国境の長いトンネルを抜けると、そこは塩対応だった
「解手」――すなわち、おまるでの用足しという人生最大の尊厳をかけたミッションを、私はなんとかクリアした。
羞恥心という名の皮膚が一枚剥がれ落ちたような気分だが、感傷に浸っている暇はない。蘭馨の手によって再び幾重もの衣を整えられ、メイクを直された私は、いよいよ本日のメインイベント、「観菊の宴」が開かれる御花園へと出陣することになった。
しかし、一歩部屋を出た瞬間、私を待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な「環境」という名の暴力だった。
「……暑い」
思わず口をついて出た本音は、すぐに熱気の中に溶けて消えた。
今日の天気は、恨めしいほどの秋晴れだった。空はどこまでも高く突き抜け、雲ひとつない青色が広がっている。現代であれば「絶好の行楽日和」と天気予報士が笑顔で告げるだろう。
だが、今の私にとっては、この太陽は拷問器具以外の何物でもなかった。
じりじりと照りつける日差しが、容赦なく私の全身を焦がしていく。
私が身にまとっているのは、薄絹の下着に、襦袢、中衣、そして豪華な刺繍が施された厚手の長袍、さらにその上から羽織る大袖の礼服だ。
枚数にして五枚、いや六枚か。
現代の夏ならTシャツ一枚でも不快指数が振り切れる気温の中、私はまるで布団を体に巻き付けて歩いているような状態だった。
(重い……暑い……苦しい……!)
一歩踏み出すたびに、ずっしりとした衣装の重みが肩に食い込む。
背中を、ツーっと嫌な汗が伝い落ちていくのがわかる。首元に巻かれたスカーフのような領巾が熱を閉じ込め、逃げ場のない湿気が体表を覆う。
額に滲む汗が、時間をかけて塗りたくられたファンデーション(恐らく鉛白か何かだ)を溶かしていくような気がして、気が気ではない。
(エアコン……! せめて、せめてダイソンの扇風機を……!)
私の脳裏に、オフィスの天井に埋め込まれた業務用の空調吹き出し口が、まるで天国の門のように神々しく浮かび上がった。
昨日の今頃は、キンキンに冷えたオフィスで「寒い寒い」と言いながらカーディガンを羽織り、結露したアイスコーヒーのカップをデスクに置いていたのだ。あの冷房による乾燥さえも、今となっては愛おしい。
文明の利器を取り上げられた現代人がこれほど脆いものだとは、思いもしなかった。
「姫様、汗が。失礼いたします」
隣を歩く蘭馨が、心配そうな顔でハンカチを取り出し、私のこめかみをそっと押さえる。彼女はもう片方の手で、大きな団扇を必死に扇いでくれているが、その微風は分厚い衣装の壁に阻まれ、肌までは届かない。まさに焼け石に水だ。
「ありがとう、蘭馨……でも、大丈夫よ」
気丈に振る舞おうとしたが、声は掠れ、笑顔は引きつっていたに違いない。
周囲を見渡せば、回廊を行き交う他の姫君や貴婦人たちの姿があった。
彼女たちも同じように、いや、私以上に豪華で厚着をしているはずだ。
それなのに。
(なんで? なんでみんな涼しい顔してるの?)
すれ違う貴婦人たちは、優雅に絹の扇子を揺らしながら、「今年の菊は見事ですこと」などと談笑している。
汗ひとつかいていない。まるで、彼女たちの皮膚には汗腺が存在しないかのようだ。それとも、宮廷での訓練を積めば、自律神経さえもコントロールできるようになるというのか。
一人だけ茹でダコのように顔を赤くし、息を荒げている自分が、ひどく場違いで野暮ったい存在に思えてくる。
それに加えて、足元の苦行が私の体力を削り取っていく。
私が履いているのは「花盆底」と呼ばれる、清朝特有の厚底靴だ。
靴底の中央部分だけに、高さ十センチほどの木の台がついている。つま先とかかとが浮いている状態だ。例えるなら、一本歯下駄とハイヒールを悪魔合体させたような代物である。
バランスを取るだけで体幹の筋肉が悲鳴を上げている。
砂利道を踏むたびに足首がグネりそうになり、そのたびに冷や汗が吹き出し、さらに体温が上がるという悪循環。
(これ、本当に宴に行くの? 刑場に向かってるんじゃないの?)
