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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
失楽園編
5/22

推しの反対はアンチではなく、無関心である

「うおおおおおっ!」

「下剋上でございます!!」

私の心の叫びと共に、両腕が天高く振り上げられた。

それは、現代社会の理不尽に耐え抜いた全社畜の代弁であり、この宮廷という閉塞した世界への勝利宣言――のはずだった。

だが、現実は残酷な物理法則によって支配されている。

勢いよく広げられた私の瑠璃色の袖は、空気抵抗をはらんでバサリと翻り、卓上にあった一点の障害物を、完璧な角度と速度で薙ぎ払った。

ガシャッ――!

硬質な音が鼓膜を叩く。

指先に、何かがぶつかった嫌な感触が残る。

私の視界の端で、最高級の景徳鎮けいとくちんの茶器セットが、まるで意思を持った生き物のように卓から飛び出した。

「あ」

時が、止まった。

世界中の時計の針が凍りついたかのような、永遠に続く一秒。

私の目は、その中の一つの湯飲みが、美しい放物線を描いて宙を舞う様を、スローモーションのように追っていた。

白磁の器が回転しながら、キラキラと太陽の光を反射する。

中に入っているのは、沸かしたての熱い菊茶だ。

それは重力に導かれ、吸い込まれるように「最悪の場所」へと落下していく。

着地点にいたのは、煌びやかな黄金色の衣をまとった、この国の最高権力者。

皇太后。

ドスッ。

ぴちゃり。

鈍い衝突音と、それに続く不吉な水音。

熱い茶飛沫が飛び散り、皇太后の膝の上に広げられていた最高級の絹織物に、見るも無残な茶色のシミが、毒花のようにじわりと広がっていった。

「…………」

小鳥のさえずりが止まった気がした。

風の音さえも消えた。

先ほどまで「花子の物語」に沸き立ち、クスクスという笑い声に包まれていた東屋あずまやは、瞬時にして真空状態のような静寂に包まれた。

数秒前までの熱狂が嘘のように、急速に温度が下がっていく。

誰も動かない。誰も声を発しない。

全員の視線が一点に集中している。

皇太后の濡れた膝と、万歳ポーズのまま硬直している私に。

(噓……でしょ……?)

私の脳内で、警報音が鳴り響く。

戻れ。時間を戻せ。

CtrlキーとZキーを同時押しさせてくれ。

しかし、現実は非情にも「保存セーブ」されていた。

皇太后は、悲鳴も上げず、身動き一つしなかった。

ただ、ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で首を傾げ、自身の膝の上に広がっていく茶色の地図を見下ろした。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

その表情は、能面のように無だった。

怒りすら通り越した、絶対零度の虚無。

彼女は、地獄の底から這い上がってくる怨霊のような、低く、しわがれた声で言った。

「……いま、なんと言った?」

あまりの恐怖に、私の思考回路は完全にショートした。

「へ?」

口から漏れたのは、あまりにも間の抜けた一文字だった。

「――『へ』?」

皇太后の眉尻がピクリと跳ね上がった瞬間、世界が崩壊した。

ダンッ!!

皇太后が拳で卓を叩きつける音が、雷鳴のように轟いた。

「このわたくしに! 熱い茶を浴びせておいて! 『へ』とは何事かぁぁっ!!」

「ひっ!?」

「そしてその立ち姿! いつまで見下ろしておる! 無礼であろう!!」

怒号が衝撃波となって私を襲う。

しまった、立ったままだった。

私は慌ててその場にひれ伏そうとした。だが、極度のパニックと、慣れない厚底靴が災いした。

「あ、うわっ!?」

足がもつれ、私は床に向かってダイブした。

優雅な平伏へいふくではない。無様な転倒だ。

ドサッという音と共に、頭に刺していた重い金細工の髪飾りが外れ、床に落ちて「カラン……」と虚しい音を立てて転がった。

結い上げた髪がバサリと崩れ、私はざんばら髪の幽霊のような姿で床に這いつくばった。

「お、お、お許しを……! わざとでは、決して……!」

震える声で弁明しようとするが、言葉にならない。

視界の端で、皇太后が立ち上がるのが見えた。

その全身から立ち昇る怒りのオーラは、先ほどの比ではない。背後に巨大な黒い龍か夜叉の幻影が見えるようだ。

彼女は震える指先を、床に這いつくばる私に突きつけた。

「下品な市井しせいの物語で宴の品位を貶め! あまつさえ、この国の国母たるわたくしに恥をかかせるとは! 不敬千万! 万死に値する!」

皇太后の激昂に呼応するように、周囲の空気も一変した。

先ほどまで私の話に笑っていた者たちは、今は一転して「関わり合いになりたくない」とばかりに顔を背けている。

「やはり、父の謀反も頷けるというもの! その粗暴さ、その慎みのなさ! 反逆者の汚れた血は、どうあっても争えぬと見えるな!」

その言葉は、鋭利な刃となって私の心臓をえぐった。

物語は私の創作だ。あのお茶を引っかけたのも、私のドジだ。

けれど、「父の謀反」「汚れた血」という言葉は、この杏花という少女が背負わされた、どうしようもない宿命だった。私がどんなに努力しても、どんなに場を盛り上げても、結局私は「罪人の娘」でしかなかったのだ。

顔を上げると、周囲の姫君たちの視線があった。

恐怖に青ざめている者もいるが、その瞳の奥には、隠しきれない優越感が揺らめいている。

『ざまあみろ』

『調子に乗るからよ』

そんな声が聞こえてくるようだ。

特に、あの麗華れいか姫に至っては、扇子で口元を隠しているが、その目が三日月のように細められ、肩が小刻みに震えているのが見えた。彼女は笑っているのだ。私の破滅を、極上の余興として楽しんでいるのだ。

(誰か……助けて……)

私はすがるような思いで、視線を彷徨わせた。

そして、少し離れた場所に立つ、濃紺の衣装の人物と目が合った。

第二皇子、けい

さっき、私が倒れそうになった時に支えてくれた、あの美しい人。

(景様……!)

