盛るべきか、死ぬべきか
「はい! この世の鏡は曇っており、人の真の美しさを映し出すことができません。ですが、この鏡だけは、真の輝きを含めた『本来あるべき姿』を映せるのです!」
私の声が、秋晴れの乾いた空気に響き渡った。
それは、崖っぷちに立たされた者が放つ、渾身のハッタリだった。
目の前には、後宮の闇を統べる太監・姚明。
彼の背後には、抜き身の刀を携えた屈強な衛兵たち。
そして隣には、恐怖で顔面蒼白になりながらも、私の袖を震える手で掴んでいる麗華姫と、腰を抜かしかけている侍女の蘭馨。
絶体絶命の包囲網の中で、私は震える膝を必死に抑え込み、手にしたスマートフォン――彼らが「邪教の道具」と呼ぶ黒い板を高々と掲げ続けていた。
姚明は、その彫刻のように整った顔に、侮蔑の色を隠そうともしなかった。
彼のガラス玉のような瞳が、私を射抜く。それは人間を見る目ではない。路傍の石ころか、あるいは踏み潰すべき害虫を見る目だ。
「……本来あるべき姿、ですか」
姚明は鼻で笑った。その冷ややかな吐息だけで、周囲の気温が数度下がったような錯覚に陥る。
「戯言を。妖術を使って人の目を惑わし、陛下に仇なそうとするその邪悪な意図、見透かせぬとでも――」
「戯言ではありませんッ!!」
言いかけた彼を、私は腹の底からの大声で遮った。
心臓が口から飛び出しそうだった。太監相手に怒鳴るなど、不敬罪で即座に首を刎ねられても文句は言えない。
だが、ここで引けば終わりだ。私だけではない。麗華も、蘭馨も、全員が「邪教の共犯者」として闇に葬られる。
かつて営業職として鳴らした山田花子の交渉術。その全てを、今ここに叩きつけるしかない。
「信じられないなら、華妃様の前で証明させてください! この後宮で最も美しく、最も審美眼に優れた華妃様ほどの美貌の持ち主なら、この鏡はきっと、奇跡のようなお姿を映し出すはずです。それとも……姚明様は、華妃様の『真実の美しさ』が白日の下に晒されるのが怖いのですか?」
場の空気が凍りついた。
衛兵たちがざわめき、刀の柄に手をかける音が聞こえる。
麗華姫が「杏花……っ!」と悲鳴のような声を漏らした。
これは賭けだ。
それも、勝率の極めて低い、命懸けのロシアンルーレット。
華妃の肥大化した虚栄心と、姚明の「忠実な腹心」という立場(建前)を人質に取る。
姚明の眉が、わずかにピクリと動いた。
沈黙が落ちる。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
彼は私を見つめたまま、その脳内で冷徹な計算を行っているようだった。
(……ここで断れば、「華妃の美しさを信じていない」という侮辱と取られかねない。小娘の戯言とはいえ、主人の美貌に関わる問題を、独断で握り潰すのはリスクがある)
彼の思考が、手に取るように伝わってくる。
合理主義者の彼にとって、感情は不要だが、「体面」と「形式」は絶対だ。
(それに、もしこの娘が華妃様の前で妖術まがいのことをしでかせば……あるいは、期待外れの結果を出せば。私が手を下すまでもなく、華妃様ご自身の命令で、極めて残酷な処刑が行われるだろう)
姚明の唇が、薄く、残酷な弧を描いた。
彼は、私たちが自ら墓穴を掘る未来を幻視したのだ。
「……いいでしょう」
彼はゆっくりと頷いた。その声は、死刑宣告のように静かだった。
「その減らず口がいつまで利けるか、見ものですな。華妃様のご機嫌を損ねれば、その場で八つ裂きにされると覚悟なさい」
◇
連行された先は、後宮の東側に位置する『景陽宮』。
私たちが暮らす廃墟のような冷宮とは、天と地ほどの差がある別世界だった。
朱塗りの回廊を歩くたびに、靴底から伝わる石畳の冷たさが、現実の重みを伝えてくる。
あちこちに配置された金箔の装飾、極彩色の陶磁器、そして風に乗って漂ってくる甘ったるい白檀の香り。
その全てが、この場所の主の権勢と、底知れぬ欲望を象徴していた。
「ひ、姫様……」
後ろを歩く蘭馨が、今にも泣き出しそうな声で囁く。
「大丈夫よ」と答える私の声も、震えていたかもしれない。
隣を歩く麗華姫は、青ざめた顔で唇を噛み締め、前を見据えていた。彼女もまた、覚悟を決めているのだ。
通されたのは、景陽宮の最奥にある謁見の間だった。
部屋の中央、一段高い場所に設えられた豪奢な長椅子。そこに、この後宮の実質的な支配者の一人、華妃が鎮座していた。
煌びやかな装飾に埋もれるようにして座る彼女は、確かに美しかった。
牡丹の花のような、艶やかで圧倒的な存在感。
しかし、その目元には隠しきれない倦怠の色と、刻まれ始めた加齢の兆しが見て取れた。
彼女は不機嫌そうに、孔雀の羽で作られた扇子を揺らしている。
そして、彼女の周囲を見渡して、私はあることに気づいた。
部屋の壁という壁に、肖像画が飾られているのだ。
それも、何枚も。
様々な衣装、様々なポーズで描かれた華妃の姿。
宮廷お抱えの一流絵師たちが描いたのであろうそれらの絵は、精緻で、写実的で、技術的には素晴らしい名画だった。
だが。
あまりにも「写実的すぎた」。
絵師たちは誠実すぎたのだ。彼女の目尻の小じわ、少しこけた頬、首筋のたるみ……それらを忠実に再現してしまっていた。
