麗華姫の憂鬱
「では、実食と参りましょう」
私の宣言と共に、即席のテーブル(平らな石の上に板を置いただけのもの)に、二つの料理が並べられた。
右側には、麗華姫が宦官に出させた、透き通るような金色のスープに浮かぶ『宮廷風・極上点心(出来合い)』。
左側には、私がロケットストーブと瓦で揚げた、キツネ色に輝く山盛りの『冷宮特製・元カレへの未練断ち切りザクザク唐揚げ』。
スマホの画面には『LIVE』の赤文字が灯り続け、視聴者数は過去最高を記録している。
コメント欄は固唾を呑んで見守っていた。
「まずは、僭越ながら私が麗華様の料理をいただきます」
私は箸を手に取り、美しく盛り付けられた点心を口に運んだ。
上品な海鮮の香り。滑らかな舌触り。
確かに美味しい。最高級の素材を、熟練の料理人が手間暇かけて作った味だ。
「……うん、美味しいです。雑味がなく、洗練されています。さすがは宮廷料理人のお仕事ですね(皮肉)」
「ふん、当たり前よ。庶民の舌には勿体ないくらいだわ」
麗華姫は扇子で口元を隠し、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
しかし、勝負はここからだ。
「では、麗華様。私の料理をどうぞ」
私は揚げたての唐揚げを勧めた。
麗華姫は、瓦の上に積み上げられた茶色い塊を、まるで汚物でも見るような目で見下ろした。
「何これ……ただの茶色い塊じゃない。見た目も野蛮なら、匂いも強烈ね。こんなものを口にして、肌が荒れたらどうしてくれるの?」
文句を垂れながらも、彼女は恐る恐る象牙の箸を伸ばした。
カリカリに揚がった衣の感触が、箸先から伝わったのだろう。彼女は一瞬怪訝な顔をしたが、意を決して小さな欠片を口に入れた。
その瞬間。
カリッ。
小気味よい破砕音が、静まり返った冷宮に響き渡った。
スマホのマイクがその音を拾い、コメント欄が『いい音!』『ASMR』と反応する。
次の瞬間。
カリカリの衣を突破した歯が、弾力のある鶏肉に食い込む。
ジュワッ!
閉じ込められていた熱々の肉汁が、爆発するように口の中に溢れ出した。
ニンニク(の代用品である野草ノビル)のパンチの効いた香り。
生姜の爽やかな辛味。
そして、醤油(の代わりの魚醤っぽい調味料)の焦げた香ばしさ。
それらが、獣脂の濃厚なコクと混ざり合い、脳天を直撃する旨味の爆弾となって炸裂した。
麗華姫の動きが、ピタリと止まった。
「……っ」
彼女の切れ長の瞳が、限界まで見開かれる。
扇子を持つ手が震え、膝の上に力なく落ちた。
「な、なによこれ……」
言葉とは裏腹に、彼女の箸は止まらなかった。
二口目。三口目。
優雅な宮廷作法など忘れ、彼女は夢中で唐揚げを頬張った。
唇に油がついても気にしない。熱さでハフハフと息を漏らしながら、次々と茶色い塊を口へと運んでいく。
「麗華様……?」
あまりの没頭ぶりに、私が恐る恐る声をかけると、彼女の動きが止まった。
うつむいた彼女の頬を、一筋の雫が伝い落ちた。
「……懐かしい」
震える声で、彼女は呟いた。
それは、いつもの高慢な声ではなく、迷子になった子供のような、心細く、そして温かい声だった。
「この、強い香辛料の味……。カリッとした歯ごたえ……。ジュワッと広がる脂の甘み……」
彼女はまた一口、唐揚げを噛み締めた。
その瞳の奥には、この荒れ果てた冷宮ではない、もっと遠く、懐かしい景色が映っているようだった。
「これは、私の故郷の……母様の味だわ」
麗華姫の口から語られたのは、意外な真実だった。
彼女――麗華。張貴妃の姪として権勢を誇る彼女だが、実は純粋な満州貴族の血筋ではなかった。
彼女の母は、遥か西域、異民族の踊り子だったという。
父が見初め、側室として連れ帰ったものの、宮廷内での風当たりは強く、幼い麗華もまた、「異人の血が混じっている」「髪の色が違う」といじめ抜かれて育ったのだそうだ。
「母様は……宮廷の薄味の料理が合わなくて、よく隠れて故郷の料理を作ってくれたの。羊肉に香辛料をたっぷりまぶして、油で揚げたものを……」