一瞬、淡い期待が胸をよぎった。

ドラマなら、ここで彼が割って入り、「母上、彼女に悪気はなかったのです」と助け舟を出してくれるはずだ。

私は祈るような目で彼を見つめた。

しかし。

彼と目が合ったのは、ほんの一瞬だった。

彼の瞳は、氷河のように冷徹だった。

そこには、同情も、憐憫も、関心さえも浮かんでいなかった。

彼は、ただ無感情に、床に転がる私と、激昂する母親を「現象」として眺めているだけだった。

(……あ)

彼は、すっと視線を逸らした。

まるで、道端の枯れ木に興味を失ったかのように。

さっき感じた、あの力強い腕の温もり。あれは全部、私の妄想だったのかと思うほどに、彼の態度は冷たかった。

心の中で、何かが音を立てて砕け散った。

希望も、憧れも、すべてが粉々になった。

「誰か、おるか!!」

皇太后の金切り声が、私の絶望に追い打ちをかける。

「はっ!」

控えていた屈強な衛兵たちが、足音荒く東屋になだれ込んできた。

床を揺らす軍靴の響きが、死刑執行の足音のように聞こえる。

「この痴れ者を捕らえよ! そのふざけきった頭と行いを、然るべき場所で、死ぬまで猛省させてやれ!」

然るべき場所。

その言葉が何を意味するのか、ありとあらゆる宮廷ドラマを見尽くした私には、痛いほど理解できてしまった。

それは「牢獄」よりも恐ろしい場所。

「皇太后様、お待ちくださいませ! お待ちください!」

その時、一人の少女が私の前に飛び出した。

蘭馨らんけいだ。

彼女は衛兵の前に立ちはだかり、額から血が出るほど激しく床に頭を打ち付けた。

「姫様は! 杏花姫様は、決して悪意があったわけではございません! ただ少し、足元がおぼつかなかっただけで……どうか、どうかご慈悲を!」

「蘭馨……っ」

涙が溢れた。

この広い宮廷で、私なんかのために命を張ってくれるのは、彼女だけだ。

しかし、皇太后の目には、慈悲の欠片もなかった。

「黙れ、下賤げせんの者めが」

冷酷な一言。

虫ケラを見るような目。

あるじの不始末は、教育を怠った侍女の罪でもある。……衛兵! この者を、姫と共に『冷宮れいきゅう』へ送れ!」

れい、きゅう。

その二文字の響きは、鋭利な杭となって、私の鼓膜を貫き、脳天に突き刺さった。

冷宮。

それは、罪を犯した妃や皇族が幽閉される、この世の終わりの場所。

暖房もなく、ろくな食事も与えられず、使用人もおらず、ただ孤独と寒さに震えながら死を待つだけの、生ける墓場。

一度入ったら二度と出られない、後宮の最果て。

ドラマでは、冷宮に入れられた妃が、発狂して壁に頭を打ち付けたり、井戸に身を投げたりする悲惨なシーンが、幾度となく描かれていた。

(嘘……でしょ……? 私が、あんな場所に……?)

血の気が、さあっと引いていく。指先の感覚がなくなる。

嫌だ。

家に帰りたい。

会社に行きたい。

満員電車でもいい、上司の説教でもいい、残業でもいい。

あんな、お化け屋敷みたいな場所で一生を終えるなんて、絶対に嫌だ!

「いやっ、離して! 私は悪くない! ただ転んだだけなの!」

私は半狂乱になって叫んだ。

しかし、衛兵たちの無慈悲な手が、私の両腕を万力のように掴み上げた。

OLの非力な腕が、鍛え抜かれた男たちの力に敵うはずもない。

「姫様! 姫様ぁぁっ!」

蘭馨の悲鳴が聞こえる。彼女もまた、別の衛兵に引きずられていく。

ごめん、蘭馨。私のせいで。本当にごめんなさい。

ズルズルと引きずられていく私の視界の中で、景色が流れていく。

美しい菊の花。豪華な東屋。冷ややかな目をした姫君たち。

そして。

最後にちらりと見えたのは、景皇子の背中だった。

彼はもう、こちらを見てさえいなかった。

静かに杯を傾け、どこか遠くの景色を眺めているその後ろ姿は、あまりにも優雅で、あまりにも遠かった。

挿絵(By みてみん)

(これが……バッドエンド……?)

御花園の出口へと引きずられながら、私は薄れゆく意識の中で思った。

こうして、私の華麗なる(はずだった)清朝プリンセスライフは、たった一日で。

しかも、自らの調子に乗った軽率なパフォーマンスによって。

最悪のエンディング――「冷宮落ち」を迎えることになったのである。

重い扉が閉まる音と共に、私の視界から光が消えた。



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