意識が朦朧とし始めた頃、ようやく視界が開けた。
極彩色の門をくぐり抜けた先に広がっていたのは、息を飲むほど美しい、しかし同時に残酷なほど広大な「御花園」だった。
池の水面は鏡のように空を映し出し、その周囲には数え切れないほどの菊の花が咲き誇っている。
黄金色、純白、燃えるような紅、そして高貴な紫。
大輪の菊が波のようにうねり、風が吹くたびに甘くほろ苦い香りが鼻腔を満たす。
池の中央には朱塗りの東屋が浮かぶように建っており、そこから琴の音色が風に乗って流れてくる。
まさに、この世の極楽。絵巻物から切り取ったような絶景。
だが、その美しい景色の中に足を踏み入れた瞬間、私はそこが「社交界」という名の戦場であることを思い知らされた。
「……あら」
私が会場の入り口に立った瞬間、近くにいた数人の令嬢たちが、扇子で口元を隠しながらこちらを見た。
その視線には、明らかな「棘」があった。
「あちらが、例の杏花姫ですわね」
「まあ……本当においでになったの?」
「お父様が謀反の罪に問われたとか……一族の恥ですのに」
「よくもまあ、のうのうと宴になど顔を出せますこと」
ひそひそと。
しかし、明らかに私の耳に届く音量で調整された、悪意の周波数。
クスクスという忍び笑いが、さざ波のように広がっていく。
(聞こえてるっつーの……!)
現代社会でも陰口や噂話はあった。給湯室での悪口、SNSでの匿名コメント。
だが、ここのそれは質が違う。
洗練された言葉遣いでラッピングされた、純度の高い猛毒だ。
「謀反人の娘」。
そのレッテルが、私という存在をこの煌びやかな世界から弾き出そうとしている。
現代なら「それ、パワハラですよね? 人事案件ですよ?」と言い返せるかもしれない。だが、ここでは誰も止めてくれない。身分と権力がすべてのこの世界で、罪人の娘である私は、食物連鎖の最底辺にいるプランクトンに過ぎないのだ。
暑さによる脱水症状。
慣れない靴による筋肉疲労。
トイレ問題による精神的摩耗。
そして、容赦なく降り注ぐ人間関係のストレス。
物理的、精神的なダメージの四重奏を食らった私の限界ゲージは、ついにレッドゾーンを振り切った。
(ああ、もうダメ……)
視界がぐにゃりと歪んだ。
鮮やかな菊の色が、絵の具をぶちまけたように混ざり合う。
耳元の蝉の声が、キーンという耳鳴りに変わっていく。
地面が、急激な角度で迫ってくる。
膝から力が抜けた。
倒れる。
硬い石畳に顔面から激突する、その痛みと衝撃を覚悟して、私は目を閉じた。
その時だった。
グイッ。
衝撃は来なかった。
代わりに、私の身体は宙吊りになったかのように止まった。
誰かの、力強い腕が、私の腰を抱き留めていたのだ。
「……大丈夫か?」
耳元で響いたその声は、灼熱の砂漠に湧き出た清水のように、冷たく、澄んでいた。
低音で、磁力を帯びたような、深い響き。
鼓膜が震え、その振動が直接脳髄を揺らす。
私は、霞む視界を必死に凝らして、顔を上げた。
スローモーションのように時間が引き伸ばされる。
逆光の中、その人の顔がゆっくりと焦点を結ぶ。
「…………っ」
息を呑んだ。呼吸することさえ忘れた。
そこにいたのは、人間ではなかった。
天界からうっかり地上に落ちてきてしまった、美の化身だった。
漆黒の髪は、一筋の乱れもなく頭頂部で結い上げられ、精緻な白玉の冠で固定されている。
切れ長の瞳は、底知れぬ湖のように深く、静かで、涼やかだ。
夜空に浮かぶ星屑をそのまま溶かして流し込んだような、吸い込まれそうな黒目。
すっと通った鼻筋は、定規で引いたように真っ直ぐで完璧な稜線を描いている。
薄い唇は引き結ばれ、冷徹な意志を感じさせるが、その形状はあまりにも色っぽい。
肌は陶磁器のように白く、強い日差しを浴びても汗ひとつかいていない。
まるで、彼だけが別の気温、別の時間の流れの中に生きているかのようだ。
高名なミケランジェロが、自身を削って彫り上げたダビデ像。
人間が本来持つべき「雑味」が一切ない、侵しがたい美しさ。
(第二皇子……景様……!)
