宮廷の中心で、残業をさけぶ
御花園の奥深くに設けられた宴の会場は、この世の極楽を具現化したような場所だった。
清らかな水を湛えた池のほとり、朱塗りの柱と瑠璃色の瓦で葺かれた巨大な東屋。
そこには、秋の陽光を遮るように薄絹の幕が張られ、心地よい風が吹き抜けていく。
上座の中央、一段高い黄金の椅子に鎮座しているのは、もちろんあの大ボス、皇太后だ。
その左右には、皇帝の寵愛を競う妃たちが、まるで鮮やかな花束のように並んでいる。
そして、その下段に、私たちのような姫や貴族の令嬢たちが、厳格な身分順に従って席を与えられていた。
「…………」
私は、その華やかな円陣の、一番端の端。
柱の陰に隠れるような、申し訳程度の小さな卓の前に座っていた。
ここが、謀反人の娘である「杏花」の定位置だ。
卓の上には、目の覚めるような美しい菓子や、瑞々しい果物が盛られた水晶の皿が並んでいる。
桃饅頭からは湯気が立ち上り、葡萄は宝石のように輝いている。
だが、私の喉は砂漠のようにカラカラで、食欲など微塵も湧いてこない。
胃の腑には、鉛のような重たい塊が居座っている。
(帰りたい……。ワンルームのせんべい布団に包まりたい……)
目の前では、皇太后の機嫌を取るべく、姫君たちの熾烈なアピール合戦が繰り広げられていた。
ある姫は、古琴の前に座り、白魚のような指で弦を弾く。
『高山流水』の見事な旋律が、秋風に乗って優雅に響き渡る。
またある姫は、広袖を翻し、天女のごとき舞を披露する。そのたびに、周囲からはため息のような称賛の声が漏れる。
中には、庭園の菊を愛でて即興で漢詩を詠み上げ、皇太后から「見事じゃ」とお褒めの言葉を賜っている才女もいた。
(無理無理無理! 私にできることなんて、せいぜいラジオ体操第一くらいよ!)
現代社会で生きてきた山田花子(三十路・独身・しがない経理事務OL)に、そんな雅な宮廷スキルが備わっているはずがない。
琴? リコーダーでさえ怪しい。
舞? 盆踊りか、忘年会のマツケンサンバならギリギリいけるか。
詩? サラリーマン川柳しか詠めないわよ!
(このまま空気になろう。私は石。私は柱のシミ……)
私は背を丸め、豪華な衣装の中に亀のように首を引っ込め、存在感を消すことに全神経を集中させた。
宴が終わるまでの辛抱だ。あと一時間、いや二時間耐えれば、あの冷房のない部屋(牢獄とも言う)に帰れる。
しかし、宮廷という伏魔殿において、悪意というものは常に、最も弱く、最も目立たない獲物を的確に見つけ出すものである。
「皆様、本日は誠に素晴らしい芸でございますわね」
ふと、鈴を転がすような、しかしどこか粘着質な甘さを帯びた声が、宴の空気を切り裂いた。
声の主は、皇帝の寵姫・張貴妃の姪だという、麗華姫だ。
牡丹色の豪奢な衣をまとい、勝ち誇ったような笑みを浮かべている彼女は、扇子で口元を隠しながら、蛇のような視線を真っ直ぐに私に向けていた。
「ですが、わたくし、噂に聞き及んでおりますの。あちらにいらっしゃる杏花姫もまた、人には言えぬ素晴らしい隠し芸をお持ちだとか」
(……は?)
心臓がドクンと跳ねた。
隠し芸? 初耳だ。そんな設定、昨夜のドラマにもなかったはずだ。
これは、完全に私を嵌めるための罠だ。公衆の面前で恥をかかせ、笑いものにする気だ。
(来たわよ、宮廷ドラマお約束の、意地悪ライバルキャラの無茶振り!)
案の定、会場中の視線が一斉に――数百本の針のように――私に突き刺さる。
軽蔑、好奇心、嘲笑。
それらの視線を浴びて、私は氷の像のように硬直した。
そして、最悪なことに、ラスボスである皇太后が、退屈そうだった表情を一変させ、興味深そうに眉を上げたのだ。
「ほう。あの謀反人の娘がか? それは初耳だな。……杏花。どのような芸なのだ?」
絶対的な勅命。
皇太后の言葉は、法律よりも重い。
「いえ、何もできません」などと言えば、それは皇太后の期待を裏切る「欺瞞の罪」に問われかねない。かといって、何かをすれば確実に失敗して笑いものになる。
詰んだ。
完全に詰んだ。
背中を、嫌な汗が滝のように流れ落ちる。
隣に控えている蘭馨が、青ざめた顔で私の袖をぎゅっと握りしめているのがわかる。彼女も震えている。
(どうする? どうする山田花子!)
