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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
冷宮編
6/22

生きるべきか、掃除すべきか、それが問題だ

私と蘭馨が連行されたのは、紫禁城とも呼ばれる広大な後宮の、最も北の果て。

地図の上からも、人々の記憶からも消されたような、最も奥まった場所にある一画だった。


華やかな御花園ぎょかえんからここに至るまでの道のりは、まるで現世から黄泉の国へと続くトンネルのようだった。

色鮮やかな花々は姿を消し、手入れされた植木は枯れ木へと変わり、すれ違う女官たちの姿も絶えた。

代わりに現れたのは、空を切り取るようにそびえ立つ、灰色の高い壁だけ。


「ここだ」


先導していた衛兵が、無機質な声で足を止めた。

目の前には、巨大だが古びた、鉄錆色の門が一つだけ口を開けている。

門の扁額へんがくには『静心宮』という文字がかろうじて読み取れたが、その塗装は剥げ落ち、まるで『死』という一文字に見えるほど禍々しい雰囲気を放っていた。


門をくぐった瞬間、世界の色温度が変わった。

ひやり、と首筋を撫でる冷気。

今はまだ日が高く昇っている時間のはずなのに、そこは常に分厚い雲に覆われているかのような薄暗さに満ちていた。

空気そのものが重く、湿っている。

何十年もの間、光も風も拒絶し続けた場所特有の、澱んだ水の底のような匂いがした。


「ここが……お前たちの住まいだ」


衛兵が、汚いものを吐き捨てるように言った。

私は呆然とその光景を見上げた。


かつては立派な離宮だったのだろう。

しかし、今のそれは、巨大な獣の死骸のような無残な姿を晒していた。

反り返った屋根瓦はあちこちが崩落し、その隙間から雑草が空に向かって伸びている。

柱の朱色の漆は皮膚病のように剥げ落ち、露出した木肌は黒ずんで腐りかけていた。

庭だった場所は、人の背丈ほどもある雑草の海と化しており、その中に首の折れた石灯籠が墓標のように傾いて埋もれている。


ここが、噂に聞く「冷宮れいきゅう」。

皇帝の寵愛を失った者、罪を犯した者、あるいは権力闘争に敗れた者たちが送られる場所。

生きてここを出た者はいないという、忘れられた者たちの終着駅。


「さあ、いつまで姫君気取りでいるつもりだ。その衣装を渡せ」


感傷に浸る間もなく、衛兵たちが粗暴な手つきで私に迫った。

彼らは、私たちが身に着けていた豪華な瑠璃色の長衣や、精緻な刺繍が施された帯を、情け容赦なく剥ぎ取っていく。

髪に挿していた翡翠のかんざしも、真珠の耳飾りも、すべて奪われた。


「あっ、痛っ……!」


乱暴に髪を解かれ、私はよろめいた。

美しい黒髪が、バサリと背中に広がる。

代わりに投げ渡されたのは、雑巾のような色をした、麻の服だった。

手に取ると、皮膚が擦りむけそうなほど硬く、ごわごわしている。カビ臭い。


「着替えろ。それが罪人の身分だ」


私は唇を噛み締め、蘭馨と共にその屈辱を受け入れた。

絹の滑らかな感触は消え、紙やすりのような麻布が肌に擦れる。

その不快感が、私に「転落」という現実をまざまざと突きつけた。


「食事は一日に一度、門の前に置いておく。水は井戸があるはずだ。勝手に汲め」


衛兵のリーダーらしき男が、冷ややかに告げた。


「それ以外、この門が開くことはないと思え。病気になろうが、野垂れ死のうが、誰も知ったことではない。……行くぞ」


重々しい足音と共に、衛兵たちが去っていく。

そして。


ギギギギギ……ズドン!!


錆びついた鉄の扉が、断末魔のような音を立てて閉ざされた。

直後に、外から重いかんぬきを掛ける音。

ガチャリ、と南京錠がロックされる金属音が、静寂の中に冷たく響いた。


「…………」


終わった。

完全に、外界と遮断された。


あちら側には、光と音楽、美食と笑い声がある。

こちら側にあるのは、静寂と腐敗、そして絶望だけ。


がらんとした宮殿の前庭に、私と蘭馨は二人きりで取り残された。

風が吹くと、頭上の枯れ木がカサカサと乾いた音を立てる。まるで、死者たちが手招きをしているようだ。


「うっ……ううっ……」


隣で、押し殺したような嗚咽が聞こえた。

見ると、蘭馨がその場に崩れ落ちていた。

粗末な麻の服を着て、地面に手をつき、肩を震わせて泣いている。


「姫様……申し訳ございません……わたくしが、至らなかったばかりに……こんな、こんな恐ろしい場所に……」


彼女の涙が、乾いた土に黒い染みを作っていく。

彼女は何も悪くない。悪いのは、調子に乗って踊り狂った私だ。

それなのに、この忠実な少女は、私の巻き添えを食らって一生を棒に振ろうとしている。


蘭馨らんけい……蘭馨、あなたのせいじゃないわ」


私は、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。声が震えるのを止められない。

本当は、私だって泣き叫びたかった。

なんで私がこんな目に。

昨日の朝までは、東京のワンルームでスマホのアラームに舌打ちしていたはずなのに。

どうして今、私は清朝の廃墟で、麻袋みたいな服を着て震えているの?


