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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
女官奉公編
19/21

ルンバのように歩き、人形のように笑う

景陽宮の片隅にある、窓のない狭い使用人部屋。

そこは今、紫禁城で最も過酷な訓練施設と化していた。

壁に吊るされた蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れる。

その薄暗がりの中で、私の目の前に立ちはだかるのは、昨日までの控えめで気弱な侍女・蘭馨らんけいではない。

竹の物差しを手に持ち、仁王立ちする「鬼軍曹」その人だった。

「いいですか、姫様。今日からの七日間、貴女様の人権はありません。貴女様は『杏花姫』という人間ではなく、華妃様の影となり、手足となる『機能』そのものになるのです」

「き、機能……?」

「はい。それでは、第一の教えから参ります」

蘭馨が黒板(の代わりに壁に貼った紙)をビシッ! と叩いた。

【第一の教え:感情の去勢】

「まずは挨拶です。部屋に入り、華妃様にお声をかける時のことを想定してください。はい、どうぞ!」

私は姿勢を正し、OL時代に培った、居酒屋の店員顔負けのハキハキとした声を出した。

「はいっ! おはようございます、華妃様! 今日もいいお天気ですね! お肌の調子も最高です!」

元気いっぱい。滑舌明瞭。

現代の新人研修なら「素晴らしい、元気があってよろしい」と褒められるところだ。

しかし。

「――おやめください!!」

蘭馨の雷のような怒号が飛んだ。

竹の物差しが床を叩き、私はビクッと飛び上がった。

「ひ、姫様! 声が大きすぎます! 耳が痛いほどです!」

「えっ、でも……元気にハキハキと挨拶するのがマナーじゃ……」

「なりません! ここは軍隊でも居酒屋でもございません。後宮において、大声など言語道断。下品極まりない行為です!」

蘭馨は私の顔にグイッと顔を近づけた。その目は血走っている。

「良いですか。高貴な方にとって、下々の者の『元気』などノイズでしかありません。必要なのは『安らぎ』と『恭順』のみ。声のトーンは常に一定。春風が柳を揺らすような、柔らかく、耳に心地よい音量でなければなりません」

「春風……柳……?」

「そして、表情!」

蘭馨の指が、私の顔面に伸びてきた。

親指と人差指で私の頬の肉をムギュッと摘み上げ、強制的に口角を引き上げる。

「痛い痛い痛い!」

「我慢してください! いかなる時も、口角はこの角度! 目は三日月のように細め、歯は見せずに微笑むのです。これを『含笑がんしょう』と言います。華妃様に罵倒されても、無理難題を言われても、この顔を崩してはなりません!」

「無理よ! 罵倒されたら顔くらい引きつるわよ!」

「引きつれば、その瞬間に『不満があるのか』と問われ、頬を打たれます。……そして、最も重要なこと」

蘭馨の声が、一段低くなった。

「たとえ理不尽な罰を受けても、鞭で打たれても、絶対に泣いてはなりません」

「えっ……?」

私は耳を疑った。

「いやいや、痛かったら泣くでしょ普通。反射的に涙出るし。だってドラマとかでよくあるじゃない、『お許しください~!』って泣き叫んでるシーン!」

「どらま? ……とは何か存じ上げませぬが、京劇などでは確かに泣き叫ぶ場面がございます。しかし、現実は違います」

蘭馨は真顔で、恐ろしい事実を告げた。

「高貴な方の前で泣き叫べば、『騒々しい』『見苦しい』、そして何より『自分の非を認めず、感情的になっている=反省していない』とみなされ、罪が重くなります。どんなに痛くても、心を殺し、涙をこらえ、冷静に『はい、かしこまりました。ご指導ありがとうございます』と応じなければならないのです」

「……ブラック企業すぎない?」

「いいえ、それ以上です。ここでは『感情』を持つこと自体が罪なのです」

私はスマホのインカメラを見た。

そこには、頬を赤くし、引きつった笑顔を張り付けた、哀れなピエロが映っていた。

これから毎日、この仮面を被り続けるのか。

私の表情筋は、一週間持つのだろうか。

【第二の教え:ルンバ歩行】

「次は歩き方です。お茶を運ぶ動作を想定してください」

蘭馨は、なみなみと水の入った茶碗を、お盆に乗せて私に渡した。

「この水を一滴もこぼさず、あそこの壁まで歩いてください。背筋を伸ばし、上半身を微塵も揺らさずに」

「わかったわ。任せて」

私はお盆を受け取ると、スタスタと大股で歩き出した。

現代社会では「時は金なり」。移動時間は短縮するのが正義だ。

「止まって!!」

またしても蘭馨の悲鳴が上がった。

「なんという……なんという野蛮な歩き方ですか! 大股は厳禁です! 着物の裾がバサバサと暴れて、まるで荒馬が走っているようです!」

「荒馬って……」

「宮女の歩みとは、雲の上を滑る天女のごとくあるべきです。歩幅は足の半分程度。膝を曲げず、腰から下だけを滑らかに動かし、床を滑るように進むのです」

蘭馨がお手本を見せる。

彼女の上半身は、まるで固定されたかのように動かない。しかし、足元だけが細かく動き、音もなく移動していく。

衣擦れの音が、「シャ……シャ……シャ……」と、微かに、規則正しく響く。

「……すご。ルンバみたい」

「ルンバ? ……とにかく、衣擦れの音が『シャシャシャシャ』と鳴るように歩くのです! 足音を立ててはいけません。主人の背後に、気配なく忍び寄れるようでなければなりません」

