そのアプリ、凶暴につき
後宮の東側に位置する『景陽宮』。
そこは、紫禁城の中でもひときわ異彩を放つ場所だった。
朱塗りの柱には黄金の龍が絡みつき、瑠璃色の瓦は秋の陽光を受けて眩いばかりに輝いている。
庭園には季節外れの花々が咲き乱れ、希少な孔雀が放し飼いにされ、優雅に羽を広げていた。
ここは、今上帝の寵愛を一身に受ける実力者、華妃の住まいである。
そして同時に、後宮における権力と欲望の渦の中心地でもあった。
宮殿の奥深く。
甘ったるい、むせ返るような白檀と麝香の香りが充満する部屋。
その中央に置かれた最高級の紫檀の長椅子に、華妃は気怠げに横たわっていた。
彼女は美しかった。
牡丹の花のように大輪で、見る者を圧倒するような派手な美貌。
しかし、その目元には隠しきれない倦怠と、他者を見下す傲慢さが滲み出ていた。
「……それで?」
彼女は長い爪で、氷で冷やされた翡翠のような葡萄を一粒つまみ、紅を引いた唇に落とした。
「最近、あの小生意気な麗華が、頻繁に北の廃墟へ通っているというのは……真か?」
華妃の声が、甘く、そして毒を含んで部屋に響く。
その問いに応えるように、部屋の隅の、最も濃い影の中から一人の男が音もなく現れた。
「左様でございます、華妃様」
その男の姿が現れた瞬間、むせ返るようだった部屋の空気が、一瞬にして凍りついたように静まり返った。
空調が変わったかのような錯覚。
温度のない声。
男の名は、姚明。
この後宮を取り仕切る太監(宦官)の一人でありながら、その容貌は、後宮のいかなる美女をも凌駕すると噂される男だった。
透き通るような白磁の肌。
氷細工のように整った鼻筋。
唇は薄く、血の気を感じさせない淡い桜色。
そして何より、一切の感情を映さない、磨き上げられた黒曜石のような瞳。
彼の美しさは、ポジティブなものではない。どこか禍々しく、不吉だった。
作り物めいた完璧さが、見る者に本能的な畏怖を抱かせる。
彼は床を滑るように歩み寄り、華妃の前に音もなく跪いた。
華妃は、姚明の美貌を満足げに眺めながら、口の中で葡萄を潰した。
甘い果汁と、ほのかな酸味が広がる。
「ふん……。あの麗華、日頃から私の派閥に楯突く目障りな小娘だったけれど、まさか自ら墓穴を掘ってくれるとはね」
華妃は嘲るように笑った。
麗華姫は、西域の血を引く異国風の美貌と、皇帝からの覚えもめでたいことで、華妃にとって長年の目の上のたんこぶだった。
その彼女が、よりにもよって謀反人の娘と関わりを持つなど、自殺行為に等しい。
姚明は表情一つ変えず、淡々と、まるで今日の天気予報を読み上げるかのように言葉を続けた。
「調査によりますと、麗華姫は杏花姫と結託し、頻繁に物品のやり取りを行っております。中には、宮中の規定に反する食材や化粧品、さらには出所不明の奇妙な道具も含まれている模様」
「結託、ねぇ。あの高慢ちきな麗華が、落ちぶれた姫と『お友達』ごっこ? 笑わせるわ」
華妃はクスクスと肩を震わせた。
権力闘争こそが後宮の華であり、本質であると信じて疑わない彼女にとって、「友情」などというものは、弱者の戯言に過ぎない。
姚明は沈黙したまま、主人の嘲笑を聞いていた。
彼のガラス玉のような瞳に、冷ややかな色が宿る。
(……友情、か。非合理的で、脆弱なシステムだ)
姚明にとって、人間関係とは数値化可能な「利害の一致」か、あるいは「支配・被支配」の構造でしかない。
感情で動く人間は、彼にとってバグを抱えた欠陥品だ。計算を狂わせるノイズだ。
かつて異民族として虐げられ、孤独だった麗華姫が、同じく孤独な杏花姫に共鳴した。
その心理的プロセスを、姚明は論理的には理解できた。
だが、感情的には一切共感できなかった。
情に流され、リスクを冒してまで冷宮に通うなど、愚の骨頂である。自己保存本能が欠如しているとしか思えない。
「姚明、お前ならどうする?」
華妃が葡萄の皮を指先で弾き飛ばし、ねっとりとした視線を彼に向けた。
「これを機に、麗華を再起不能にし、ついでにあの目障りな謀反人の娘も始末したいのだけれど。……できるわね?」
