推しの反対はアンチではなく、無関心である
「うおおおおおっ!」
「下剋上でございます!!」
私の心の叫びと共に、両腕が天高く振り上げられた。
それは、現代社会の理不尽に耐え抜いた全社畜の代弁であり、この宮廷という閉塞した世界への勝利宣言――のはずだった。
だが、現実は残酷な物理法則によって支配されている。
勢いよく広げられた私の瑠璃色の袖は、空気抵抗をはらんでバサリと翻り、卓上にあった一点の障害物を、完璧な角度と速度で薙ぎ払った。
ガシャッ――!
硬質な音が鼓膜を叩く。
指先に、何かがぶつかった嫌な感触が残る。
私の視界の端で、最高級の景徳鎮の茶器セットが、まるで意思を持った生き物のように卓から飛び出した。
「あ」
時が、止まった。
世界中の時計の針が凍りついたかのような、永遠に続く一秒。
私の目は、その中の一つの湯飲みが、美しい放物線を描いて宙を舞う様を、スローモーションのように追っていた。
白磁の器が回転しながら、キラキラと太陽の光を反射する。
中に入っているのは、沸かしたての熱い菊茶だ。
それは重力に導かれ、吸い込まれるように「最悪の場所」へと落下していく。
着地点にいたのは、煌びやかな黄金色の衣をまとった、この国の最高権力者。
皇太后。
ドスッ。
ぴちゃり。
鈍い衝突音と、それに続く不吉な水音。
熱い茶飛沫が飛び散り、皇太后の膝の上に広げられていた最高級の絹織物に、見るも無残な茶色のシミが、毒花のようにじわりと広がっていった。
「…………」
小鳥のさえずりが止まった気がした。
風の音さえも消えた。
先ほどまで「花子の物語」に沸き立ち、クスクスという笑い声に包まれていた東屋は、瞬時にして真空状態のような静寂に包まれた。
数秒前までの熱狂が嘘のように、急速に温度が下がっていく。
誰も動かない。誰も声を発しない。
全員の視線が一点に集中している。
皇太后の濡れた膝と、万歳ポーズのまま硬直している私に。
(噓……でしょ……?)
私の脳内で、警報音が鳴り響く。
戻れ。時間を戻せ。
CtrlキーとZキーを同時押しさせてくれ。
しかし、現実は非情にも「保存」されていた。
皇太后は、悲鳴も上げず、身動き一つしなかった。
ただ、ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で首を傾げ、自身の膝の上に広がっていく茶色の地図を見下ろした。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は、能面のように無だった。
怒りすら通り越した、絶対零度の虚無。
彼女は、地獄の底から這い上がってくる怨霊のような、低く、しわがれた声で言った。
「……いま、なんと言った?」
あまりの恐怖に、私の思考回路は完全にショートした。
「へ?」
口から漏れたのは、あまりにも間の抜けた一文字だった。
「――『へ』?」
皇太后の眉尻がピクリと跳ね上がった瞬間、世界が崩壊した。
ダンッ!!
皇太后が拳で卓を叩きつける音が、雷鳴のように轟いた。
「このわたくしに! 熱い茶を浴びせておいて! 『へ』とは何事かぁぁっ!!」
「ひっ!?」
「そしてその立ち姿! いつまで見下ろしておる! 無礼であろう!!」
怒号が衝撃波となって私を襲う。
しまった、立ったままだった。
私は慌ててその場にひれ伏そうとした。だが、極度のパニックと、慣れない厚底靴が災いした。
「あ、うわっ!?」
足がもつれ、私は床に向かってダイブした。
優雅な平伏ではない。無様な転倒だ。
ドサッという音と共に、頭に刺していた重い金細工の髪飾りが外れ、床に落ちて「カラン……」と虚しい音を立てて転がった。
結い上げた髪がバサリと崩れ、私はざんばら髪の幽霊のような姿で床に這いつくばった。
「お、お、お許しを……! わざとでは、決して……!」
震える声で弁明しようとするが、言葉にならない。
視界の端で、皇太后が立ち上がるのが見えた。
その全身から立ち昇る怒りのオーラは、先ほどの比ではない。背後に巨大な黒い龍か夜叉の幻影が見えるようだ。
彼女は震える指先を、床に這いつくばる私に突きつけた。
「下品な市井の物語で宴の品位を貶め! あまつさえ、この国の国母たるわたくしに恥をかかせるとは! 不敬千万! 万死に値する!」
皇太后の激昂に呼応するように、周囲の空気も一変した。
先ほどまで私の話に笑っていた者たちは、今は一転して「関わり合いになりたくない」とばかりに顔を背けている。
「やはり、父の謀反も頷けるというもの! その粗暴さ、その慎みのなさ! 反逆者の汚れた血は、どうあっても争えぬと見えるな!」
その言葉は、鋭利な刃となって私の心臓をえぐった。
物語は私の創作だ。あのお茶を引っかけたのも、私のドジだ。
けれど、「父の謀反」「汚れた血」という言葉は、この杏花という少女が背負わされた、どうしようもない宿命だった。私がどんなに努力しても、どんなに場を盛り上げても、結局私は「罪人の娘」でしかなかったのだ。
顔を上げると、周囲の姫君たちの視線があった。
恐怖に青ざめている者もいるが、その瞳の奥には、隠しきれない優越感が揺らめいている。
『ざまあみろ』
『調子に乗るからよ』
そんな声が聞こえてくるようだ。
特に、あの麗華姫に至っては、扇子で口元を隠しているが、その目が三日月のように細められ、肩が小刻みに震えているのが見えた。彼女は笑っているのだ。私の破滅を、極上の余興として楽しんでいるのだ。
(誰か……助けて……)
私は縋るような思いで、視線を彷徨わせた。
そして、少し離れた場所に立つ、濃紺の衣装の人物と目が合った。
第二皇子、景。
さっき、私が倒れそうになった時に支えてくれた、あの美しい人。
(景様……!)
