chase-09:車はバレエなんて踊らない
どうにか、どうにかしてシグマの腕から逃れなければ。
ラグナは必死に頭を巡らせていた。
王犬たちは未だに睨みあったまま。スイートは手に怪我をしているし、自分は拘束されている。
シグマがどういう行動を取るのか、読めないのが痛い。
舌打ちして、ラグナは認める。
思いつく限りでは最悪の状況だった。
彼の思考回路を読み切るのは至難の業だ。彼の感性は、もともとの常人のそれからはかけ離れていることが予想され、おまけに知謀策略を巡らせるのは得意中の得意。もしも彼に対等な駆け引きを持ちかけられる奴がいるならば、こちらがお目にかかりたいと思う。
魔法は――使えない。軍人の癖にシグマは勘が良いのか、魔法の気配に敏感だ。影でこっそり紋様を描こうものなら……ラグナは似たような事態に陥った時の事を思い出して身震いしそうになった。
よそう。まともに唇を奪われるのは数回で十分だ。
だがこうなると、本当に出来ることなど限られてくる。
考えている間にも、シグマは腰に提げた剣を鞘ごと外し、スイートの下へと歩いている。引きずられるようにしながらもラグナは踏ん張ろうとしたが、いっそ悲しいぐらいの体格差ではそれほど妨げにもなっていない。どころか目を細めた所を見ると、楽しまれているようだった。
――悔しい。
こんな奴に、どうして捕らわれ続けなければならない。
『おまえが撒いて、そうと知らずに育てた種』――そんなもの、自分は知らない。
自分はただ、走っただけだ。
彼と一瞬でもすれ違ったのだろうあの場所で、そこでできた全てのことを、命を懸けてやっただけだ。
「スイートに……手を、出すんじゃねぇでごぜぇます……!」
ラグナは噛みついた。
「この子はっ……、私とてめぇ様とのことに巻き込む人間じゃごぜぇません!」
「残念ながら、それはもうおまえの問題ではない」
無言だったシグマが、頭上で呟いた。
「コレは報酬なのでな。連れて行けと『天の眼』に言われている」
「…………っ!」
「一目惚れだそうだぞ?」
後ろから耳元で囁かれた。見えないが、えげつない笑みを浮かべているに違いない。
天の眼? ジェス・カリス准将?
あの変態タラシが!?
スイッティシャを……毒牙に!?
「――――――――」
雷に打たれるよりも衝撃的だ。
しばし呆けたラグナは、くたりとシグマに身を預けた。
「詐欺姫はもう少し元気なようだが……大人しくなったな。やはりジェスの狙撃では迂闊に動けない、か」
彼はくっと喉を鳴らした。
しかし、シグマはすぐに異変に気付いたようだった。
「……どうした、ラグナ・キア」
声は心なしか柔らかい。
「…………じ、」
「――?」
それもそうだろう。魔法が使えない魔術師などただの人間だ。しかも自分の腕の中で脱力しているときている。
そう……
そりゃあ、油断するじゃあないか?
「――冗っ談じゃぁねぇでごぜぇますよ――――――っ!」
*
怒髪天。
目の前に迫っていた詐欺姫が、『ひくっ』と小動物か何かのように蒼褪めて震えた。
引きつった顔は、見てはいけない何かを見たようだ。
そう、その点ではシグマは幸運だったのかもしれない。
しかし、突然絶叫したラグナを唖然と見ていたために、事態の進行についていくのが遅れた。
バリッ――と。
空気が裂ける、不吉な音がした。
「嫌いです嫌いです嫌いです嫌いです嫌いですっ! てめぇ様なんか人間のゴミカスクズどころか豚の餌にも糞にも分不相応です!」
ラグナの変化に、シグマは目を瞠る。
熱が――。
腕や体に感じる熱が、人肌どころか、焼した鉄を押し付けられるようなものへと変わっている。
しかも、ラグナの体が蒼白色を帯びた光でうっすらと発光していた。
「育ててしまった種なんか知りません! 狂わせてしまった運命なんか知りません! ただうんと体を伸ばしたいだけで! てめぇ様の手の中で飼い殺しなんてまっぴらごめんでごぜぇます! おまけに幼馴染が変態の毒牙にかかるなんて――」
シグマは息を呑み、ラグナから離れて飛び退った。
「最悪を通り越してっ、 も は や 悪 夢 で ご ぜ ぇ ま す !」
完全に我を忘れた顔だった。
ラグナの足元から、ぶわりと蒼白く、ゆっくりと蛇がのた打つように、極太の光の筋が波打ちながら現れた。
傍で睨み合っていた二頭の王犬の内、ラグナが降した王犬もまた薄く発光している。
「――共鳴現象か!」
シグマは驚きに小さく言葉を漏らした。
「道端の砂粒にでもなって……、猫に後ろ足で蹴られて下さい!」
光の筋を手に収束させるラグナに、後ろで詐欺姫が切羽詰った表情で叫んだ。
「待っ、て――ラグナ! 駄目、それは……!」
避けても切っても受けても無駄だ――血の気の失せた彼女の表情からそう読み取った。
通常規模の被害で収まる程度ではないものが発動しようとしている。直感的にシグマは悟り、そして、手の打ち方を誤ったことを知った。
これは盲点だった。
ラグナにとって、詐欺姫は――地雷。あるいは大爆弾の導火線だったのだ。
しかし、
またも事態をひっくり返す闖入者が現れたのは、まさにラグナが手を振り下ろそうとした、その時だった。
「――はぁいラグナちゃん、そ・こ・ま・で・よ☆ えいっ☆」
太い声がした。
そしてシグマは、なぜかこの時。
ひゅんっと蒼白く魔力を帯びていた大気を切って、一個の弾頭が自分とラグナの間を通り抜けて行ったのを、はっきりと目撃することができた。
――それからの記憶は、ない。
*
スイートことスイッティシャ・イャル・ペンネは、呆然としていた。
対峙する二人にぽんと撃ち込まれた銃弾は、彼らの間を素通りして、王犬に最初に踏みつぶされていた車へと突っ込んだ。
小さな弾は呆れるほど子気味良い音を立てて車の機構を衝撃で断ち切ると、燃料漏れを起こしていたところに火花を散らした。
次の瞬間に起こったことは、言うまでもない。
車が絶叫して跳ねた。
まるで最初からばねが下に仕込んであったのだとでも言いそうなほど、空高くへと車体がくるくると跳ねて舞う。冗談にしか思えない光景だが、その下ではやはり同じように起こった衝撃波でシグマとラグナがまとめて吹き飛ばされているのが見えた。
あれでは二人とも意識を失ってダウンだろう。
突然の轟音に驚いた王犬らも、ぎゃんぎゃんぎゃん! とパニックに陥って同じ場所をぐるぐる互いの尻尾を追いかけて回っていた。
――って、
こんな豪快な仲裁がどこにある!?
