鏡よ鏡、世界で一番美しいのは『加工後の私』
「こ……これが、私……?」
時が止まったような静寂の中、華妃の震える声だけが、景陽宮の広い謁見の間に響いた。
彼女は、私が捧げ持ったスマートフォンの画面を、まるで聖遺物でも拝むかのように凝視している。
その瞳孔は開き、呼吸は浅く、早くなっていた。
画面の中に映し出されているのは、最新のAI技術と私の指先による巧みな補正作業によって生み出された、「奇跡の一枚」だ。
アプリの設定は『究極・美女盛り盛りモード』。
くすんだ肌は陶磁器のように白く発光し、加齢による瞼のたるみは消滅して瞳は少女のように大きく煌めき、フェイスラインは彫刻刀で削ぎ落としたかのようにシャープになっている。
さらに、背景には『ゴージャス・キラキラエフェクト』が舞い、後光が差している。
それは、華妃であって、華妃ではない。
しかし、彼女自身の脳内にある「理想の自分」と、この画像が完全に合致した瞬間だった。
「はい! 華妃様。肉眼では見えぬ内側から溢れ出る絶美! 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花!! 華妃様が本来持っておられる心の輝きが、この『科技の鏡』によって可視化されたのです!」
私は畳み掛けた。
これはセールスだ。
商品を売るのではない。「命」を買うための、人生最大のプレゼンテーションだ。
相手の虚栄心を刺激し、論理ではなく感情に訴えかける。
「肉眼などという不完全なレンズでは、貴女様の圧倒的な美しさを捉えきれません。しかし、この鏡は嘘をつきません。これこそが、天が定めた貴女様の『真実の姿』なのです!」
「真実の……姿……」
華妃の手が、恐る恐る画面へと伸びる。
長い付け爪が、カチリとガラス面に触れた。
彼女は画面の中の「自分」に魅入られ、うっとりとした、夢見る少女のような表情を浮かべた。
その目には、もはや周囲の風景も、私たちも映っていない。ただ、理想化された虚像だけが、彼女の世界の全てになっていた。
「そう……そうよね。やっぱり、そうだったのね……」
彼女は熱に浮かされたように呟く。
「私は、本当はこんなに美しかったのね……。最近、鏡を見るたびに『なんだか疲れて見える』とか『肌が衰えた』なんて感じていたけれど、それは私の目が曇っていたから……? いえ、この世の鏡がすべて粗悪品だったからなのね?」
「その通りでございます! この世の鏡は、光を正しく反射できぬ鈍らばかり。貴女様の輝きを濁らせて映していたに過ぎません!」
私が力強く肯定すると、華妃は深く頷いた。
彼女の中で、認知の歪みが完成した瞬間だった。
彼女はもう、現実の鏡に映る自分を「真実」とは認めないだろう。このスマホの中の、加工された電子データこそが、彼女にとっての唯一のリアリティとなったのだ。
その瞬間。
華妃の表情が一変した。
うっとりとした陶酔から、烈火のような怒りへ。
それは、マグマが噴出するような、激しく爆発的な感情の転換だった。
バシッ!!