問いかけではない。命令だ。
姚明は静かに一礼した。
彼の脳内で、冷徹な計算式が高速で組み上げられていく。
麗華姫の失脚は、ライバル勢力の弱体化を意味する。
それは即ち、主である華妃の権力増大に直結し、ひいては姚明自身の後宮における支配力を盤石にすることに繋がる。
コスト対効果は極めて高い。
「……友情というものは、美しい包装紙に包まれた爆弾のようなものです」
姚明の唇が、美しく、そして残酷な弧を描いた。
それは笑みというよりは、獲物を前にした爬虫類の反応に近かった。
「一度火がつけば、本人たち諸共、跡形もなく吹き飛ぶ。……策がございます。友情を育む彼女たちだからこそ成立する、逃げ場のない罠が」
「ほう? 聞かせてみなさい」
華妃が身を乗り出す。
姚明は音もなく立ち上がり、華妃の耳元に近づいた。
「麗華姫が持ち込んでいる物品……それを逆手に取ります。来たる『満月祭』の日、皇帝陛下が後宮を巡察されるタイミングに合わせ、ある『禁制品』を冷宮から発見させるのです」
「禁制品?」
「はい。そしてそれを、『麗華姫が杏花姫に命じて作らせたもの』として告発するのです。二人が密会を重ねていた事実は、その共謀の動かぬ証拠となりましょう」
「なるほどねぇ。でも、ただの禁制品じゃ、精々が減俸か謹慎止まりじゃない?」
「ええ。ですから、発見させるのは、ただの品ではありません」
姚明の声が、一段と低くなる。
「杏花姫が持っているという、光る板……部下の報告によれば、鏡のように鮮明に景色を映し出し、夜には怪しく発光するとのこと。あれを利用します」
「あれを……どうするの?」
「あれを、『皇帝陛下を呪い殺すための祭具』と仕立て上げるのです」
「呪い……!」
「麗華姫の母は西域の出。西域には、鏡を使った邪悪な呪術の伝承がございます。麗華姫は、故郷の妖術を使って皇帝を呪い殺し、自分の都合の良い皇子を即位させようとしている……という筋書きで」
華妃の目が大きく見開かれた。
それは驚きではなく、歓喜の色だった。
単なる規則違反ではない。
皇帝への呪詛。それは「謀反」と同義だ。
一族郎党、処刑は免れない大罪である。
「素晴らしいわ、姚明! さすがは私の自慢の道具ね。……ふふ、あはははは!」
華妃は扇子で口元を覆いながら、喜悦に肩を震わせた。
彼女の脳裏には、すでに勝利の光景が浮かんでいるのだろう。
冷宮の泥の中にひれ伏し、命乞いをする麗華姫と杏花姫の姿が。
「ああ、楽しみだわ。あの子たちが、その『友情』とやらに絶望して泣き叫ぶ顔が目に浮かぶよう」
華妃の歪んだ欲望が、部屋の空気をさらに澱ませていく。
姚明はその様子を、どこか冷めた目で見つめていた。
人間の欲望とは、なんと醜く、そして扱いやすいものか。
華妃もまた、姚明にとっては手駒の一つに過ぎない。
彼女の欲望を満たしてやることで、彼は自身の手を汚さず、後宮という箱庭を支配することができるのだから。
「すべては、華妃様のために」
姚明は恭しく頭を下げた。
その美しい顔には、罪悪感の欠片もなかった。
あるのは、任務を遂行する機械のような冷徹さと、自身の描いたシナリオが完璧に遂行されることへの、無機質な満足感だけだった。
「では、手配を進めます。……満月祭の夜、月明かりの下で、美しい悲劇をご覧に入れましょう」
姚明は一礼し、影の中へと消えていった。
後に残されたのは、甘ったるい香の匂いと、華妃の忍び笑いだけ。
一方、北の冷宮。
そんな恐ろしい計画が進行しているとは露知らず。
杏花姫と麗華姫、そして侍女の蘭馨は、今日も今日とてロケットストーブを囲み、
「次はどんな動画を撮ろうか」
「やっぱりスイーツ動画よ!」
などと、無邪気な会話に花を咲かせていた。
彼女たちの頭上に、かつてない悪意の刃が振り下ろされようとしていることも知らずに。
満月祭まで、あと三日。
タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。
☆☆☆
「見て見て麗華様! 次はこれ、『性別転換フィルター』!」
