焚き火とパンと、時々、通知音
「……おいしい」
思わず声が出た。
ミネラルウォーターでもない、ただの濾過した井戸水。
それなのに、今まで飲んだどんな高級な酒よりも美味しく感じられた。
「蘭馨、あなたも飲んで」
蘭馨に茶碗を渡すと、彼女は震える手でそれを受け取り、大切そうに飲み干した。
「……生き返ります」
その一言が、全てを物語っていた。
陽が完全に落ち、冷宮が漆黒の闇に包まれる頃。
私たちは、宮殿の中で最も屋根の状態がマシだった一室を拠点と定めた。
半日かけて埃を掃き出し、別の部屋から見つけ出したボロボロ(だが虫はいない)の布団を敷いた。
破れた窓枠には、拾ってきた板切れを立てかけ、隙間風をなんとか防ぐ。
部屋の中央には、集めた枯れ木で小さな焚き火を起こした。
ゆらゆらと揺れる炎が、廃墟の壁に私たちの影を映し出す。
暖かさが、冷え切った身体に染み渡る。
「……ふぅ」
私たちは壁にもたれかかり、ようやく一息ついた。
手には、衛兵が門の前に置いていった、配給の食事が握られている。
カチカチに硬くなった、冷たい黒パンのような饅頭が二つだけ。
おかずはない。汁物もない。
「いただきます」
ガリッ。
石のように硬い。味もしない。ボソボソとして、喉に詰まりそうだ。
かつての杏花姫なら、一口食べて投げ捨てていただろう。
昨日の私なら、文句を言って泣いていただろう。
でも。
(おいしい……)
噛み締めるほどに、穀物の甘みがわずかに広がる。
自分たちの手で確保した「安全な水」で流し込むと、胃の腑に落ちて、熱に変わっていくのがわかる。
労働の後の食事。
安全な寝床。
そして、隣には信頼できる仲間。
それは、豪華な宴の席で、毒の入ったような言葉を浴びながら食べた山海の珍味とは比べ物にならないほど、尊く、充実した味だった。
「姫様……」
炎を見つめながら、蘭馨がぽつりと呟いた。
「わたくし、ここへ連れてこられた時は、もうおしまいだと思いました。生きてここを出ることはないのだと」
「……ええ」
「でも……この『知恵の板』の計画があれば、そして姫様がいらしてくだされば、なんだか、やれる気がしてきました。明日が来るのが、怖くありません」
蘭馨が、はにかむように微笑んだ。
その表情に、私は胸が熱くなった。
守られているだけのお姫様と、それに仕える侍女。そんな関係はもう終わった。
私たちは今、命を預け合う「戦友」なのだ。
「当たり前よ。私たちは、ただ生き延びるんじゃない」
私は最後の饅頭を飲み込み、力強く宣言した。
「この冷宮を、後宮の誰よりも快適で、自由な場所に変えてみせるんだから。見てなさい、一ヶ月後にはここを『リゾート・レイキュウ』にしてやるわ」
「りぞーと……ふふ、また不思議な言葉ですね」
蘭馨が笑い、私もつられて笑った。
廃墟の中に、確かに温かい空気が流れていた。
「さて、明日の予習をしなくちゃ」
私は懐からスマホを取り出し、画面をタップした。
バッテリーはまだ減っていない。謎の超技術に感謝だ。
明日の計画は『ロケットストーブの建設』と『野草の採取』だ。
AIに設計図を出してもらい、必要な材料を確認する。
静寂に包まれた夜。
聞こえるのは、焚き火が爆ぜるパチパチという音と、遠くで鳴くフクロウの声だけ。
平和だ。
こんなに心が穏やかな夜は、会社に入ってから初めてかもしれない。
そう思っていた、その時だった。
ピロン♪
「っ!?」
「ひっ!?」
静寂を引き裂くように、軽快で、しかし場違いに明るい電子音が響き渡った。
蘭馨がビクッと肩を跳ねさせ、私も心臓が口から飛び出しそうになった。
(な、なに!? アラーム!? いや、設定してないはず!)
私は慌ててスマホの画面を見た。
ロック画面の中央に、ポップアップ通知が表示されている。
見間違えるはずがない。
それは、私が現代で使い倒していた、あのメッセージアプリのアイコンだった。
『LIME:新着メッセージがあります』
(LIME……!?)
背筋が凍りついた。
電波が立っていることにも驚いたが、メッセージが届くなんて想定外だ。
誰から?
現代の家族? 友達? 会社の上司?
「無断欠勤どうなってるんだ」なんて連絡だったら、ある意味ホラーより怖い。
震える指で、通知をタップする。
顔認証が通り、トーク画面が開く。
そこに表示された差出人の名前を見て、私は呼吸を忘れた。
差出人:『第二皇子・景』
メッセージ:『……そなた、無事か?』
「は……?」
思考が停止した。
景皇子?
あの、私を助けて(手を拭いて)去っていった、冷徹な推し皇子?
いや、待って。
なんで清朝の皇子がLIMEやってんの?
なんで私のアカウント知ってんの?
ていうか、ここ、圏外じゃないの!?
「ひ、姫様……? その板が、音を……?」
混乱する私をよそに、スマホの画面には、さらに恐ろしい表示が出た。
トーク画面の左下に、小さく表示される文字。
『既読』
(うわあああ! 開いちゃった! 既読つけちゃった!)
現代OLの悲しき習性で、即レスしなきゃという焦りと、状況のシュールさが脳内で衝突事故を起こす。
そう、向こうもリアルタイムで見ているのだ。
この廃墟の冷宮と、煌びやかな宮廷のどこかが、見えない糸(というか5G)で繋がってしまった。
私のサバイバル生活に、とんでもないバグが発生した瞬間だった。




