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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
冷宮編
12/23

あなたを振ったその人は、運命の唐揚げに会う為の案内人

私たちの生活は、驚くべき速度で「文化的なレベル」を取り戻しつつあった。

「賢者(AI)」の知識と、「スポンサー(景皇子)」からの物資提供により、肌艶も良くなり、もはや漂流者というよりは、週末キャンプを楽しんでいるような雰囲気さえ漂い始めていた。


チャンネル登録者数は1,500人を突破。

コメント欄も『姫のサバイバル力が上がっていくのが楽しみ』『侍女ちゃんのカメラワークがプロ』と好評だ。


そんな平和な昼下がりのことだった。


「ひ、姫様! 大変です!」


庭で洗濯(という名の『清流で心を洗うASMR動画』の撮影)をしていた蘭馨らんけいが、血相を変えて飛び込んできた。

桶を取り落とし、着物の裾がびしょ濡れだ。


「ど、どうしたの蘭馨? まさかスマホを水没させた!?」

「違います! あ、あちらを……!」


蘭馨が震える指で示した先。

宮殿の崩れかけた西側の塀の、大きな亀裂の向こう。

そこから、何かがこちらを覗いていた。


それはスマホのレンズでも、可愛い野良猫でもない。

極彩色の衣装をまとった、明らかに「この場の空気にそぐわない」人間たちの集団だった。


「……あら? ここから何やら下賤げせんな、けれど食欲をそそる匂いがすると思ったら」


鈴を転がすような、しかし氷柱のように鋭く冷たい声。

塀の亀裂の向こうから、優雅に扇子を揺らして現れたのは、あの観菊の宴で私を嘲笑い、陥れた張本人。

麗華れいか姫だった。


彼女の後ろには、数人の取り巻きの令嬢たちと、強面こわもての衛兵たちがずらりと控えている。

まるで遠足に来たような、しかしその目は獲物をいたぶる猛禽類のように光っていた。


「麗華様……? どうして……ここ冷宮は、立ち入り禁止の禁足地のはずじゃ……」


私が呆然と呟くと、麗華姫は扇子で口元を隠し、三日月のような目で妖艶に笑った。


「ええ。ですが、最近このあたりから、妙に楽しげな声や、美味しそうな匂いが漂ってくるという噂がありましてね。皇太后様が『ネズミが増えすぎては宮廷の衛生に悪い』と、直々に『駆除』をご命令されたのですわ」


「駆除……」


その言葉の響きに、背筋が凍った。

彼女の視線が、私たちが泥まみれになって作り上げたロケットストーブと、その横に干された野菜、そして――私が無意識に握りしめていたスマホへと向けられた。


「それに……貴女、手に持っているその奇妙な板はなぁに? 時折光っているようだけど……まさか、妖術でも使うおつもり?」


心臓が早鐘を打つ。

まずい。スマホを見られた。

あれは「母の形見の鏡」で通るような代物ではない。妖術、あるいは皇帝を呪う呪詛じゅその道具として糾弾されれば、今度こそ弁解の余地なく首が飛ぶ。


(どうする? 逃げる? 無理、ここは袋小路)

(誤魔化す? 相手は私を潰したがっている麗華姫よ、話なんて聞いちゃくれない)


絶体絶命のピンチ。

処刑か、それともスマホ没収の上で拷問か。


しかしその時、極限状態の私の脳裏に、ある起死回生のアイデアが閃いた。

それは、YouTuberとしてのごうが生み出した、あまりにも無謀で、不敬極まりない賭けだった。


「……ふっ」


私は震える手を隠し、逆にスマホをすっと高く掲げた。

そして、麗華姫に向かって、カメラ映えする角度で営業用スマイル全開で言い放ったのだ。


「ようこそお越しくださいました、麗華様! お待ちしておりました!」


「は……? 待っていた、だと?」


「はい! 実は今、宮廷で流行必至の『新しい演劇』の稽古をしていたのです!」


「演劇……?」


麗華姫が怪訝そうに眉をひそめる。

その隙を見逃さず、私は畳み掛けた。


「はい! その名も『突撃! 隣の冷宮ごはん』! 麗華様、なんと記念すべき第一回のスペシャルゲストとして、特別に出演していただけませんか!?」


私は素早く画面を操作し、YouTubeのアプリを起動。

そして、禁断の赤いボタン――『ライブ配信(LIVE)』をタップした。


【配信開始】


さあ、回ったわよ、カメラが。

録画じゃない。全世界配信の生放送、スタートよ!