乾いた音が広間に轟いた。
華妃は、手に持っていた孔雀の羽の扇子を、激情のままに床に叩きつけたのだ。
美しい羽が散らばり、扇子の骨が悲鳴を上げて折れる。
「おのれ……おのれぇぇぇ!! よくも今まで、私を騙していたわね!!」
彼女の絶叫が、高い天井に反響する。
姚明が眉をひそめ、衛兵たちが狼狽する中、華妃は立ち上がり、周囲を睨みつけた。
その怒りの矛先は、私ではない。
部屋の壁に飾られた数々の肖像画、そして部屋の隅に控えていたお抱えの絵師たちに向けられたものだった。
「見なさい、この絵を! この醜悪な落書きを!」
華妃は指を突きつけ、金切り声を上げた。
「シワだらけで! 目が小さくて! 肌も土色にくすんでる! お前たちは……お前たちは、私をこんな『醜い姿』で描いて、陰で嘲笑っていたのね!? 私が自分の衰えを気にしているのを知っていて、わざと醜く描いて、私を辱めていたのね!?」
雷に打たれたように、絵師たちが平伏する。
彼らは宮廷でも選りすぐりの名匠たちだ。彼らはただ、誠実に、見たままの華妃の姿を、高い技術で写実的に描いただけだった。
しかし、その「誠実さ」こそが、今の華妃にとっては最大の「不敬」となっていた。
「か、華妃様!? 滅相もございません! 私たちはただ、華妃様のありのままのお姿を、誠心誠意……」
「黙れ! 『ありのまま』だと!?」
華妃が地団駄を踏む。
「私の『ありのまま』は、私の『真実の姿』は、この鏡に映っているこの姿なのよ! この透き通る肌、星のような瞳、これこそが私なの! 見たまま描いてこれなら、お前たちの目は節穴か!! 腐っているのか!!」
華妃の理屈は完全に破綻している。
客観的に見れば、狂っているのは華妃の方だ。
だが、加工アプリという名の「電子ドラッグ」をキメてしまったナルシストにとって、現実こそがバグであり、修正されるべきエラーなのだ。
彼女の脳内ではすでに歴史修正が行われている。『私は昔からこうだった。周りが無能なせいで、醜く見えていただけだ』と。
広間はパニックに包まれた。
絵師たちは震え上がり、額を床に擦り付けて命乞いをする。
「お許しを、お許しを!」
しかし、華妃の怒りの炎は燃え広がるばかりだ。
そして、その火の粉は、あろうことか、最も安全圏にいると思われていた人物――太監・姚明にも降り注いだ。
「姚明! お前もよ!」
「……は?」
いつもは能面のように表情を崩さない、冷徹な姚明が、この時ばかりは素っ頓狂な声を上げて、ポカンと口を開けた。
彼の計算機のような脳内でも、この展開は予測不能のエラーだったに違いない。
華妃は、美しいが故に恐ろしい形相で、姚明に詰め寄った。
「何が『は?』よ! お前はずっと私の側に仕えていたわね? 毎日私の顔を見ていたわね? それなのに、一度でも言ったか? 『華妃様、あの肖像画は実物より劣っています』と! 『鏡が曇っております』と!」
「い、いえ、それは……」
「何も言わなかったということは、お前も私を『絵のような醜女』だと思っていたということでしょう! 心の中で、『華妃も老いたな』と笑っていたのでしょう!?」
「滅相もございません。私は……華妃様はそのままでも十分に美しく、威厳があると……」
姚明は必死に論理的な弁明を試みた。
しかし、今の華妃に「そのままでも美しい」という言葉は褒め言葉ではない。「加工前の姿を肯定する=真実の美(加工後)を否定する」という、最悪の地雷なのだ。
「言い訳無用! 私は失望したわ、姚明。お前を私の目とし、耳として重用してきたけれど、まさかこれほど『見る目』がないとはね!」
華妃の言葉は、姚明のプライドを粉々に打ち砕いた。
後宮の影の支配者、美しき策士。そう呼ばれた彼が、たった一枚の「盛りすぎた自撮り写真」によって、「無能」の烙印を押されたのだ。
「私の『真実の美』に気づけない、審美眼の狂った側近など、必要ない!!」
華妃は扇子の残骸を投げ捨て、ヒステリックに叫んだ。
その声は、景陽宮の空気をビリビリと震わせた。
