六畳の楽園
肉の枷を外したい。
いつからそう思うようになったのだろうか。俺は部屋中に膨らませた風船たちを見て、考えた。
そうだ、あの時からだ。
「いつまでも新人じゃないんだからさ。いい加減、仕事覚えてくれないかな」
「はい……」
俺は年下の上司の呆れた顔に頭を下げた。
「はい、じゃなくてさ。今回の石田さんのミスで色んな人――社内や取引先に迷惑がかかったの。もちろん、消費者にもね。自主回収によるうちの損失額もわかってる?」
「…………」
頭を下げたまま、顔から落ちた汗を床に垂らした。
「八千万。ねぇ、うちが中小企業だからこの額で済んだけど、会社には大きな痛手になってるんだよ?」
「わかっています……」
重いため息の音と、机を指で叩く音。
後ろの方では「また石田さん?」「中山さんも相当苛立ってるな」というヒソヒソ声が。
バンッと机が叩かれ、俺の肩が跳ねる。
「わかってたら、何度も繰り返さないよね? 始末書を書いても、日報の提出を義務付けても、一向に改善されない。これは石田さんの能力不足と言っていい」
「……はい」
俺だって向いてないって思ってる。なのに、ここに配属したのはお前らじゃないか。
顎に力が入り、目をぎゅっとつぶる。
「もういいよ。言ってもわからない人には響かないだろうから、席に戻りなさい。今回の処分についてはあとで通達する」
「本当に……申し訳ありませんでした……」
やっと解放された。
胸をなでおろし、表情に出さないよう気をつけて自席に戻る。しかし、俺の仕事はもうなくなっていた。机に置いていたはずの書類や資料は、誰かに片付けられ、周りを見渡す。社員たちは目をそらし、忙しそうにPCとにらめっこをはじめた。
せめて書類整理でもと席を立ち、資料棚に手を付けようとしても、女性社員に「石田さんは休憩に行っててください」とあしらわれる。
ここに居場所はなかった。
当然だ。
三十過ぎてミスも多く、話す仲間もいない。おまけに今回は自主回収までいってしまった。
でも、仕方ないじゃないか。二十八歳の時に、総務から営業部門に異動を命じられて「商品知識がない」「営業能力がない」と言われ続け、自分なりに商品の知識を調べても、営業のノウハウを本で学んでも報われることはなかった。
「それくらい、業界じゃ常識」
「勉強不足。周りに積極的に教えを請う姿勢を見せろ」
「本なんて当てにならない。意味のないことをするな」
……そうした言葉に俺は人に声をかけることも怖くなってしまった。
誰も俺に商品のことも営業のなんたるかも教えてはくれなかった。
もし、日曜日にやっているヒーローものなら、人望も知恵も勇気も持っていたんだろう。でも、俺にはなにもなかったのだ。
ポイキュアでもいい。誰か俺を助けてくれないか。
『小太郎、大丈夫だよ! わたしたちがついているんだから、へーきだよ』
ああ、さやかちゃん。そうだよな。
『明日はもーっといいことがあるさ! アタシが言ってんだから信じろ』
うん、あかねの言うとおりだよ。
源太、ジロー、防衛軍のみんなもそう思うよな。
『ったりめーだろ? くよくよすんな、前を見ろ』
うんうん。俺はまだ大丈夫。大丈夫なんだ。
――パチン。
記憶から意識を引き戻す。そして、部屋を埋め尽くす風船をまち針で割っていく。
けたたましい破裂音が部屋の四隅を埋めて、ラテックスのにおいで満たされいく。
「ああ、いいな」
ぷっつりとした面を針で刺すのがたまらない。
チャイムが鳴る。
今日は裏紙を切断して、みんなのメモ帳を作ることに専念する一日だった。
上司の中山は貧乏ゆすりをやめなかった。
いいんだ。俺には源太もジローもさやかちゃんもあかねちゃんもいる。決して孤独な独り身ではないのだから。
そうだ、三日もすればみんなに会える。週一なのは悲しいけど、BDもあるから今日はそれを観ながら晩酌にしよう。明日、会社に行くための自宅飲み会だ。
「……っさ、です」
俺は定時とともに退勤する。できるだけ、目立たないように。小声で挨拶もしたから、面目も立つだろう。
定時上がりでも電車は混雑している。みんなの顔にはクマができていて、お疲れ顔だ。
窓に映る俺の顔は頬が痩けてはいるが、疲れている様子は見えない。
(……ほうれい線が目立つ年頃か)
ガタゴトという音に合わせて車内が揺れる。でも皆、よろめくことはない。ただ、吊り革だけが振り子のように揺れている。
俺はまた風船を膨らませていく。
六畳を埋める数に足るか不安だったが、その心配は杞憂だった。まだ開けていない段ボールもふたつある。
さすがに息があがっていた。