「きゃあああ! やだ、私が髭面の武将に!? ……でも意外とイケメンじゃない?」
「でしょ? 凛々しい眉毛が三国志の英雄みたいですよ。じゃあ次は定番の『顔交換』行きますよ〜。はい、チーズ!」
秋晴れの空の下、忘れ去られたはずの冷宮の庭に、場違いなほど明るい嬌声が響き渡っていた。
かつては雑草が生い茂り、怨嗟の声しか聞こえなかったこの場所も、今や私たち――元OLの杏花(山田花子)と、侍女の蘭馨、そして悪役令嬢改め親友となった麗華姫の三人によって、ささやかな「聖域」へと生まれ変わっていた。
ロケットストーブからは香ばしいハーブティーの湯気が立ち上り、手作りのテーブルには干した果物が並んでいる。
そして、その平和なティータイムの中心にあるのは、私のスマホだ。
今日の遊び道具は、インストールされていた『激盛りカメラアプリ』。AIが自動で顔を認識し、動物の耳をつけたり、メイクを施したり、果ては他人の顔と入れ替えたりできる、現代技術の結晶である。
カシャッ。
軽快なシャッター音と共に、画面に奇跡の一枚が表示された。
「んふっ、ぶはははは! 無理、麗華様の気品あふれるパーツが私の平たい顔に乗ると、なんか平安時代の貴族みたい!」
「ちょっと! 失礼ね! 杏花こそ、私の輪郭にそのパーツだと、目力が強すぎて宇宙人よ! なによこれ、夢に出そう!」
「ひ、姫様方……お腹が痛うございます……」
横で見ていた蘭馨も、涙を流して笑い転げている。
画面の中の私たちは、グロテスクで、滑稽で、最高に面白かった。
謀反人の娘と、異民族の血を引く姫。本来なら後宮の底辺で憎しみ合うはずだった二人が、小さな液晶画面を覗き込み、腹を抱えて笑い合っている。
(ああ、平和だなぁ……)
私は笑いすぎた涙を拭いながら、ふと思った。
スマホのバッテリーはまだ100%。
謎の「景皇子」からの支援物資もある。
麗華姫という強力なコネクションもできた。
このまま、この冷宮で面白おかしく暮らしていくのも、悪くないかもしれない。そんな甘い考えが脳裏をよぎった、その時だった。
スッ……。
不意に、私たちの頭上から太陽が消えた。
雲がかかったわけではない。
物理的な、そして精神的な「影」が、私たちのテーブルに差したのだ。
さっきまで鳴いていた小鳥たちが、一斉に声を潜めた。
風が止まり、肌にまとわりつくような湿った重圧感が、庭の空気を支配する。
「……随分と楽しそうですね。明日をも知れぬ身で」
その声の温度の低さに、私たちはピタリと動きを止めた。
背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような感覚。
心臓がドクンと嫌な音を立てる。
恐る恐る、スローモーションのように顔を上げる。
逆光の中、そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい、しかし能面のように無表情な男だった。
透き通るような白磁の肌。
感情の一切を映さない、磨き上げられた黒曜石のような瞳。
身にまとった太監(宦官)の最高位を示す紫の衣が、音もなく風になびいている。
姚明。
華妃の腹心であり、後宮の裏仕事を一手に引き受ける「影の支配者」とも噂される男だ。
「よ、姚明……! なぜここに?」
麗華姫が弾かれたように立ち上がり、私を庇うように前に出た。
彼女の声が震えている。
普段は強気な彼女が、これほどまでに怯えている。それは、この男が持つ「異質さ」を物語っていた。
彼は人間ではない。美しい「システム」だ。感情を持たず、ただ目的のためだけに動く、冷酷な処刑機械。
しかし、姚明の氷のような瞳は、麗華姫を素通りし、私の手元――まだ画面が光っているスマホに釘付けになっていた。
「それが、例の『禁制品』ですか」
抑揚のない声。しかし、そこには明確な敵意が含まれていた。
「奇妙な光を放ち、人の顔を歪め、ありもしない獣の耳を生やす。……陛下を呪い殺すための道具という報告は、あながち間違いではなかったようだ」
「なっ……!?」