私の脳内で、昨夜の記憶が爆発した。
間違いない。
昨夜、私が深夜三時まで更かしをして見続け、寝不足になった元凶。
架空のドラマの登場人物だと思っていた、あの人。
皇帝の次男でありながら、泥沼の皇位継承権争いからは一歩引き、常に冷静沈着。
文武両道に秀で、琴を弾かせれば都の鳥が舞い降り、剣を振るえば一撃で敵を薙ぎ払う。
しかし、その瞳には常にどこか深い憂いを帯びており、決して本心を他人に見せないミステリアスな皇子。
そのクールな立ち居振る舞いと、時折見せる孤独な横顔に、画面の向こうの数千万人の女性視聴者が悲鳴を上げ、私もその一人として尊死しかけた、あの「最推し」が。
今、目の前にいる。
3Dで。4Kどころじゃない解像度で。
しかも、私を抱きとめている。
(うそ……夢? これ、まだ夢の続き? だとしたら一生覚めないで!)
ドラマの中では、金糸銀糸をふんだんに使った豪華な衣装に身を包んでいたが、目の前にいる彼は違った。
余計な装飾を削ぎ落とした、深い濃紺のシンプルな長袍。
生地には同色の糸で目立たぬように雲の文様が織り込まれているだけだ。
だが、そのシンプルさがかえって、彼自身が持つ素材の良さ、圧倒的な気品を際立たせていた。
飾り立てる必要などない。彼という存在そのものが、至宝なのだから。
ふわりと、鼻先を何かの香りがかすめた。
白檀のような、高貴で甘い香りに混じって、清涼なミントのような、あるいは雪解け水のような、冷たくて清潔な香り。
汗臭いおじさんの臭いでも、安っぽいコロンの臭いでもない。
これが「イケメンの香り」なのか。
「……大丈夫か?」
彼がもう一度、短く問いかけた。
抑揚のない声だが、至近距離で聞くと、心臓を直接握られたような衝撃がある。
私の腰を支えている彼の手のひら。
見た目は白く、指も長く繊細で、ピアニストか書家のように見える。
けれど、絹の衣装越しに伝わってくるその感触は、驚くほどがっしりとしていた。
硬く、力強く、そして熱い。
男性の体温。
筋肉の躍動。
その熱が、私の脇腹から全身へと伝播し、暑さとは別の理由で、私の顔はカッと沸騰した。
「あ……あ……」
声が出ない。
推しを前にして、流暢に喋れるオタクなど存在しない。
私はパクパクと金魚のように口を開閉させた後、かろうじて喉の奥から声を絞り出した。
「……か、感謝、いたします……」
自分でも驚くほどか細く、震えた声だった。
情けない。もっと気の利いたセリフは言えないのか。「危ないところを、かたじけのうございます」とか、「貴方様のような素敵な方に助けていただけるなんて、転んでもタダでは起きないとはこのことです」とか。
いや、後者は絶対にダメだ。
私は期待した。
ドラマなら、ここからロマンスが始まる。
彼は優しく私を立たせ、「怪我はないか?」と甘く囁き、汚れた私の裾を払ってくれるはずだ。あるいは、懐から白いハンカチを取り出して、「顔色が悪いぞ」と私の汗を拭ってくれるかもしれない。
そして、周囲の意地悪な令嬢たちに向かって、「この方を侮辱することは、私が許さん」と一喝してくれる――。
そんな、ベタで甘い展開を夢見て、私は潤んだ瞳で彼を見上げた。
しかし。
現実は、ドラマの脚本通りには進まなかった。
景皇子は、私の顔をじっと見た。
その瞳には、熱情も、心配も、あるいは憐れみさえも浮かんでいなかった。
あるのは、無。
あるいは、道端に落ちている石ころを見るような、無機質な観察眼。
そして、私が自力で立てることを確認すると、彼はパッと手を離した。
まるで、汚れたものに触れてしまったかのように。
躊躇なく。
余韻もなく。
「……っ」
支えを失い、私はグラリとよろけたが、なんとか踏ん張った。
私の腰には、彼の手の熱さがまだ残っているのに、彼自身はすでに一歩、後ろに下がっていた。
そして、懐から真っ白な絹のハンカチを取り出すと――私に渡すのではなく――私に触れた自分の手を、丁寧に、念入りに拭いたのだ。
(……え?)