(エアコンも……ふかふかのベッドも……ない)


現代の快適な生活が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

蛇口をひねれば出るお湯。

ボタン一つで部屋を暖めてくれるエアコン。

夜中でも明るいコンビニ。

そして何より、あの清潔で、白く輝く、温水洗浄便座付きのトイレ。


それら全てが、遥か彼方の銀河系にある文明のように思えた。

ここはサバイバルだ。

それも、キャンプ場のような生易しいものではない。水も食料も保証されず、衛生状態は最悪。おまけに幽霊が出そうなオプション付きだ。


しばらくの間、私たちは呆然と座り込んでいた。

時間の感覚がなくなる。

太陽が雲に隠れ、ただでさえ薄暗い庭が、さらに濃い影に沈んでいく。

地面から伝わる冷気が、麻の服を通して肌に侵入し、骨の髄まで冷やしていく。


(寒い……)


くしゃみが出そうになるのを堪える。

このままではいけない。

ここでただ座って泣いていても、誰も助けに来てはくれない。

待っているのは、緩やかな死だけだ。

肺炎か、栄養失調か、あるいは絶望による発狂か。


私は、ゆっくりと自分の両手を見つめた。

かつては「杏花姫」の白魚のような手だった。

今は土に汚れ、爪の間には黒い泥が入っている。


この手は、本当は何のための手だった?

雅な琴を奏でるための手?

美しい刺繍をするための手?

皇帝に酌をするための手?


いいえ、違う。

私は首を横に振った。


これは、山田花子の手だ。

毎日キーボードを叩き、山のような伝票をめくり、指サックの跡をつけていた手だ。

理不尽な上司の命令に耐えながら、コピー機の紙詰まりを直し、シュレッダーのゴミを捨てていた手だ。


(この手で……会社の荒れ果てた給湯室を、年末の大掃除でピカピカに磨き上げたじゃない)


記憶が蘇る。あのヘドロのような茶渋がついたシンクを、クレンザーとスポンジ一つで新品同様に輝かせた時の達成感。


(この手で……散らかり放題だった自分のワンルームを、週末ごとに片付けてきたじゃない)


泥酔して帰った翌朝、ゴミ溜めのような部屋を、二日酔いの頭を抱えながらも完璧にリセットしてきた、あの生活力。


私の心の中で、種火のようなものが灯った。

それは、高貴な姫君のプライドではない。

雑草のようにしぶとく、ゴキブリのように生命力の強い、現代日本のOL命だった。


「……蘭馨」


私は立ち上がった。

膝の土を払う。パンパン、と乾いた音が、静寂を破る号砲のように響いた。


「泣いていても、お腹は空くわ」


私の声は、自分でも驚くほど低く、力強かった。


「え……?」


蘭馨が涙で濡れた顔を上げる。きょとんとした顔で私を見つめている。


「まずは、この城の探検よ。ライフラインの確保が最優先。雨風がしのげる寝室があるはずだし、水くらいは出る井戸があるかもしれない」


「ラ、ライフ……ライン……?」


「生きていくための命綱ってことよ! それに、この庭! 見て!」


私は、背丈ほどある雑草の海を指差した。


「これだけ草がボウボウに生えてるってことは、逆に言えば土は死んでないってことよ! 肥えてる証拠だわ。雑草を抜いて耕せば、何か野菜を育てられるかもしれない!」


家庭菜園なんてやったことはない。育てたことがあるのは豆苗くらいだ。

でも、そんなことは関係ない。

重要なのは、「絶望」という名の沼に沈む前に、「希望」という名のロープを自力で編み出すことだ。


なければ、作ればいい。

快適な環境がないなら、この手で作り上げてやればいい。

私は「お客様」じゃない。ここの「管理者」になるのだ。


「さあ、行くわよ!」


私は粗末な服の裾をまくり上げ、腰帯に挟み込んだ。

足元の雑草を踏みしめ、宮殿の正面扉へと向かう。


目の前にそびえるのは、朽ち果てた巨大な木製の扉。

かつては壮麗な彫刻が施されていたのだろうが、今はカビと埃で黒ずんでいる。


(開け、ゴマ!)


心の中で叫びながら、私は渾身の力で両手を扉にかけた。


「んんっ……ぐぬぬ……!」


重い。岩のように重い。

錆び付いた蝶番が抵抗する。

私は足を踏ん張り、全体重をかけて押し込んだ。


ギギギ……ギイイイイイイイッ!!


鼓膜をつんざくような、金属の悲鳴。

数十年分の摩擦をねじ伏せ、扉がわずかに開いた。


その瞬間。


ブワッ!


