トイレがないなら、おまるを使えばいいじゃない
鏡に映る自分の顔――いや、杏花という名の少女の顔を、私は恐る恐る指先でつついた。
ぺた、ぺた。
指に吸い付くような潤い。押し返してくる弾力。
それは徹夜明けの乾燥したアラサーの肌では断じてない。まるでつきたての餅か、あるいは高級な水饅頭のような、非現実的なまでの瑞々しさだ。
(夢、だよね……? でも、痛いし、冷たいし、匂いもする……)
頬をつねった痛みは引かず、部屋に漂う甘い白檀の香りは脳の芯まで染み込んでくる。
私が呆然と頬を触り続けていると、背後で控えていた蘭馨が、くすりと上品に笑った。
「姫様、ご自身の美しさを確かめるのもよろしいですが、そろそろお時間を。さあ、おぐしを整えますわね」
彼女は私の手から優しく櫛を取り上げると、私の背後に回った。
柘植だろうか、飴色に艶めく櫛が、私の長い黒髪に滑り込む。
すーっ、すーっ。
絹鳴りの音が耳元で心地よく響く。髪が梳かされるたびに、頭皮がきゅっと引き締まり、椿油のような芳しい香りがふわりと舞い上がった。
蘭馨の手つきは、まるでマジックだった。
ただの長い髪が、彼女の細い指先によって巧みにねじられ、編み込まれ、みるみるうちに芸術的な造形へと変わっていく。
頭頂部で大きく二つに分けられた髪は、見事な「両把頭」へと結い上げられた。そこに、翡翠で作られた蝶の簪や、歩くたびにシャラシャラと涼やかな音を立てる金細工の歩揺が、次々と挿されていく。
「それにしても姫様、本日も本当にお美しい。透き通るような白磁の肌に、烏の濡れ羽色のお髪……これならきっと、皇太后様もお喜びになりましょう」
鏡の中で満足げに微笑む蘭馨。しかし、その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい氷柱が突き刺さった。
(……はい? 今、なんて言った?)
皇太后。
その単語が脳内で反響し、昨夜見ていたドラマの映像がフラッシュバックする。
画面越しに見ていても震え上がるような、あの冷酷無比な老婆。気に入らない側室がいれば濡れ衣を着せて井戸に放り込み、皇帝である息子さえも意のままに操ろうとする、紫禁城の絶対権力者。
いわば、ラスボス。
(皇太后って……あのドラマで一番怖かった、あのおばあちゃん!? 会うの? 私が? 今から!?)
心臓が早鐘を打ち始める。
「喜びになる」わけがない。あのドラマの皇太后は、若くて美しい娘を何より嫌っていたはずだ。
私は心の中で全力でツッコミを入れたが、恐怖で喉が引きつり、声が出ない。
「さあ、お立ちくださいませ」
状況が全く飲み込めないまま、私はされるがままに立ち上がらせられた。
次に待ち受けていたのは、「着替え」という名の苦行だった。
まずは肌触りの良い薄絹の下着。その上に、鮮やかな牡丹の刺繍が施された桃色の長衣。さらにその上から、袖口が広くゆったりとした瑠璃色の羽織……。
一枚重ねるごとに、私の身体はずっしりと重くなっていく。
極めつけは、首元にかけられた真珠のネックレスと、腰帯に吊るされた何種類もの香り袋や玉飾りだ。
(重っ……! なにこれ、鎖帷子!? 肩凝りとかいう次元じゃないんですけど!)
総重量は数キロ、いやもっとあるかもしれない。
現代の軽やかな化学繊維に慣れきった私の身体は、この豪奢な布の塊に押しつぶされそうだった。
さらに、足元には「花盆底」と呼ばれる、厚底の中央に高いヒールがついた特殊な靴を履かされる。竹馬に乗っているような不安定さだ。
一歩踏み出そうとするだけで、足首がプルプルと生まれたての子鹿のように震える。
(待って、これどうやって歩くの? っていうか……)
ふと、現代人ならではの極めて切実、かつ重大な問題が脳裏をよぎった。
(これ、トイレどうするの?)
