十分に発達したろ過技術は、魔法と見分けがつかない
「ここだわ! ここを、私たちの『文明』の始発点とする!」
私が指差したのは、居住区と定めた宮殿から五十歩ほど離れた、風通しの良い木陰だった。
スマホの画面には、AIが生成した「コンポストトイレ断面図」が表示されている。
「さあ、蘭馨。掘るわよ!」
「は、はいっ!」
私たちは、硬い地面との格闘を開始した。
道具はない。私が手にしているのは、庭で拾ったY字型の太い木の枝。蘭馨が持っているのは、欠けた瓦の平たい破片だ。
ショベルカーもスコップもない。あるのは、現代社会でなまった私の腕力と、蘭馨の忠誠心だけ。
ガッ、ガッ、ガッ。
乾いた土の表面を削るたびに、手に衝撃が走る。
すぐに手のひらの皮が悲鳴を上げ、マメができ始めた。爪の間には黒い泥が入り込み、麻の服は汗と土埃でみるみる汚れていく。
昨日の今頃は、ネイルサロンに行こうか迷っていたのに。今は泥だらけになって、排泄のための穴を掘っている。
(でも……悪くない)
額から滴る汗を袖で拭いながら、私はふと思った。
会社で、意味のない会議資料のフォントサイズを修正させられている時の、あの虚無感に比べれば、この労働には明確な「意義」がある。
これを掘らなければ、明日から糞尿まみれになる。掘れば、清潔な朝が迎えられる。
シンプルで、切実で、健全な労働だ。
「姫様、大きな石が……!」
「貸して! テコの原理で動かすわ!」
「タコとは??」
「テコよーもーみてて!」
二人で呼吸を合わせて、地中の岩を引き剥がす。
ゴロン、と岩が転がった瞬間、私たちは顔を見合わせて笑った。
太陽が傾き、空が茜色に染まる頃、ようやく膝ほどの深さの穴が完成した。
AIの指示通り、底には乾燥した枯れ葉を敷き詰める。
用を足した後に、掘り出した土と枯れ葉を被せれば、バイオの力で分解され、臭いも抑えられる「ハンドメイド解手」の完成だ。
「やりましたわ、姫様……!」
蘭馨が肩で息をしながら、キラキラした目で私を見た。
彼女の顔は煤と泥で真っ黒だが、その笑顔は宮廷のどの姫君よりも輝いて見えた。
「ええ! やったわね、蘭馨! これはただの小さな穴だけど、私たちにとっては偉大な一歩よ!」
「偉大な……一歩!」
バチンッ!
私たちは泥だらけの手を頭上で叩き合わせた。
ハイタッチ。この世界にはないその仕草に、蘭馨は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに破顔した。
達成感。
それは、どんな高価な宝石よりも、今の私たちの心を満たしてくれる報酬だった。
「さあ、休憩している暇はないわ。次は賢者の教えその二、『安全な水』よ!」
次に私たちが向かったのは、宮殿の裏手にある古井戸だ。
覗き込むと、遥か底の方に水面が光っているのが見えた。釣瓶を慎重に下ろし、引き上げる。
ギギギ……と錆びた滑車が鳴き、水桶が上がってきた。
「……うーん」
桶の中の水を見て、私は唸った。
飲めなくはなさそうだが、少し茶色く濁っている。藻のような浮遊物も見える。
これをそのまま飲めば、現代人の軟弱なお腹は一発で壊れるだろう。下痢は脱水症状を招き、死に直結する。
「蘭馨、材料集めよ! 布、砂、小石、そして『木炭』!」
「木炭……でございますか? 燃えかすが、水を綺麗にするのですか?」
蘭馨は不思議そうに首を傾げた。
無理もない。汚れた炭で水が綺麗になるなんて、直感に反するだろう。
「ふふふ、見てらっしゃい。これが賢者(科学)の力よ」
私たちは再び、廃墟の中を宝探しのように駆け回った。
割れた壺の破片。私の肌着の裾を裂いた布切れ。庭の砂利。
そして幸運にも、かつて厨房だった場所の竈跡から、燃え残りの炭をいくつか発見することができた。
「よし、組み立てるわよ」
底に小さな穴を開けた壺に、まずは布を敷く。
その上に、細かく砕いた炭、洗った砂、小石の順に層を作っていく。
即席の濾過装置の完成だ。
「行くわよ……」
私は祈るような気持ちで、濁った井戸水を上からそっと注いだ。
水が砂に吸い込まれていく。
二人して、固唾を飲んで壺の底を見守る。
ポタ……ポタ……。
数秒後、底の穴から水滴が落ち始めた。
それを小さな欠けた茶碗で受ける。
「あっ……!」
茶碗に溜まっていく水は、驚くほど澄んでいた。
夕陽を透かして見ても、浮遊物は見当たらない。
「すごい……! 本当に、水が透き通りましたわ!」
「炭の小さな穴が汚れを吸着して、砂がゴミを濾し取ってくれたのよ」
蘭馨はマジックを見るような目で私(とスマホ)をみている。
「姫様のお母様の故郷の賢者様方は、本当に底の知れぬ力をお持ちなのですね……!」
「まあね!(半分はGoogle先生のおかげだけど)」
私は湧き上がる高揚感を抑えつつ、まずは一口、その水を飲んでみた。
口に含む。
土の匂いはわずかにするが、雑味のない、冷たくて柔らかい味がした。
喉を通った瞬間、乾ききった細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるのがわかった。