私の作った唐揚げのスパイシーさと、高温で揚げた食感が、彼女の記憶の底に眠っていた「母の味」――唯一愛された記憶と重なったのだ。
「私……ずっと寂しかった。出自を隠し、完璧な『清の姫君』として振る舞えば振る舞うほど、本当の自分が消えていくようで……故郷の味が、母様の笑顔が、遠くなっていくようで……」
大粒の涙が、彼女の美しい顔を濡らしていく。
厚い化粧が崩れ、その下から、年相応の少女の素顔が覗いていた。
「だから……謀反人の娘である貴女を見ると、イライラしたの。泥にまみれても平気で、好きなように生きていて……昔の、弱くて自由だった自分を見せつけられているようで、許せなかった……!」
麗華姫は、子供のように泣きじゃくった。
あの意地悪な態度は、彼女なりの鎧だったのだ。
誰も寄せ付けないように、弱さを悟られないように、必死で虚勢を張り続けてきた、孤独な少女の悲鳴だったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、杏花……」
気がつけば、私は彼女を抱きしめていた。
油の匂いと、高級な白粉の香りが混ざり合う。
彼女の身体は、小鳥のように震えていた。
(なんてこと……)
私は、元カレ・ケンジへの未練と殺意を込めて唐揚げを揚げた。
でも、その唐揚げが、まさか時を超えて、孤独な悪役令嬢の氷の心を溶かすなんて。
ケンジよ、君の裏切りは無駄じゃなかった。君のおかげで、私は今、一人の少女を救ったのかもしれない。
「いいんですよ、麗華様。唐揚げは世界を救うんです。カロリーは正義、揚げ物は愛なんです」
私は彼女の背中を優しく撫でた。
「さあ、まだいっぱいありますから。冷めないうちに食べましょう」
「ううっ……おいしい……あったかい……母様の味がするぅ……」
麗華姫は私の胸に顔を埋め、わんわんと泣いた。
プライドも身分もかなぐり捨てて、ただの女の子に戻って泣いた。
その様子を撮影していた蘭馨も、「ううっ、よかったですねぇ……」ともらい泣きしている。
そして、スマホの画面は――
『全米が泣いた』
『唐揚げ食べたくなってきた』
『麗華様、推せる……!』
『スパチャ(投げ銭)飛び交ってて草』
怒涛のコメントと高評価の嵐。
画面がスパチャのエフェクトで埋め尽くされている。
そして、例の『景』アカウントからは、一際目立つ金色の枠で、こんなコメントが届いていた。
¥100,000(相当の金貨)
景:『……ふっ。やはりそなたの料理には、人の心を動かす力があるようだな。今日の勝負、そなたの勝ちだ。……追伸:その唐揚げとやら、私の分も残しておけ』
こうして、第一回・冷宮料理対決は、私の完全勝利……というより、友情の勝利で幕を閉じた。
最強のライバル(兼、新たな食材スポンサー)を手に入れた私たちの冷宮ライフは、ここからますます賑やかになる予感がしていた。
◇
「はい、カットー! お疲れ様でしたー!」
私の声が響くと、麗華姫は慌ててハンカチで目元を拭い、いつものツンとした表情を作った。
「……み、見苦しいところを見せたわね。忘れてちょうだい」
「いえいえ、麗華様の涙、とっても美しかったですよ。視聴者も『麗華様ファンになった』って言ってます」
「なっ……! ふ、ファンだなんて……ふん、物好きな平民たちね」
彼女は顔を赤らめながら、そっぽを向いた。
その手には、しっかりと唐揚げの残りが包まれたハンカチが握りしめられている。
「また……来てもよろしくてよ。監視のためにね」
「はい、お待ちしております。次はもっと美味しいものを作りますから」
「……楽しみにしておくわ」
麗華姫は、衛兵たちを引き連れて帰っていった。
その背中は、来る時よりも少しだけ軽やかに見えた。
◇
それから数日後。
冷宮の庭には、今日も賑やかな声が響いていた。
あの日以来、麗華姫は足繁く冷宮に通ってくるようになった。
表向きは「罪人の監視」や「哀れな囚人への施し」を装っているが、実際は完全に私たちの動画制作のパートナー、そして――私の初めての「友達」になっていた。