「絵師は全員解雇! 二度と筆を持てぬよう、手首をへし折ってから追放なさい! 部屋にある鏡も全部割り捨てて! 偽りの姿など見たくもないわ!」
「ひっ……!」
絵師たちの絶望的な悲鳴が上がる。
「そして姚明! お前は降格よ! 私の視界に入らない場所で、一からやり直しなさい! そうね……便所掃除がお似合いよ! 汚物を磨きながら、その曇った眼球も磨き直してきなさい!!」
「な……!?」
あの冷静沈着な姚明が、顔を歪めて絶句している。
その白い頬が、屈辱で赤く染まり、やがて青ざめていく。
彼は私たちが持ち込んだスマホを「邪教の道具」として利用し、私たちを陥れる完璧なシナリオを描いていたはずだ。
それが、まさかこんな、論理もへったくれもない「乙女心の暴走」によって粉砕され、あろうことか自分が粛清されるなんて。
彼が私に向けた視線には、殺意以上の、困惑と恐怖が混じっていた。
『お前は、一体何をしたんだ』と、その目が語っていた。
「さあ、とっととお行き! 今すぐよ! 私の『美』を汚すものたち、全員消え失せろ!!」
華妃の絶叫が、最終宣告として響き渡る。
衛兵たちが慌てて動き出す。彼らもまた、次は我が身かと恐怖に怯えながら、泣き叫ぶ絵師たちを引きずっていく。
そして姚明は、震える拳を握りしめ、唇を血が出るほど噛み締めながら、深く一礼した。
「……御意」
絞り出すような声。
彼は憎悪のこもった目で私を一瞬だけ睨みつけると、衣を翻して退出していった。
その背中は、来た時の冷徹な威厳など見る影もなく、理不尽の嵐に吹き飛ばされた敗残者のそれだった。
嵐のようなリストラ劇が過ぎ去った後。
静まり返った広間には、荒い息をつく華妃と、事の成り行きに呆然とする私と麗華姫、そして腰を抜かした蘭馨だけが残された。
華妃は、乱れた呼吸を整えると、再びスマホの画面に視線を落とした。
その表情は、先ほどの鬼女のような形相が嘘のように、蕩けるような恍惚に満ちていた。
「ああ……美しい……。これこそが、私……」
彼女はスマホを頬ずりせんばかりの勢いで抱きしめている。
私は、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……華妃様。私の嫌疑は……」
「嫌疑? ああ、邪教の道具とかいう話?」
華妃はどうでも良さそうに手を振った。
「姚明の早とちりでしょう。こんなに素晴らしい『真実の鏡』を邪教の道具だなんて。あいつは本当に目が腐っていたのね。……杏花、貴女の罪は不問に付すわ」
「あ、ありがとうございます……!」
「その代わり」
華妃は、獲物を逃がさない猛禽類のような目で私を見た。
「この鏡、私に献上しなさい。毎日これを見ないと、精神が安定しないわ。一日に三度はこの姿を確認しないと、自分が誰かわからなくなりそうなの」
「は、はい……喜んで献上いたします……」
私は深々と頭を下げた。
断れるはずがない。それに、これで命が助かるなら安いものだ。
(でもこれ……充電切れたらどうするんだろ)
心の中で、巨大な懸念が頭をもたげる。
私、スマホがなければどうしたらいいの!!
このスマホのバッテリーは今のところ減らない謎仕様だが、もし万が一、電源が落ちたら?
あるいは、華妃がふと現実の鏡を見てしまったら?
その時、彼女を襲う「現実」という名の禁断症状は、今回以上の惨劇を引き起こすかもしれない。
(それは、今は考えないでおこう。逃げるが勝ちだ)
私は冷や汗を拭いながら、隣で震えている麗華姫の手を強く握った。
麗華姫も、信じられないものを見たという顔で、コクコクと頷いた。
勝った。
現代の「加工技術」が、後宮の冷徹な「合理主義」に完全勝利した瞬間だった。
だがそれは、パンドラの箱を開けた勝利でもあった。
華妃という怪物を、さらに手のつけられない「自己愛の化け物」へと変化させてしまったのだから。
「失礼いたします!」
私たちは逃げるようにして、景陽宮を後にしたのだった。