小型の空気入れを取り出し、風船の口にはめて、柄に力を込める。シュッシュッと音を立てるたび、ラテックスが空気を受け入れていく。
「やっぱり、いいな」
なすがままに、ただ受け入れるしかない。
スーパーの半額弁当は当たりだった。唐揚げ弁当、中華弁当と選びたい放題だ。しかし、油断はするな。狩人は俺以外にもここを主戦場にしている。
手早く中華弁当を選び、買い物かごに入れる。落胆の声が右から漏れてきた。悪いな、俺もここの常連だ。
そして酒のコーナーに立ち寄り、発泡酒とサワーを何本かカゴに放り込む。会計二千円ちょっとをセルフレジで済ませた。
そして帰宅後。
俺は風呂を済ませて部屋着に着替える。酔っ払ってもいいように、準備を整えたのだ。
カラフルな魔法少女のパッケージを手に取り、円盤をプレーヤーに差し込む。プルタブを開けて一口飲むと、今日の嫌なことが頭の中に流れ始めたが、ポップなオープニング曲がそいつを霧散してくれた。
台所で電子音が鳴っている。温まった弁当を開けると、眼鏡越しのテレビ画面は白く曇った。
タイトルコール、前回までのあらすじ。
さぁさぁ、やってきたぞ本編。チャーハン、発泡酒、純粋な少女の笑い声。酒のツマミに少女の弾んだ声を。餃子の旨味に敵の口上、戦闘シーンには肉だんごを添えよう。
サワーに手をつけ、勝利の美酒に酔っていこう。
「ああ、サイコーだ」
BDの再生が終わる頃には酔いも回って、そばにあるベッドに寝転がってスマホをいじっていた。
「ポイキュアっと」
検索窓に入力すると、感想動画やコミュニティ欄にはイラストが並んでいた。ショート動画を見漁ってスクロールする手が止まった。
「なんだ、これ」
そこには風船のように丸く膨らんださやかちゃんが頬を赤らめ、笑っている。
正直、なにを見たのかわからなかった。でも俺の手はいつものように画像をダウンロードしている。
『@パチンとぽいきゅあ、@天駆ける剣、@オルフェン、リクありがと』
『かわいい』
『はーい(絵文字)』
『ありまと。ぱちん』
書いてあることも意味不明すぎた。
チャットAIに聞けばわかるか? 画像はダウンロードしてある。そうだ、聞いてみよう。
空気入れで膨らますのも体力を使う。汗で湿った手で風船を触ると、ギュムッとラテックスが軋むのだ。そのままこするとツルツルした感触が指に、手に、肩に、脳に伝わり、俺は呼吸を荒くする。
ひとつ、またひとつと口を縛っていき、膨らませた風船は部屋にふわりと投げる。
こうした行動の結果は六畳の部屋を埋める俺の理想郷だった。
そしてまたまち針で刺して、床にはラテックスの残骸が残っていくのだ。
ティッシュの中のスペルマのように。快楽の代償は薄汚い肉の枷の証。
俺もこいつらのように膨らんで、パチンと弾けて無くなってしまえば魂もろとも空に還れるのにな。
『これは風船化と呼ばれる嗜好で、破裂を好む〝ポッパー〟、好まない〝ノンポッパー〟などに分かれます』
ああ、なるほど。理解できた。
なんでも教えてくれるチャットAIは本当に優秀だ。俺もこいつくらい優秀だったら、会社でも源太のように活躍できるんだろうな。
それからは早かった。
俺はピクセブやSNSでタグを検索し、画像を片っ端からダウンロードした。
そうだ、そうだ。気づけば毎日タグを追うようになっていったんだ。
かわいい女の子たちがされるがままに風船にされていく。体が丸く膨らむもんだから手足がおまけに見える。パタパタと抵抗するが、受け入れるしかない。嬉しそうだったり、泣き顔だったり、キャラによって作者によってされるがままなんだ。
ああ、いいぞいいぞ。
肉の枷から解き放たれて割れてしまう漫画も、ビルより大きくなってどうにもできなくなって。
そうだそうだ。肉体なんてクソくらえだ。さぁ、人類は風船になって解き放たれるんだ。
彼女たちは人類の希望だ。二次元の中だけだけど、彼女たちは自由なんだ。
そこで俺は会社で風船になって、周りが目の前の出来事にただ見守るしかない。すると、俺は弾けて、ラテックスの残骸になって俺のクソみたいな人生はそこで終わり。騒ぐ社員の声も俺には聞こえない。
俺は自由になれるんだ。
風船たちはまた部屋から消えてしまった。正確に言えば、俺が俺の意思で風船を割っただけなんだがな。
「……今日はこのくらいにしておこう」
部屋のテレビからは、戦う魔法少女のアニメの音声が再生されている。
ああ、ここでは誰も俺を否定しない。
ただそれだけでよかった。
また明日からはコピーの依頼に、メモ帳の作成。シュレッダーの依頼に、部署の温度管理が待っている。
明日になれば、肉の枷をはめて会社に戻ろう。