「はい、スタート!」
蘭馨の合図と共に、私はカメラに向かって手を振った。
「みなさんこんにちは! 没落姫のDIYチャンネルです! 今日の企画は……」
「『【宮廷メイク】高級コスメ vs 自家製ビーツの口紅! どっちが盛れるか対決』よ!」
私の隣で、麗華姫がポーズを決めた。
今日の彼女は、いつもの厳しい宮廷風メイクではなく、少しナチュラルで可愛らしい雰囲気に仕上げている。
「麗華様、ノリノリですね」
「当然よ。出るからには一番美しく映らないと気が済まないの」
麗華姫が持ち込む最高級の化粧品(鉛白や紅)と、私が庭の野菜(ビーツや木苺)で作ったオーガニックコスメを比較するという、女子力高めの動画だ。
机の上には、色とりどりの化粧道具が並べられている。
「まずは、麗華様ご愛用の『西太后も愛した伝説の紅』を塗ってみましょう」
「ええ、見てなさい。この発色、そこらの雑草とは格が違ってよ」
麗華姫はカメラに向かって唇を突き出し、丁寧に紅を引く。
その仕草は洗練されており、さすがは宮廷の華だ。
「……どうかしら?」
「完璧です! 高貴すぎて画面が割れそうです!」
「おだまりなさい。……次は、貴女の番よ。その泥臭い野菜で、どこまで対抗できるか見ものね」
私はビーツの絞り汁を蜜蝋で固めた自家製リップを取り出した。
指でポンポンと唇に乗せていく。自然な血色感が生まれ、健康的でジューシーな唇になる。
「おっ、これはこれで……!」
「あら……意外と悪くないじゃない。悔しいけど、肌馴染みはそちらの方が上ね」
麗華姫が感心したように私の顔を覗き込む。
その距離が近い。甘い香りがする。
「それにしても杏花、貴女のこの『知恵の板』……本当に不思議ね。鏡よりも鮮明に映るし、私の顔がこんなに綺麗に残るなんて」
麗華姫は、録画中の画面に映る自分を見てうっとりとした。
「ふふん、私の故郷の秘術ですよ。フィルター機能もバッチリですからね。これで麗華様の美しさを世界中に配信するんです」
「せ、世界中って……また大袈裟な。でも、悪くない気分だわ」
私たちは顔を見合わせて笑い合った。
蘭馨もすっかりカメラワークが板につき、手作りのレフ板(白い布)を巧みに操ってライティングを調整している。
三人で過ごす時間は、ここが牢獄であることを忘れさせるほど楽しかった。
謀反人の娘。異民族の血を引く姫。そして侍女。
本来なら交わることのない三人が、スマホという小さな窓を通じて、秘密の時間を共有している。
「麗華様、今の『こんな安物の紅、私の唇には合わないわ!』からの、満更でもない顔で塗るツンデレムーブ、最高でした!」
「なっ……! だ、誰がツンデレよ! 貴女がどうしてもと言うから、試してあげただけじゃない!」
「そういうところが『推せる』んですよ~」
笑い声が、秋晴れの空に吸い込まれていく。
平和だ。
あまりにも平和で、幸せな時間だった。
だが、私たちは知らなかった。
光が強くなればなるほど、その足元に落ちる影もまた、濃く、深く伸びていくということを。
夕暮れ時。
撮影を終え、麗華姫が帰った後のことだ。
私は動画の編集をしようとスマホを開いた。
そこに、景皇子からの新しいメッセージが届いていた。
『景:動画、拝見した。麗華との同盟は悪くない手だ。……だが、気をつけろ』
『景:動画の背景に映り込んでいるあの「古井戸」。……あれは、先帝の寵姫が謎の死を遂げた場所だ。そして今、画面の隅に――』
メッセージはそこで途切れていた。
同時に、宮殿の奥から、ガタンッという大きな物音が響いた。
「ひ、姫様……?」
蘭馨が震える声で私を呼ぶ。
振り返った先。
廃墟の闇の中に、何かが「いた」。
それは、麗華姫のような美しい客でも、野良ニワトリでもない。
もっと禍々しく、そして私たちを明確に「排除」しようとする意思を持った、闇からの使者だった。
私のスマホの通知音が、警告音のように鳴り響く。
冷宮の本当の恐怖は、幽霊でも飢餓でもなく、生きた人間の悪意だったのだ。




