親指で指し示し、ジェスは肩をすくめる。
「……で。俺たちが行くのか?」
「懸賞がその場に用意されるのは当然の事ですわ」
交渉が勝負なら、自分は懸賞扱いか。勝負や競技でもあるまいに。思ってシグマは呆れる。
「やはり、私と准将がティーリスの内乱平定のために、あちらへ支援しに行くという事か」
「はい。ですが、」
続く言葉に、シグマは半分伏せていた瞼を開く。
「あちらの手札が全てお見えになっていても、それでもティーリスに行かれるのですね」
リザを見ると、優雅に微笑む顔からは、どのような含みも感じ取れない。
シグマは小さく笑った。
「乗らない手はないからな」
「つか、おまえの場合はラグナ目当てだろうが?」
「ことこれに関してほど、少将の行動が読みやすい時はないのですわ」
くく、と喉から低く笑いを漏らす。無意識のうちに、舌なめずりをしていた。
「――当然だ。アレほど私を昂ぶらせるものは、そうそうないからな」
ちらりと、瞼の裏に鮮やかに緑が翻る。
華奢で小柄だが、どこまでも真っ直ぐな目で面とこちらに向かっていた姿を思い出した。
――折りたい。その心を。
嗜虐心が頭をもたげる。
逃げるアレを捕まえて、地に組み伏せて喰らいつく。
痛みに悲鳴を上げるのか、それとも逃れようと足掻くのか。
考えるだけで、ひどく愉快だった。
「……」
「……あー、うん」
リザは何もなかったかのように、ジェスはかける言葉を探すように、目を逸らす。
「とりあえず、まだ『待て』だからな?」
「私が大人しく命令を聞く『犬』だと思うか?」
「いや思わねぇけど」
返しながら、どちらかといえば、とジェスは評した。
「おまえ、ほっそい手綱に繋がれただけの猛獣だからなぁ……」
兄の言葉に、リザも何度か頷いて同意する。
「それにしても、彼の愛らしいお方は不思議ですわ。こんな大きな猛獣を狩りに誘ってしまうなんて。一体どのように手懐けられたのですか、少将?」
聞かれて、シグマはリザの青い真円の目を見つめていたが、しばらくしてふっと口を緩ませた。
「――手懐けられた、か。妙なる例えだ、中佐。……そうだな」
さて、どう答えたものだろうか。
「あの小さな舌で舐められて、甲斐甲斐しく世話を焼かれたら……嫌でも懐きたくなるだろう?」
兄妹は黙って顔を見合わせる。
ジェスは片眉を上げ、リザは両の眉尻を下げてそれに応えた。
微妙な表情の変化で遣り取りをした後に、ジェスが声を上げる。
「シグマ。どっちの話だ」
人か、獣か。
「無論、」
シグマは、部屋を出ながら嗤った。
「獣の話だとも」
知っている。
人でなしは、自分だ。
思ったより長かったので前、後編となります。