こんな何層もの布に包まれ、紐でぎちぎちに縛られ、不安定な靴を履いた状態で。
もし急に便意を催したら?
脱ぐのに何分かかる? いや、そもそも自分一人で脱げるのか?
(まさか……おまる……!?)
想像したくない未来図が頭をよぎり、私は顔を青ざめた。
だが、そんな私の卑近な悩みを吹き飛ばすような、雷鳴のごとき声が廊下に響き渡った。
「皇太后様、おなーりー!!」
甲高く、それでいて腹の底に響くような、宦官独特の節回し。
その声が聞こえた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
ザッ、ザッ、ザッ。
それまで穏やかに準備を手伝ってくれていた侍女たちが、まるで蜘蛛の子を散らすように部屋の両脇へと下がり、一斉にその場にひざまずいた。額を床に擦り付け、微動だにしない。
静寂。
聞こえるのは、彼女たちの衣擦れの音だけ。
(え、ちょ、私も? 私もひざまずくの!? っていうか、タイミング悪すぎない!? 心の準備が!)
私はパニックに陥り、棒立ちになったまま入り口を見つめた。
屏風の向こうから、重々しい足音が近づいてくる。
ジャラ……ジャラ……。
硬質な装飾品が触れ合う音と共に、むせ返るような濃厚な麝香の香りが漂ってきた。
そして、現れた。
極彩色の刺繍が施された黄金色の衣をまとい、両脇を二人の女官に支えられながら、その人物はゆっくりと姿を現した。
(う、嘘でしょ……)
呼吸が止まるかと思った。
そこに立っていたのは、昨夜テレビ画面の中で見たあの顔。
能面のように表情を消し、しかしその瞳の奥には底知れぬ冷酷さを宿した、あの大御所女優に瓜二つの老婆だった。
長い指には、鋭く尖った金色の指甲套が嵌められ、まるで猛禽類の爪のように光っている。
彼女――皇太后は、部屋の中央で立ち止まると、ゆっくりと視線を巡らせた。
その視線が、部屋の真ん中で一人突っ立っている私に突き刺さる。
蛇に睨まれた蛙。いや、ティラノサウルスに見つかったハムスター。
私は本能的な恐怖で足がすくみ、膝が笑い出した。
皇太后は私の顔をじろりと舐めるように見ると、手にした白檀の扇子で口元を隠し、低く、しわがれた声でこう言い放った。
「――そなたか。父の謀反の罪で後宮入りしたという、例の姫は」
(……は?)
謀反。
今、とんでもない単語が聞こえた気がする。
ロマンスドラマのヒロイン変身かと思いきや、まさかの「反逆者の娘」設定?
思考が追いつかない私の耳に、皇太后の追撃が突き刺さる。
「ふん。傾国の美貌と聞いておったが……噂ほどでもないな。貧相な顔つきよ」
(……っ!)
カチン、と何かが切れる音がした。
初対面で。
いきなり部屋に押し入ってきて。
犯罪者の娘呼ばわりした挙句、容姿のダメ出し?
(初対面でなんてこと言うのよ、このおばさん! 貧相で悪かったわね! こっちは月曜の朝からあんたの顔見て胃がキリキリしてんのよ!)
私の心の中の「山田花子」が、袖をまくり上げて「なんだとこのアマ……!」と怒号を上げた。
しかし、現実は非情だ。
鏡に映るか弱い美少女・杏花は、恐怖と屈辱で顔を真っ白にし、小刻みに震えているだけだった。
声を出そうとしても、喉が引きつって「あ、う……」と情けない音しか漏れない。
周りの侍女たちが床にめり込む勢いでひれ伏しているのが視界の端に入る。
私も……私も頭を下げなきゃ殺される!
私は慌てて見様見真似で、その場に跪こうとした。
だが、慣れない「花盆底」の靴と、数キロの衣装の重みが災いした。
「あっ」
ぐらり、と身体が大きく傾く。
踏ん張ろうにも足首が固定されて動かない。
私はスローモーションのように、皇太后の足元に向かってつんのめった。
ドサッ!