華妃がそれらの絵を見るたびに、眉間に皺を寄せているのがわかる。彼女は、自分の老いを認めたくないのだ。
(……勝機は、ある)
私は拳を握りしめた。
この傲慢な権力者の最大の弱点。それは「老いへの恐怖」と「尽きることのない承認欲求」だ。
姚明が恭しく進み出て、事の次第を報告する。
「冷宮の罪人が、己の持つ鏡で華妃様の『真実の姿』を映したいと申しております」
その口ぶりは、まるで道化の芸を見せるかのような嘲りに満ちていた。
華妃が、気だるげにこちらを一瞥した。
「……それで? その薄汚い板切れが、私の『真実の姿』を映すと?」
彼女の声は氷のように冷たく、期待など微塵も感じられなかった。
衛兵たちが威圧的に一歩踏み出す。
失敗すれば、即座に首が飛ぶ。
私は深呼吸をし、一歩前へ出た。
「はい、華妃様。おそれながら申し上げます」
私の声は、静まり返った広間にクリアに響いた。
「ここにある数々の肖像画……どれも素晴らしい筆致でございます。しかし、失礼ながら、絵師たちは一つだけ重大な過ちを犯しております」
「過ち、だと?」
華妃の目が鋭く光った。
「はい。彼らは目に見える『形』だけを追うあまり、華妃様の内から溢れ出る『高貴なるオーラ』や『沈魚落雁な輝き』を描ききれておりません。人間の目と筆では、貴女様の圧倒的な美しさを捉えるには限界があるのです」
私は言葉を紡ぐ。それは半分がお世辞で、半分は現代のマーケティング理論だ。
顧客(華妃)の不満(肖像画が気に入らない)を指摘し、解決策を提示する。
「ですが、私の故郷に伝わるこの『科技の鏡』なら……人の目には見えない光をも捉え、貴女様の心の輝きを含めた、真のお姿を映し出すことができるのです」
「……口だけは達者なようね」
華妃はふん、と鼻を鳴らしたが、その扇子を揺らす手が止まっていた。興味を持った証拠だ。
「よかろう。試してみなさい。……ただし」
彼女は扇子を畳み、切っ先を私に向けた。
「もし、映し出された姿が私の意に沿わぬものであった場合……その鏡を砕き、お前のその達者な舌も引き抜いてやるから、そのつもりでいなさい」
「……御意」
私は平伏し、そしてゆっくりと立ち上がった。
背中の冷や汗が止まらない。
だが、やるしかない。
私は懐からスマホを取り出した。
姚明が警戒して身構えるが、私はそれを無視して画面をタップした。
起動するのは、麗華姫と遊んでいた『激盛りカメラアプリ』だ。
しかし、今回はネタ枠の「性別転換」や「顔交換」ではない。
私が指先一つで設定するのは、現代の女性たちが心血を注いで開発し、磨き上げてきた『究極・美女盛り盛りモード』だ。
(小顔効果、レベルMAX。プラス100)
(目ヂカラ強調、レベルMAX。プラス100)
(美肌フィルター、最強設定「陶器肌」。シミ、シワ、毛穴を完全消去)
(年齢設定、マイナス20歳)
(顎ライン補正、シャープに)
さらに、ここが重要だ。
ただ若くするだけでは、威厳が損なわれる。
私はフィルター設定を開き、『ゴージャス・キラキラエフェクト』を追加。
画面全体に微かな光の粒子が舞い、被写体の背後に後光が差すようなライティング補正をかける。
準備は整った。
バッテリー残量は、相変わらず100%。この異世界の謎パワーに感謝だ。
「参ります! 華妃様、そのままで! 扇子を少し下げ、顎を引いてくださいませ……はい、そのまま!」
私はスマホを構えた。
液晶画面の中に、華妃の姿が捉えられる。
AIが瞬時に顔を認識し、黄色い枠が表示される。
そして、リアルタイム処理により、画面の中の華妃が劇的に変貌を遂げる。
くすんだ肌は白磁のように輝き、垂れ下がった頬はキュッと引き締まり、目元のシワは消滅して瞳が宝石のように輝き出した。
それは詐欺だ。捏造だ。
だが、この場においては、これこそが「真実」でなければならない。
「……撮ります!」
カシャッ。
人工的なシャッター音が、静寂の広間に響いた。
姚明が眉をひそめる。
麗華姫が祈るように両手を組んでいる。
「……撮れました」
私はスマホを下ろした。
画面には、奇跡の一枚が静止画として保存されている。
「ご覧ください、華妃様。これが、凡百の絵師たちには決して描くことのできなかった、貴女様の『真の姿』です!」
私は恭しくスマホを両手で捧げ持ち、玉座の華妃へと歩み寄った。
姚明が危険がないか確認するように横に立つが、私は自信満々に画面を向けた。
華妃は、疑わしそうな目で、面倒くさそうに身を乗り出した。
「どうせ、ぼんやりとした鏡絵でしょう……」
彼女の視線が、高精細なRetinaディスプレイに落ちる。
そして。
「……え?」
時が止まった。
華妃の目が、限界まで見開かれた。
呼吸をするのも忘れたように、彼女は画面の中の自分を凝視した。
そこに映っていたのは、もはや彼女であって彼女ではない。
画面の中にいたのは、人間離れした美女だった。
透き通るような陶器の肌。少女のように大きな瞳。シャープな顎のライン。現実の華妃の面影を残しつつも、それは完全に「別次元の美の化身」へと昇華されていた。




