死に至る作法
「杏花。明日からすぐに私の側で働きなさい。私の『真実の美』を記録するには、片時も離れずそばにいる必要があるわ」
景陽宮へ移動した初日。
甘く濃厚な百合の香りが漂う寝殿で、華妃は豪奢な長椅子に身を預け、うっとりとした表情でスマートフォンを見つめていた。
画面の中で微笑むのは、AIフィルターと私の職人芸によって極限まで加工された「奇跡の華妃」だ。彼女はその電子の虚像を、まるで愛しい我が子か、あるいは推しのように指先でなぞっている。
現実の鏡など、もう部屋のどこにもない。すべて撤去され、砕き割られた。
今の彼女にとっての世界は、この小さな発光する板の中だけに存在するのだ。
「私の肌のツヤ、瞳の輝き……。一秒たりとも逃してはなりませんよ。朝の目覚めから、夜の寝物語まで。お前は私の『美』の専属記録係なのだから」
華妃の言葉は、絶対的な勅命だった。
そこには拒否権など存在しない。彼女の機嫌を損ねれば、このスマホごと私は「役立たず」として処分される。私の命綱は、彼女の承認欲求という細い糸一本で繋がっているのだ。
「は、はい! 喜んで! 全身全霊をかけて、華妃様の美しさを後世に残す所存でございます!」
私は背筋を伸ばし、元気よく答えた。
これぞ、現代日本社会の荒波で培った社畜根性。
理不尽な上司の命令にも、反射的に「イエス」と答えてしまう悲しき条件反射だ。心の中では「24時間労働とか労基署案件だろ」とツッコミを入れつつも、顔には満面の営業スマイルを貼り付ける。
しかしその時、私の隣に控えていた蘭馨が、青ざめた顔でバッと進み出た。
「華妃様、お言葉ですが……!」
彼女は床に額を打ち付ける勢いでひれ伏した。その小さな背中が、小刻みに震えているのがわかる。
「それは……あまりに危険でございます!」
「危険?」
華妃がスマホから目を離し、不機嫌そうに眉をひそめる。その視線だけで、部屋の温度が数度下がったような冷気が走る。
「はい! 姫様は……いえ、杏花はこれまで、れっきとした皇族、姫君として育てられました。箸の上げ下ろしから歩き方まで、すべては『仕えられる側』の作法でございます」
蘭馨の声は震えていたが、必死だった。
「下女としての作法、立ち居振る舞い、言葉遣い……杏花は何一つご存じありません。そのような状態で、宮中の礼儀作法に最も厳しいとされる華妃様の優雅な宮殿に入れば、どうなるか……。即座に粗相をし、茶をこぼし、裾を踏み、あまつさえ華妃様の顔に泥を塗ることになりかねません!」
蘭馨の指摘はもっともだった。
私は「杏花姫」としての記憶(と、現代人としての常識)はあるが、「清朝の後宮女官」としてのスキルはゼロだ。
お茶の淹れ方一つ、扉の開け方一つとっても、ここには厳格なルールが存在する。もし私が華妃のドレスに茶をぶちまけたり、皇帝陛下の御前で失礼な態度を取ったりすれば、それは単なる「ドジ」では済まされない。「華妃の管理不行き届き」となり、華妃自身のメンツを潰すことになるのだ。
ナルシストでプライドの高い華妃が、それを許すはずがない。
私のミスは、即ち「死」だ。
「あら、そう?」
華妃は興味なさそうに爪を眺めた。
「使えないなら、使えるようにすればいいだけのことでしょう? じゃあ蘭馨、貴女が教え込みなさい。貴女は元々、優秀な女官だったのでしょう? 明日までに完璧に仕上げなさい」
「あ、明日!?」
蘭馨が絶句し、顔を上げた。
「いえ、それはさすがに……! 宮女の作法は、幼き頃より数年をかけて叩き込まれるもの。それを一晩でなど、到底不可能です!」
「……できないの?」
華妃が冷ややかに目を細める。
その瞳の奥には、「無能な道具はいらない」という冷酷な光が宿っていた。
部屋の空気が張り詰める。衛兵たちが、無言で腰の剣に手をかける気配がした。
(まずい……!)