私の思考がフリーズする。
今、手を拭いた?
私に触った直後に?
バイ菌扱い?
「……行くぞ」
景皇子は、私にはもう一瞥もくれず、短くそう呟いた。
その声は、私に向けられたものではなく、背後に控えていた宦官に向けられたものだった。
彼はくるりと踵を返すと、流れるような所作でその場を去っていった。
濃紺の衣の裾が、風にひらりと翻る。
何もなかったかのように。
誰もいなかったかのように。
「あ……」
残されたのは、助けられたはずなのに、なぜか公開処刑を受けたような格好になった私だけ。
ドラマのような甘いBGMは流れない。
代わりに聞こえてきたのは、先ほどよりも音量を増した、周囲からの嘲笑だった。
「ぷっ……ご覧になりまして? 景皇子様のあの冷ややかなお顔」
「まあ、あの方、こともあろうに景皇子様に取り入ろうとなさって。わざとよろけて見せたのではありませんこと?」
「あさましいですわねぇ。さすがは謀反人の娘。血は争えませんわ」
「身の程知らずにも程がありますわ。皇子様が、あのような不浄な娘に興味を持たれるはずもございませんのに」
違う。
断じて違う。
わざとじゃない。本当に倒れそうだったのだ。
それに、取り入ろうなんて思っていない。ただ、生きていただけなのに。
容赦ない言葉の礫が、全身に突き刺さる。
さっきまで感じていた「推しに会えた高揚感」は一瞬で消え失せ、代わりにどす黒い惨めさが胸に広がった。
(なによ……なによ、あれ)
ドラマの中の彼は、もっと優しかったはずだ。
いや、あれは「ヒロイン」に対してだけ優しかったのか。
今の私は、ヒロインではない。「悪役令嬢」あるいは「モブ以下の罪人の娘」なのだ。
だとしても、あんな露骨に手を拭かなくてもいいじゃないか。
私のTシャツはヨレヨレかもしれないが、この杏花の身体は毎日お風呂に入っているし、最高級のお香だって焚き染めているはずだ。不潔なんかじゃない。
「姫様! 姫様、大丈夫でございますか!?」
呆然と立ち尽くす私の元へ、蘭馨が血相を変えて駆け寄ってきた。
彼女は私の身体を支え、周囲の視線から守るように立ちはだかった。
「お気を確かに、姫様。さあ、こちらへ。少しお座りになって……」
蘭馨の温かい手が、私の震える腕を支えてくれる。
その手のぬくもりだけが、この氷のように冷たく、地獄のように暑い世界で、唯一の救いだった。
私は唇を噛み締めた。
悔しさで、視界が滲む。
暑さのせいか、屈辱のせいか、涙が出そうになるのを必死で堪える。
(覚えてなさいよ、景皇子……!)
私の心の中の山田花子が、涙目でファイティングポーズをとった。
イケメンだからって、推しだからって、許さない。
絶対に、いつかそのすました顔を驚かせてやる。
手を拭いたことを後悔させてやる。
「……ええ、大丈夫よ、蘭馨」
私は震える足に力を込め、顔を上げた。
化粧は崩れているかもしれない。
汗だくかもしれない。
それでも、私はここで折れるわけにはいかないのだ。
だって、私はまだ、この世界のトイレ事情すら解決していないのだから。
生き延びてやる。
そしていつか、この豪華絢爛で理不尽な世界に、ウォシュレット付きのマイホームを建ててやるのだ。
決意を新たに、私は蘭馨に支えられながら、針のむしろのような宴の席へと、重い一歩を踏み出した。