私の脳内コンピュータが、オーバーヒート寸前の勢いで回転を始めた。
琴? 触ったこともない。
歌? カラオケの十八番は中島みゆきだが、ここで『うらみ・ます』を歌ったら処刑される。
モノマネ? 上司のハゲ部長のマネなら完璧だが、誰にも伝わらない。
追い詰められたその瞬間。
火事場の馬鹿力か、あるいは長年の社畜生活で培われた「土壇場での言い訳能力」か。
私の中で、何かがパチンと弾けた。
(こうなったら……ヤケクソよ! どうせ失うものなんて何もないわ!)
私はゆっくりと、震える膝に力を入れて立ち上がった。
数キロある衣装が重いが、今の私には、それを凌駕するアドレナリンがみなぎっている。
「……そ、その……」
全員の視線が私に集まる。
私は一度大きく息を吸い込み、腹に力を込めた。
「わたくしは、皆様のような雅な芸は持ち合わせておりません。ですが……父の罪により、友もなく、孤独な身の上ゆえ……物語を空想し、それを語ることだけが、唯一の慰めでございました」
我ながら、なんと健気で、哀愁漂う言い訳だろうか。
「謀反人の娘」という負のレッテルを、逆手にとって「不幸な少女」の演出に変える。
周囲から、かすかな同情のため息が漏れたのが聞こえた。
麗華姫の顔が歪み、「ちっ」と舌打ちしたのが見えた。
よし、第一関門突破。つかみはOKだ。
皇太后は、扇子を閉じてつまらなそうに鼻を鳴らした。
「物語、だと? 市井の講談師の真似事か。……ふん、まあよい。申してみよ。わたくしを退屈させたらどうなるか、わかっておろうな」
その目は、爬虫類のように冷たく、全く笑っていない。
退屈させたら、指の一本や二本では済まない。下手をすれば冷宮送りだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
シンデレラ? 白雪姫? いや、西洋の童話などこの世界観に合わないし、継母にいじめられる話など、目の前の皇太后への当てつけになりかねない。
ならば。
私の知る、最も過酷で、最も理不尽で、しかし共感を呼ぶ「戦場」の話をしてやろうじゃないか。
「では、僭越ながら。これは、とある遠い国の宮城に仕える、一人のしがない女官の物語にございます」
私は咳払いを一つすると、語り始めた。
私の声は、最初は震えていたが、次第に熱を帯びていった。
「その女官の名は、花子と申します。……彼女の朝は、夜明けと共に鳴り響く、けたたましい鐘の音から始まりまする」
鐘の音。それはもちろん、スヌーズ機能付きのスマホのアラームのことだ。
「眠い目をこすり、温かい寝台から這い出ると、彼女は己の顔を洗うよりも先に、主である貴妃様のためのお湯を沸かし、朝餉の準備に取り掛かるのでございます」
貴妃様。それは、私が仕えていたお局様兼直属の上司のことだ。
「花子が仕える貴妃様は、それはそれは気難しく、お茶の温度が一度違っただけで、雷のような叱責が飛んでまいります。『この役立たず!』『何度言ったらわかるのだ!』『前の日と言っていることが違うではないか!』……と」
私の脳裏に、ヒステリックに叫ぶ上司の顔が鮮明に浮かぶ。
その怒りと理不尽さを、私は「講談」という形に昇華させた。
「花子は縮み上がりながら、何度も何度も、額を床に擦り付けて頭を下げるのでございます。心の中では『知るか! 自分で淹れろ!』『昨日の指示と矛盾しております!』と叫びながらも、顔では『申し訳ございません、貴妃様! 全てわたくしの不徳の致すところでございます!』と、満面の笑みを浮かべる術を、入宮三年で身につけておりました」
会場の空気が、奇妙に変化し始めた。
上座の妃たちは「まあ、なんて下品な」と眉をひそめている。
だが。
会場の隅に控えている下級の女官たちや、給仕をしている宦官たちの肩が、小刻みに震えているのが見えた。
彼らは必死に笑いをこらえているのだ。あるいは、共感に震えているのだ。
「理不尽な上司への偽りの笑顔」。それは、いつの時代も、どこの世界でも、働く者たちの共通言語だった。
(いける。これはウケている!)