一瞬、淡い期待が胸をよぎった。
ドラマなら、ここで彼が割って入り、「母上、彼女に悪気はなかったのです」と助け舟を出してくれるはずだ。
私は祈るような目で彼を見つめた。
しかし。
彼と目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
彼の瞳は、氷河のように冷徹だった。
そこには、同情も、憐憫も、関心さえも浮かんでいなかった。
彼は、ただ無感情に、床に転がる私と、激昂する母親を「現象」として眺めているだけだった。
(……あ)
彼は、すっと視線を逸らした。
まるで、道端の枯れ木に興味を失ったかのように。
さっき感じた、あの力強い腕の温もり。あれは全部、私の妄想だったのかと思うほどに、彼の態度は冷たかった。
心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
希望も、憧れも、すべてが粉々になった。
「誰か、おるか!!」
皇太后の金切り声が、私の絶望に追い打ちをかける。
「はっ!」
控えていた屈強な衛兵たちが、足音荒く東屋になだれ込んできた。
床を揺らす軍靴の響きが、死刑執行の足音のように聞こえる。
「この痴れ者を捕らえよ! そのふざけきった頭と行いを、然るべき場所で、死ぬまで猛省させてやれ!」
然るべき場所。
その言葉が何を意味するのか、ありとあらゆる宮廷ドラマを見尽くした私には、痛いほど理解できてしまった。
それは「牢獄」よりも恐ろしい場所。
「皇太后様、お待ちくださいませ! お待ちください!」
その時、一人の少女が私の前に飛び出した。
蘭馨だ。
彼女は衛兵の前に立ちはだかり、額から血が出るほど激しく床に頭を打ち付けた。
「姫様は! 杏花姫様は、決して悪意があったわけではございません! ただ少し、足元がおぼつかなかっただけで……どうか、どうかご慈悲を!」
「蘭馨……っ」
涙が溢れた。
この広い宮廷で、私なんかのために命を張ってくれるのは、彼女だけだ。
しかし、皇太后の目には、慈悲の欠片もなかった。
「黙れ、下賤の者めが」
冷酷な一言。
虫ケラを見るような目。
「主の不始末は、教育を怠った侍女の罪でもある。……衛兵! この者を、姫と共に『冷宮』へ送れ!」
れい、きゅう。
その二文字の響きは、鋭利な杭となって、私の鼓膜を貫き、脳天に突き刺さった。
冷宮。
それは、罪を犯した妃や皇族が幽閉される、この世の終わりの場所。
暖房もなく、ろくな食事も与えられず、使用人もおらず、ただ孤独と寒さに震えながら死を待つだけの、生ける墓場。
一度入ったら二度と出られない、後宮の最果て。
ドラマでは、冷宮に入れられた妃が、発狂して壁に頭を打ち付けたり、井戸に身を投げたりする悲惨なシーンが、幾度となく描かれていた。
(嘘……でしょ……? 私が、あんな場所に……?)
血の気が、さあっと引いていく。指先の感覚がなくなる。
嫌だ。
家に帰りたい。
会社に行きたい。
満員電車でもいい、上司の説教でもいい、残業でもいい。
あんな、お化け屋敷みたいな場所で一生を終えるなんて、絶対に嫌だ!
「いやっ、離して! 私は悪くない! ただ転んだだけなの!」
私は半狂乱になって叫んだ。
しかし、衛兵たちの無慈悲な手が、私の両腕を万力のように掴み上げた。
OLの非力な腕が、鍛え抜かれた男たちの力に敵うはずもない。
「姫様! 姫様ぁぁっ!」
蘭馨の悲鳴が聞こえる。彼女もまた、別の衛兵に引きずられていく。
ごめん、蘭馨。私のせいで。本当にごめんなさい。
ズルズルと引きずられていく私の視界の中で、景色が流れていく。
美しい菊の花。豪華な東屋。冷ややかな目をした姫君たち。
そして。
最後にちらりと見えたのは、景皇子の背中だった。
彼はもう、こちらを見てさえいなかった。
静かに杯を傾け、どこか遠くの景色を眺めているその後ろ姿は、あまりにも優雅で、あまりにも遠かった。
(これが……バッドエンド……?)
御花園の出口へと引きずられながら、私は薄れゆく意識の中で思った。
こうして、私の華麗なる(はずだった)清朝プリンセスライフは、たった一日で。
しかも、自らの調子に乗った軽率なパフォーマンスによって。
最悪のエンディング――「冷宮落ち」を迎えることになったのである。
重い扉が閉まる音と共に、私の視界から光が消えた。