ぽかんと見ているしかできなかったスイートは、慌てて振り向いた。
「やっほースイート。無事ねん?」
ふぃーっ、と拳銃の銃口を冷ましながら、呑気に手を振っている――『性別不明』の人間がいた。
かっつん、と、ぴかぴかに磨かれた靴をその人物は鳴らす。すらっと伸びた長すぎる足は、漆黒のスーツのズボン丈が少し足りない上、靴下が短いために白いすねが見えているというやや残念な状態。
襟にたっぷりと銀狐の毛がついたホワイトスモークのコートを羽織り、緩く巻いた長い蒼海色の髪が、物憂げな美貌の顔をふんわり飾っている。
そして、整ってはいるが――顔立ちは紛れもなく男だった。
「……お父様?」
「うんうん、返事はできるみたいね。なら良かったわ」
にっこりと、彼――いや、彼女なのか――ディート・フルロ・ペンネは、満面に笑みを浮かべた。
かと思うと、一転して鬼と紛うような形相に変化した。
「あのクソ狙撃手。ウチの娘をよくもキズモノにしてくれたわね――許さないわよ」
「あ、あの。えっと、『天の眼』は一体どうしたんですか?」
「ちゃあんとちょいキツのぐるぐる巻きにして――鎖でね――ちょうどこっちの支部に来てた妹の中佐ちゃんに引き渡したわよ。そっから超急いでこっちにきたの。ラグナちゃんピンチだったし、スイートは怪我してるし……んもう、ホンット腹が立つったらないわぁ」
ディートは言いながら、さっと鎖――ではなく、小型の鉄の香炉を取り出して、意識を失い倒れているシグマの鼻先に置いた。
「眠り香。軽ーく一時間は目を覚まさないでしょ。この人には自分で帰ってもらうわ」
そして、やや離れた場所で同じように倒れたラグナを仰向きにして、呼吸を確かめてから楽な姿勢へと寝かせた。
「さてっと、気絶しちゃったラグナちゃんを家まで運ばないといけないわね。スイートもごめんねぇ、隠れ家に置いてあったあの車、半壊してたから徹底的に利用しちゃった」
ふぅ、と秀麗な眉を潜めて溜息を吐き出すと、彼は軽く指を鳴らした。
未だに騒いでいた王犬二頭の周りに、どこからともなく魔術師たちが現れて、素早く連携し合って“永遠の眠り”の魔法をかけ始める。
「もう一つ謝らなきゃ駄目ね。ファミリーの子が王犬をグリムドリバーと思い込んで持ち帰ってきたのは知っていたんだけど、魔連に連絡して魔術師を手配してもらうのに手間取ったのよ。そしたらもう大暴れが始まっちゃって……正直、ラグナちゃんとスイートがここにいるって聞いてマジ噴きしたわよ、ワタシ。
さらには軍のバッドボーイがわざわざ中央から二人揃って、婦女子を拉致しにきてるじゃない? 『天の眼』があなたを撃ったから、ワタシ、頭の血管がブチ切れてね……とまぁ、そういう訳よ」
ぱっぱと鮮やかな手際で事後処理を指示していき、焼けた倉庫のその後の用途、怪我人への手当または医療費の賠償と諸々を終わらせると、ディートはさっとラグナを横抱きにして、スイートを迎えの車の運転席へと追い込んだ。ここまで車を運んできた運転手はディートの秘書の一人で、これから事後処理の引き継ぎを行うという。
「にしても、王犬のことを報告したら、魔連から面倒な依頼が来たのよね」
「……依頼?」
「そ」
スイートがバックミラーから見ると、右後方の座席ではディートが悠然と足を組んでいる。もう片方の席は倒されて、そこにラグナを寝かせていた。
「ティーリス帝国を通って、スラフスキー州の向こう……リディンスの山。そこで見つかった王犬の双子が、半年前に消えたって話があったのよ」
「……まさか、届けろと?」
「そのまさかよ。ラグナちゃんがこのミゼット王国に居るのは分かり切っていたから、この子への正式な命令状までご丁寧に渡してきたわ。交換条件はあの人の復籍――どうよ? この抉りっぷり」
「…………それが本当なら、許してはおけません」
スイートはぐっとハンドルを握る手に力を込めた。
「――だって、ラグナはそのせいで、“あんな目”に合ったんですから」
そして、車内には沈黙が落ちた。
後半ちょっとシリアスでした。