「シャシャシャシャ……って、それじゃ忍者じゃない」

「そうです! 私たちは後宮の陽炎(かげろう)になるのです! 存在感を消し、必要な時だけ実体化する。それが一流の女官です!」

私は言われた通りにやってみた。

小股で、すり足で、上半身を固定して……。

「うっ、太ももが……!」

「背中が曲がっています! 視線は常に斜め下45度!」

地味に見えて、これは凄まじい筋トレだった。

体幹と下半身の筋肉が悲鳴を上げる。

水面のように静かに歩くことが、これほど難しいとは。

私の「ルンバへの道」は険しかった。

そして、講義は最も恐ろしいフェーズへと移行した。

夕刻。粗末な食事が運ばれてきた時のことだ。

【第三の教え:生理現象=死】

お盆に乗っていたのは、白湯のような薄いお粥と、塩茹でしただけの青菜、そして豆腐が一切れだけ。

「……え、これだけ? 今日の夕飯」

私は絶句した。

冷宮で食べた鶏肉(景皇子のスパチャ)の方が、よほど豪華だった。

賄いが楽しみで、この激務に耐えようと思っていたのに。

「姫様、これからは満腹になるまで食べてはなりません。腹六分目……いえ、四分目が理想です」

「えーっ! なんでよ! 体力勝負なんでしょ? しっかり食べないと倒れちゃうわよ!」

私が抗議すると、蘭馨は冷ややかな目で私を見下ろした。

「お腹がいっぱいになると、何が出ますか?」

「何って……元気? やる気?」

「いいえ。『ゲップ』です」

蘭馨は、この世の終わりのような単語を口にした。

「……は?」

「高貴な方の前で、特に至近距離でお世話をする際に、ゲップをすることは万死に値します。もし、お化粧直しの最中に、あるいは皇帝陛下にお茶を出す瞬間に、『ゲフッ』とやってしまったら……」

蘭馨は首の前で手刀を横に引いた。

「即刻、処刑もあり得ます」

「……うそ、でしょ?」

私は箸を取り落としそうになった。

ゲップで? 死刑?

そんな馬鹿な。生理現象よ?

「嘘ではありません。過去には、皇帝陛下の御前で緊張のあまりゲップをしてしまい、不敬罪で首を刎ねられた宦官が大勢いました。あくび、くしゃみも同様です。しゃっくりなど出そうものなら、息を止めて死ぬ気で止めなければなりません」

蘭馨の目は真剣そのものだった。

冗談ではない。ここは、現代の人権意識など通用しない世界なのだ。

「すっごいなー……」

私は乾いた笑いしか出なかった。

ブラック企業でも、会議中のくしゃみでクビにはならない。せいぜい白い目で見られるくらいだ。

ここはブラック企業ではない。「デス・カンパニー(死の会社)」だ。

ふと、素朴な疑問が湧いた。

「……じゃあ、おならは?」

その質問をした瞬間。

蘭馨の顔から表情が消えた。

彼女は、まるで深淵を覗き込むような、虚無と殺気が入り混じった凄まじい眼光で私を睨みつけた。

「…………姫様」

低い声。

「言わなくても、お分かりですね?」

「は、はい……」

「もし、華妃様の後ろで『それ』をしたら……処刑よりもっと恐ろしい、生き地獄が待っていると思ってください。慎刑司しんけいしで、死ぬまで笑い者にされながら拷問を受けることになるでしょう」

私は戦慄した。

おなら一発で人生終了。それがこの世界のルール。

便意やガスは、ここでは爆発物処理班のような慎重さで扱わなければならないのだ。

「そのため、(ガス)が発生しやすい芋類、匂いの強いネギやニラ、肉類は極力避けます。基本的には消化の良い薄味の野菜や海藻類、そしてお粥のみを摂取します」

蘭馨は淡々と説明を続ける。

「また、体臭や口臭も罪です。毎日、体を清め、衣服に香を焚き染めるのは当然。ニンニク料理など論外です。……さあ、食べてください。生きるために」

私は目の前の、色のないお粥を見つめた。

これは食事ではない。生存のための燃料補給だ。

そして、絶対に「出してはいけない」ものを出さないための、予防措置なのだ。

「いただきます……」

味のしないお粥を啜る。

空腹は満たされない。けれど、満たされてはいけないのだ。

(帰りたい……。ポテチ食べて、コーラ飲んで、盛大にゲップして、おならして笑ってたあの部屋に帰りたい……!)

現代の自由がいかに尊いものだったか。

生理現象を許容してくれる社会が、いかに素晴らしいものだったか。

私は涙をこらえながら(泣いたら罪だから)、静かに、音を立てずに、虫のように食事を続けた。

こうして、地獄の一週間が始まった。

私の人間としての尊厳は、後宮という巨大なシステムの前で、薄皮一枚ずつ剥がされていくのだった。


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