無様な音を立てて、私は床に手をついた。
それは優雅な礼などではなく、単なる「転倒」だった。
視界の先には、皇太后の履いている、美しい刺繍靴のつま先がある。
シン、と部屋が静まり返る。
侍女たちの息を飲む音が聞こえた気がした。
皇太后が見下ろしている気配がする。
背中に冷や汗が滝のように流れる。処刑? むち打ち? 冷宮送り?
様々なバッドエンドが脳裏を駆け巡る中、頭上から氷点下の声が降ってきた。
「……作法もなっておらぬとは。嘆かわしい」
見下すような、冷ややかな響き。
「今日の観菊の宴で、わたくしに恥をかかせぬよう、せいぜい努めるがよい。……行くぞ」
衣擦れの音が遠ざかっていく。
ジャラ、ジャラ、ジャラ……。
嵐のような威圧感を残し、皇太后と取り巻きたちは去っていった。
「はぁ……っ、はぁ……」
私は床にへたり込んだまま、荒い息を吐いた。
心臓が口から飛び出しそうだ。
怖かった。本当に、殺されるかと思った。
テレビで見るのと、生身で対峙するのとでは、迫力が桁違いだ。あれは人間ではない。妖怪の類だ。
「ひ、姫様! お気を確かに……!」
嵐が過ぎ去るのを待って、蘭馨が駆け寄ってきた。
彼女の手を借りて、私はなんとか立ち上がる。足が生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。
「大丈夫……じゃないかも……」
私は力なく呟いた。
極度の緊張と恐怖。そして、冷たい床に転がった衝撃。
それらが複合的に作用し、私の身体――正確には杏花の身体――は、正直すぎる反応を示し始めていた。
下腹部に感じる、切迫した重み。
そう、生理現象である。
(まずい、トイレ行きたい……!)
さっきまでの恐怖が嘘のように、今は別の焦りが私を支配し始めていた。
現代社会の満員電車や長時間の会議で鍛えられた私の膀胱は、鉄壁の守りを誇っていたはずだ。
しかし、この身体は違う。深窓の令嬢の、繊細で軟弱な膀胱なのだ。
おまけに、緊張のあまり自律神経が暴走しているらしい。
今、このタイミングで?
これから宴に行くのに?
でも、我慢して宴の最中に粗相でもしたら、それこそ打ち首ものだ。リスクは早めに摘んでおくべきだ。
私は脂汗を滲ませながら、蘭馨の袖を掴んだ。
「あの……蘭馨、お手洗いはどちらに?」
小声で尋ねる。
しかし、蘭馨はきょとんとして首を傾げた。
「おて……あらい……にございますか?」
通じない。
そうか、ここは清の時代。「お手洗い」なんて上品ぶった現代語が通じるわけがない。
「トイレット」「W.C.」「化粧室」……どれもダメだろう。
「ええと、その、お花を摘みに……」
とっさに思いついた隠語を使ってみる。
しかし、蘭馨の顔がパァッと明るく輝いた。
「まあ! お花でございますか? さようでございますね、観菊の宴の庭園には、それは見事な菊が咲き誇っておりますわ! 黄色に白、紫と、姫様のお好きな……」
「ち、違うの! そうじゃなくて!」
ダメだ、この天然侍女には私の必死のSOSが届かない!