蘭馨が殺されるかもしれない。
私が助け船を出そうとした瞬間、蘭馨はガタガタと震えながら、決死の覚悟で再び頭を床に擦り付けた。
「い、一週間! 一週間だけ猶予をくださいませ!」
床板に額を押し付けたまま、蘭馨が叫ぶように言った。
「その間に、わたくしの命に代えても、杏花を立派な宮女に仕立て上げます! 決して華妃様に恥をかかせることのない、完璧な下女にしてみせます! ですから……どうか、ご慈悲を!」
静寂が支配する。
私の心臓の音が、鼓膜に響くほど大きく聞こえる。
華妃は再びスマホに視線を戻し、指先で画面をスクロールさせた。彼女の興味は、すでに私たちの生死よりも、自分の画像の「いいね」の数に移っているようだった。
「……ふん。まあいいわ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「一週間待ってあげる。私の新しいドレスが仕立て上がるのがちょうどその頃だからね。……その代わり」
彼女の視線が、鋭い刃物のように私たちを貫いた。
「もし一週間後に少しでも粗相があれば、二人まとめて後宮から放り出すからそのつもりでね。……ああ、放り出すと言っても、門の外ではないわよ? 『井戸の中』か、『虎の檻』の中へ、という意味だから」
◇
景陽宮の片隅。
かつては物置として使われていたであろう、狭く薄暗い一室が、私たちに与えられた部屋だった。
冷宮の廃墟よりはマシだが、窓は小さく、華やかな表御殿とは似ても似つかぬ、カビと古紙の匂いがする空間だ。
バタン。
蘭馨は重い扉を閉めるなり、糸が切れた操り人形のように、その場にへなへなと座り込んだ。
額には脂汗が浮かび、顔色は蝋人形のように白い。
「はぁ……はぁ……」
「蘭馨! 大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄り、彼女の背中をさすった。彼女の着物は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「どうしよう……一週間だなんて……口走ってしまったけれど……」
蘭馨は震える手で顔を覆った。
「姫様……いえ、杏花にあれだけの作法を、たった七日で……。通常なら三年かかる過程です。それを……もし失敗すれば、華妃様は本気で私たちを……」
彼女の恐怖は痛いほど伝わってきた。
華妃のあの目は、冗談や脅しで言っている目ではなかった。彼女にとって使用人の命など、使い捨てのカイロよりも軽いのだ。
しかし。
私は山田花子だ。
日本の就職氷河期を生き抜き、ブラック企業で幾多の修羅場を潜り抜けてきた、雑草心の持ち主だ。
「大丈夫よ、蘭馨! 顔を上げて!」
私は彼女の両肩を掴み、力強く言った。
「私、これでも前の世界では『適応力の鬼』って呼ばれてたんだから(自称)! 入社三日目で電話対応をマスターし、一週間で先輩のお局様のコーヒーの好みを完璧に把握した伝説の新人よ! OL時代の新人研修やマナー講座に比べれば、お茶の子さいさいよ!」
私はニッと笑い、ガッツポーズを作ってみせた。
お茶の出し方? 掃除の仕方?
基本は「気配り」だ。相手が何を求めているかを察知し、先回りして行動する。それは現代のビジネススキルと変わらないはずだ。
「だから安心して。私、意外と器用なんだから!」
そう言って楽観的に笑う私を、蘭馨は瞬きもせずに見つめていた。
その瞳には、私の期待したような安堵の色はなかった。
代わりにそこに宿っていたのは、かつてないほど真剣で、そしてどこか悲壮な光だった。
「……姫様」
蘭馨が静かに、しかし冷徹な声で私を呼んだ。
「甘いです」
「え?」
「貴女様は、まだ何もわかっておられません」
蘭馨はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
いつも私の後ろを付いてくる、控えめで気弱な侍女の姿はそこになかった。
そこにいたのは、死地を生き抜いてきた「プロフェッショナル」の顔をした女性だった。
「『お姫様』として後宮にいるのと、『女官』としてここにいるのでは、天と地ほどの差があるのです。現代の会社? お局様? ……そんな生易しい場所と一緒にしないでください」
彼女は私に一歩詰め寄った。その迫力に、私は思わず後ずさりする。
「会社では、失敗すれば始末書で済むかもしれません。上司に怒鳴られるだけかもしれません。ですが、ここは紫禁城の後宮です。皇帝陛下の庭なのです」
蘭馨の声が低く、重く、狭い部屋に響く。
「姫様なら許された些細なミス……例えば、茶器を置く音が少し大きかった、廊下ですれ違う際の一礼の角度が浅かった、華妃様の影を踏んでしまった……。女官なら、それら一つ一つが即、『死』に繋がります」
「し、死……?」
「はい。打ち首、手討ち、あるいは舌を抜かれるか。運が良くても『慎刑司』送りで、一生立てない体にされるかです」
私の背筋に、冷たいものが走った。
大袈裟だと思いたい。けれど、蘭馨の目は真剣そのものだった。
彼女は、実際にそういう光景を何度も見てきたのだ。
「私の先輩女官が、かつて遠い目でこう言いました。『宮女は生きることに疲れる』と……」
蘭馨は遠くを見るように目を細めた。
「息をするのも、瞬きをするのも、すべてが計算された『作法』でなければならない。主人が『白』と言えば、黒いカラスも白鳥となる。自分の意志を殺し、感情を殺し、ただ主人の手足となって動く人形になる……。一瞬でも気を抜けば、足元の床板が外れて奈落へ落ちる。それが、ここでの『勤務』なのです」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
甘かった。
私はまだ、どこかで「転生モノの主人公だからなんとかなる」と思っていたのかもしれない。
「スマホがあるから大丈夫」だと過信していた。
だが、スマホがあろうとなかろうと、首を物理的に刎ねられたら終わりなのだ。
蘭馨は私の目を真っ直ぐに見据えた。
そこには、主君を守るためなら鬼にもなるという、凄まじい覚悟があった。
「その意味を、今から骨の髄まで叩き込みます。甘えは一切許しません。私が鞭を持ってでも、貴女様を完璧な侍女にしてみせます。……よろしいですね?」
その瞬間、私の中でスイッチが切り替わった。
OL時代の「なんとかなる精神」は捨てよう。
ここからは、命懸けのサバイバルだ。
「……わかったわ」
私は姿勢を正し、蘭馨に向かって深く頭を下げた。これは、姫としての礼ではない。教えを乞う者としての礼だ。
「お願いします、蘭馨先生。私を、死なない女官にしてください」
蘭馨は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満足そうに頷いた。
そして、部屋の隅にあった箒を手に取ると、床にパンッ! と音を立てて叩きつけた。
「それでは! まずは『歩き方』からです! 音を立てず、裾を揺らさず、水の上を滑るように! 一歩でも足音が聞こえたら、今夜の食事は抜きです!」
「は、はいッ!」
狭く薄暗い使用人部屋。
窓の外では、不穏な風が木々を揺らしている。
私たちの命運を賭けた一週間。
ここから、地獄の新人研修が幕を開けた。