開いた隙間から、冷たく湿った風が吹き出してきた。

それはただの風ではない。

カビと、湿った土と、ネズミの糞と、長い時間放置された何かが朽ち果てたような、複雑で不快な「死の匂い」だった。

暗闇の奥から、無数の埃が煙のように舞い上がり、私たちを襲う。


「ケホッ! ゲホッ!」


「ひ、姫様……っ!」


私の背後で、蘭馨が悲鳴に近い声を上げた。

彼女は私の袖を掴み、ガタガタと震えている。

彼女の目には、この扉の向こうの闇が、巨大な化け物の口のように見えているのだろう。


無理もない。

私だって怖い。

昨日の今日まで、蛍光灯の下でぬくぬくと仕事をしていた身だ。

いきなりこんな、B級ホラー映画のセットのような廃墟に放り込まれて、平常心でいられるわけがない。

暗闇の奥で、何かがカサカサと動く音がした気がする。虫か、ネズミか、それとも……。


(お化けなんていない。いるのは害虫とカビだけ。物理攻撃で倒せる相手よ……!)


私は自分自身にそう言い聞かせ、恐怖をねじ伏せた。

そして、怯える蘭馨の手を引き、一歩、また一歩と宮殿の内部へと足を踏み入れた。


「お邪魔します……」


誰にともなく呟きながら、足を進める。

ミシリ。

床板が不吉な音を立てる。ところどころ腐って穴が開いており、慎重に歩かないと踏み抜きそうだ。

目が暗闇に慣れてくると、惨状がより鮮明に見えてきた。


広間の中央には、かつて豪華だったであろう椅子が転がっている。

壁には、巨大な蜘蛛の巣がアート作品のように張り巡らされ、その主である掌サイズの蜘蛛が、侵入者である私たちをじっと見下ろしている。

天井の梁からは、ボロボロになった布切れが垂れ下がり、風もないのにゆらゆらと揺れていた。


「ひぃっ!」

「大丈夫、ただの布よ」


蘭馨の悲鳴をなだめつつ、私たちは廃墟の探索を続けた。


「まずは……寝る場所の確保ね。雨風がしのげて、床が抜けてなくて、比較的マシな部屋を探しましょう」


「は、はい……」


私たちは、お互いの体温だけを頼りに、この巨大な幽霊屋敷をさまよった。

右の回廊は屋根が崩落しており、空が見えていた。NG。

左の小部屋は、何か獣の巣になっていた形跡があり、強烈な獣臭がした。NG。

奥の部屋は、床一面に得体の知れないキノコが生えていた。論外。


(なんてこと……マシな部屋が一つもないなんて)


半時(はんとき。約一時間)ほど歩き回っただろうか。

アドレナリンが切れてきたのか、急激な疲れと空腹、そして先の見えない不安が襲ってきた。

私の足取りは鉛のように重くなっていた。


最初に宣言した「冷宮リノベーション計画」という威勢のいいスローガンも、この圧倒的かつ物理的な崩壊の前では、ただの虚勢に過ぎなかったかもしれない。

掃除でどうにかなるレベルを超えている。これは解体工事が必要なレベルだ。


「姫様、少しお休みになられては……お顔色が……」


蘭馨が心配そうに私を覗き込む。

彼女自身も限界のはずなのに、気丈に振る舞おうとしてくれている。

その健気さが、逆に辛い。


「そうね……少し、座りましょうか」


私たちは、比較的状態の良かった中庭に面した回廊の縁側に、へなへなと座り込んだ。

埃を払う気力もなく、そのまま腰を下ろす。


空を見上げると、分厚い雲の隙間から、夕焼けの赤い光がわずかに漏れていた。

もうすぐ夜が来る。

この廃墟に、灯りもない真っ暗な夜が。

それは、昼間とは比較にならないほどの恐怖と寒さを連れてくるだろう。


(ダメだわ……具体的なプランがないと、ただ絶望して終わるだけだ……)


私は膝を抱え、ため息をついた。

ごわごわした囚人服の袖で、額に滲んだ脂汗を拭う。

喉が渇いた。お腹が空いた。

昨夜の宴で、何も食べていなかったことが悔やまれる。あの宙を舞った桃饅頭、拾って食べておけばよかった。


思考がネガティブな方向へと沈んでいく。

このままここで朽ち果てるのか。

山田花子の人生は、歴史タイムトラベラーしてもなお、バッドエンドなのか。


その時だった。


無造作に腰を下ろした拍子に、囚人服の腰帯のあたりに、ゴリッとした違和感があった。


「……ん?」


何か、四角くて硬いものが当たっている。

服の縫い目か? いや、それにしては大きすぎるし、硬すぎる。

私は帯の合わせ目に手を差し込んだ。

指先に触れたのは、ひんやりとした滑らかな感触。

石ではない。木でもない。

これは……。


「まさか」


心臓が大きく跳ねた。

私は震える手で、その「異物」を引きずり出した。


夕闇の中で、鈍く光る黒い長方形の物体。

表面はガラスのように滑らかで、裏面には見慣れたリンゴのマーク――ではなく、奇妙な紋章が刻まれているが、その形状は間違いなく私のよく知る「あれ」だった。


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