姚明が長く白い指をパチンと鳴らすと、背後の廃墟の影から、武装した衛兵たちがザッ! と音を立てて現れ、私たちを完全に取り囲んだ。
逃げ場はない。
「杏花姫、ならびに麗華姫。貴女方を『皇帝呪詛』の嫌疑で連行します。……その不吉な板も、証拠品として没収です」
その言葉の意味を理解した瞬間、私の血の気が引いた。
呪詛。
それは、後宮において最も重い罪の一つだ。
一族郎党、処刑は免れない。
「ちょ、ちょっと待って! これは呪いの道具なんかじゃないわ! ただの遊び道具よ!」
私は慌ててスマホを胸に抱いた。
没収されたら終わりだ。
これは私のライフラインであり、サバイバルの知恵袋であり、景皇子と繋がる唯一の手段なのだ。これを奪われることは、死を意味する。
「遊び、だと?」
姚明が一歩、近づいてくる。
その圧迫感に、呼吸が止まりそうになる。
「人の顔を奪い、作り変えるなど、西域の邪法以外の何物でもない。現に、先ほどの画面……あれは貴女方の心を抜き取り、加工していたのでしょう? そのような穢れた妖術で、皇帝陛下の御身に危害を加えようとした。……申し開きは、拷問部屋で聞きましょう」
「ち、違います! これは科学です! テクノロジーなんです!」
「科学? テクノロジー? ……聞き慣れぬ異国の呪文ですね。やはり、邪教か」
姚明は聞く耳を持たない。
彼の中では、すでに「結論」が出ているのだ。
私たちが何を言おうと、彼はそれを「邪教の証拠」として処理するだろう。華妃のために、私たちを排除するというシナリオを完遂するために。
衛兵たちが槍を構え、じりじりと包囲を狭めてくる。
蘭馨が恐怖で泣き出しそうだ。麗華姫も青ざめながら扇子を握りしめている。
どうする?
逃げる? 無理だ。この包囲網を突破できる身体能力はない。
戦う? 勝てない。
土下座して命乞いをする? あの姚明に通じるわけがない。
絶体絶命。
私の脳内CPUが、過熱して煙を上げるほどフル回転する。
何か、何か手はないか。
現代知識を使って、この危機を脱する方法は。
相手は、これを「邪教」だと思っている。
「顔を変える」「現実を歪める」法だと信じている。
そして、私の手元には、確かに「現実を加工する」アプリがある。
(……待てよ? 現実を歪める? ……これだ!)
一つの閃きが、雷のように脳裏を貫いた。
姚明は「真実」など求めていない。彼は「我々を処刑する理由」を求めている。
だが、もしも。
もしもこのスマホが、彼にとって「無視できない価値」を持つものだとしたら?
あるいは、彼の「根源的な恐怖」を刺激するものだとしたら?
私は深呼吸をした。
腹の底に力を込め、震える足を地面に踏ん張る。
OL時代、絶対に失敗できないプレゼンの前にやっていたように、自分自身に暗示をかける。
私はできる。私はハッタリの天才だ。
「姚明様!」
私は意を決して、姚明を真っ直ぐに睨みつけた。
その声の大きさに、姚明がわずかに眉を動かす。
「これは呪いの道具ではありません。貴方は勘違いをされています」
「勘違い? 私が?」
「ええ。これは顔を変えるものでも、心を抜くものでもありません」
私はスマホの画面をタップし、カメラを「インカメラ」から「アウトカメラ」に切り替えた。
そして、フィルターを『ノーマル』に戻し、さらに『高解像度モード』に設定する。
画面には、姚明の美しい、しかし冷徹な顔が、毛穴の一つまで鮮明に映し出された。
私はスマホを、まるで聖なる鏡のように両手で掲げた。
「これは……『真実の姿を映し出す、科技の鏡』なのです!」
風が吹き抜け、私の乱れた髪を揺らす。
姚明の視線が、スマホの画面に映る「自分自身」と交錯する。
そこには、肉眼で見るよりも鮮明で、そして残酷なまでにリアルな「真実」が映っていた。
姚明の瞳が、一瞬だけ揺らいだのを私は見逃さなかった。
勝負はここだ。
この男の、鉄壁の理性にヒビを入れる。
「嘘偽りのない、心の形さえも暴き出す鏡。……姚明様、貴方はご自身の『真実』を直視する勇気はおありですか?」
私は挑発的に問いかけた。
彼は怪訝そうに目を細め、低い声で繰り返した。
「……真実の姿、だと?」