手応えを感じた私は、さらに話を畳み掛けた。
もう、ここには「杏花姫」はいない。
ここにいるのは、現代日本の企業戦士の心を宿した、一人の語り部だ。
「ある日のこと。花子は同僚の女官たちと、井戸端でささやかなお茶会を開いておりました」
井戸端会議。すなわち給湯室でのサボりタイムだ。
「話題はもっぱら、新しく入ってきた若い衛兵様のことでございます。『あの方は素敵だわ』『背が高いわ』『でも、あの方には許嫁がいるらしいわよ』……そんな、他愛もない噂話に花を咲かせることだけが、日々の重労働に耐える彼女たちの、唯一の楽しみなのでございました」
そう、あのつかの間の休息。
営業部のエースがどうとか、総務の誰それが不倫しているとか。
あんな下らない話が、どうしてあんなに楽しかったのだろう。
「しかし、楽しい時間は無情にもあっという間に過ぎ去ります。遠くから、『おい、何をしている!』という上役の怒声が聞こえれば、花子たちは慌ててお茶を飲み干し、蜘蛛の子を散らすように持ち場へと戻らねばなりません。これを、わたくしたちの世界では『休憩終了』と呼びまする」
うっかり横文字が出てしまったが、もはや誰も気にしていない。
女官たちは顔を伏せているが、その背中は激しく揺れている。宦官の一人が、「ブフォッ」と吹き出すのを必死で袖で押さえた。
私は調子に乗った。完全にゾーンに入っていた。
これは、ただの物語ではない。私の、そしてここにいる名もなき労働者たちの心の叫びなのだ。
「そして! 物語は佳境に入ります! ある日、花子に無理難題が降りかかります。隣国の使節団をもてなすための書類……いえ、巻物を、たった一晩で百巻用意せよと命じられたのです!」
決算期の残業地獄のエピソードだ。
「無理です、と泣きつく花子に、貴妃様は冷たく言い放ちました。『やる気がないなら去れ! 代わりなどいくらでもいる!』……ああ、なんという非情! しかし花子は諦めませんでした。同僚たちと励まし合い、眠い目をこすり、カフェイン……いえ、濃い茶をあおりながら、筆を走らせ続けました!」
私は身振り手振りを交え、熱弁を振るった。
いつしか、会場中の視線が私に釘付けになっていた。
皇太后でさえ、扇子を少し下げ、身を乗り出している。
「夜が明け、鶏が鳴く頃。ついに、最後の巻物が完成しました! 花子は、震える手でそれを抱え、貴妃様の御前に差し出したのです! 『よくやった、花子!』……貴妃様から、初めて賜ったお褒めの言葉。花子は涙を流して喜びました!」
私はクライマックスに向けて声を張り上げた。
「やった! やったのです! 理不尽な命令も、終わらない夜も、全てはこの瞬間のために! これぞまさしく、社畜の意地! 下剋上でございます!!」
興奮が頂点に達した。
私は感極まり、自分が今、不安定な厚底靴を履いていることも、狭い卓の前にいることも忘れてしまっていた。
「うおおおおおっ!」
勝利の雄叫びと共に、私は勢いよくその場で立ち上がり、感動を表現しようと両腕を天に向かって大きく振り上げた。
その、瞬間だった。
私の大きく広がった瑠璃色の袖が、まるでスローモーションのように、卓の上の「あるもの」を引っかけた。
それは、最高級の西域の葡萄酒がなみなみと注がれた、金銀細工の大きな水差しだった。
あっ、と思った時にはもう遅い。
ガシャン!!
静まり返った御花園に、破壊の音が盛大に響き渡った。
水差しが宙を舞い、卓上の水晶の皿を直撃。
美しい桃饅頭が空を飛び、宝石のような葡萄が床に散乱し、そして何より――。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が上がった。
なみなみと入っていた赤黒い葡萄酒が、放物線を描いて飛んでいき、すぐ近くに座っていた麗華姫の、あの自慢の牡丹色のドレスに、ドボドボと降り注いだのだ。
時が、止まった。
私の両腕は、まだ万歳のポーズで固まっている。
目の前には、頭から葡萄酒をかぶり、まるで殺人現場のようになった麗華姫。
転がる水差し。
飛び散った饅頭。
そして、シンと静まり返った会場の中で、皇太后がゆっくりと、般若のような形相で立ち上がるのが見えた。
(……あ、終わった)
私の脳裏に、PCの強制終了の画面と、「人生オーバー」の文字が、虚しく点滅していた。