菊の花なんてどうでもいい。私が今摘みたいのは、もっと切実な、生理的な花なのだ。
冷や汗が背中を伝う。
もう限界が近い。
私は恥も外聞もかなぐり捨て、下腹部を押さえながら、切羽詰まった表情で訴えた。
「も、漏れる……!」
その鬼気迫る形相に、ようやく蘭馨は何事かを察したらしい。
「はっ!」と息を呑み、慌てた様子で手を打った。
「も、申し訳ございません! 姫様、もしや『解手』でございますか? ささ、こちらへ!」
解手。それがこの世界のトイレ用語か。覚えた。一生忘れない。
蘭馨に支えられ、私は部屋の隅にある衝立の裏へと案内された。
そこにあったのは、個室ではなかった。
ただの、部屋の隅だ。
そこに鎮座していたのは、見事な彫刻と漆塗りが施された、蓋付きの木箱。
一見すると高価な骨董品のようだが、その形状、そして漂う微かなお香の匂い(消臭用だろう)から、その用途は明らかだった。
これは、紛れもなく「おまる」だ。
中国宮廷ドラマで見たことがある。「恭桶」と呼ばれる、移動式の便器だ。
「さあ姫様、わたくしがお召し物を……」
蘭馨が甲斐甲斐しく私の帯に手をかけようとする。
私はビクッと身をすくませ、全力で彼女の手を制止した。
「だ、大丈夫! 一人でできるわ!」
「まあ、そのような。これほど重い衣装でございますよ? それに、姫様のお世話をさせていただくのが、わたくしの務めにございます」
蘭馨は不思議そうに、しかし断固として手伝おうとする。
彼女にとっては日常なのだろう。主人が用を足すのを手伝い、その排泄物を処理し、お尻を拭くことさえも、忠義の証なのだから。
だが、私の中の山田花子が絶叫した。
(いや無理無理無理! 人が見てる前でなんて、絶対無理だから!)
(二十八歳OL、他人にお◯を拭かせるなんて……そんな……!)
プライバシーという概念が存在しない世界線に、私は絶望した。
現代日本の、温かい暖房便座。
ボタン一つでお尻を洗ってくれるウォシュレット。
音を消してくれる乙姫機能。
そして何より、誰の目も気にせず一人になれる、あの完璧な「個室」という聖域。
ああ、日本のトイレよ。
あなたはなんて偉大な文明の利器だったのか。TOTOよ、LIXILよ、なんてあなたがたは素晴らしかったの! おお、心の友よ!!
「お、お願い、蘭馨……!」
私は半泣きになりながら、彼女の両手を握りしめた。
この美少女の顔で、瞳を潤ませて懇願すれば、たいていの無理は通るはずだ。
「どうしても……どうしても一人にしてほしいの。急に故郷のことが思い出されて、ちょっと一人になりたいの……ね? お願い」
上目遣い。涙目。震える声。
私の必死の演技(半分本気)に、蘭馨は戸惑いながらも、最後には根負けしたようにため息をついた。
「……承知いたしました。姫様がそこまで仰るのであれば」
彼女は渋々といった様子で手を引いた。
「では、わたくしはこの衝立の向こうにおりますゆえ。何かあればすぐにお声がけくださいませ」
「ありがとう、蘭馨! 絶対入ってきちゃダメよ! 絶対よ!」
まるで「鶴の恩返し」の鶴のような念押しをして、私は彼女を衝立の向こうへと追いやった。
静寂が戻る。
目の前には、豪華な漆塗りの「おまる」。
私は重い衣装をたくし上げ、不安定な靴でバランスを取りながら、その箱の上にまたがった。
太ももに触れる木の感触はひやりとしていて、プラスチックの便座の温もりが恋しくてたまらなくなる。
(……情けない)
美しい山水画の屏風に囲まれ、国宝級の衣装をまといながら、木箱にまたがる私。
イケメン皇帝とのロマンス? 宮廷での出世争い?
そんな華やかな舞台の裏側で、私は今、自らの尊厳と戦っている。
衝立の向こうからは、蘭馨の衣擦れの音が聞こえる。壁一枚隔てただけの距離に人がいる緊張感。
音を立てないように、慎重に、慎重に……。
(もしチート能力というものがあるなら……一つだけ欲しいものが……)
私は心の中で深く願う。
(今すぐこの部屋に、水洗トイレと鍵付きのドアを設置してください……!)
私の切実な願いはどこにも届くことなく、ただ「チョロ……」という、わびしい水音だけが、静寂な宮廷の部屋に小さく響いたのだった。