現代の視聴者たちよ、そして見てるんでしょ、景皇子よ。

この理不尽な宮廷バトル、特等席で見届けてちょうだい!

私が死ぬか、バズるかの一発勝負だ!


「えー、緊急企画! 『第一回・冷宮料理対決クッキング・バトル』〜!!」


私のやけくそ気味なタイトルコールが、冷宮の青空に吸い込まれていく。

スマホの画面には『LIVE』の赤文字。

通知が飛んだのか、視聴者数は見る見るうちに急上昇していく。


コメント欄が流れる。

『うおおお! 姫、まさかのライブ!?』

『えっ、ゲスト誰? めっちゃ美人だけど性格きつそうw』

『急展開すぎww』

『後ろの兵士たちガチじゃん、大丈夫かこれ』


「さあ麗華様! 観客(という名の幻覚)が待っております! 貴女様のその高貴な美しさを、後世に残さない手はありません!」


私はカメラ(スマホ)を麗華姫に向けた。

自分が何かに映されているとは夢にも思わない彼女は、不機嫌そうに、しかし「美しさ」という言葉に反応して、ふっと扇子を閉じた。


「よかろう。……わたくしが『本物の美食』というものを、下賤な貴女に教えてあげるわ。この冷宮のネズミたちも、死ぬ前に良い夢が見られるでしょう」


彼女は冷酷な笑みを浮かべ、さらに続けた。


「ただし、杏花。もし貴女が負けたら……その奇妙な板ごと、この冷宮から出て行ってもらうわよ? ……首と胴体、別々にね」


「望むところです!(負けたら物理的に消される気しかしないけど!)」


こうして、私の命とスマホを賭けた、絶対に負けられない戦いの火蓋が切って落た。



「さあ、まずは食材調達です!」

テーマは『鶏料理』。

私はスマホを蘭馨らんけいに預け(「絶対に手ブレ禁止よ! 私の人生がかかってるんだから!」と鬼の形相で念押しして)、雑草が生い茂る冷宮の庭を全力疾走した。

狙うは、ここ数日、私たちの家庭菜園予定地を我が物顔で荒らしまわっている、憎き野良ニワトリだ。

誰かが飼っていたものが逃げ出したのか、それとも野生化したのか。そのトサカは赤く燃え盛り、足の蹴爪けづめは凶器のように鋭い。だが、その引き締まった太ももには、間違いなく濃厚な旨味が詰まっているはずだ。

「待てコラァ! 私のタンパク質ぅぅぅ!」

「コケッ!? コケッコー!!」

ニワトリは素早い。羽をバタつかせ、残像が見えるほどの速度で瓦礫の山を駆け上がっていく。

だが、甘い。甘すぎる。

私はOL時代、遅刻ギリギリの新宿駅ダンジョンで、閉まりかけのドアへ滑り込むために培ったタックル技術と、この過酷な冷宮生活で目覚めた野性味を全開にした。

スカートの裾? 泥汚れ? そんなものを気にしている余裕はない。今は私が捕食者で、あいつが獲物ディナーなのだ。

「逃がすかぁっ!」

私は泥だらけになりながら、背丈ほどある雑草の中にヘッドスライディング気味にダイブした。

舞い上がる土埃と羽毛。私の手の中に、温かくて力強い鼓動が暴れる感触が伝わる。

「確保! ごめんね、美味しく食べてあげるからね♡」

私は暴れるニワトリの首根っこをガッチリと掴み、勝利のポーズを決めた。

すぐさまカメラに背を向け、手早く|(YouTubeの規約的にBANされないよう、かつ命への敬意を込めて)鶏を絞め、熱湯をかけて羽をむしっていく。

その流れるような所作を、蘭馨が震える声で小声実況を入れる。

「ひ、姫様の手際が……もはや深窓の令嬢の域を超えて、熟練の狩人です……。あの優しい瞳の奥に、あのような修羅が住んでおられたとは……」

こうして、メイン食材の新鮮な鶏肉と、以前屋根裏のはりの隙間で確保していた鳩の卵は揃った。

下準備のため、鶏肉を一口大に切り分け、香味野菜代わりの野草と塩で揉み込む。

ここまでは順調だった。

しかしここで、私の計画を根底から覆す、致命的な問題が発生した。

「……粉がない」

私はボール代わりの欠けた壺を覗き込み、愕然とした。

揚げ物に必須の小麦粉も、片栗粉もないのだ。

配給されるのは、そのままでは噛み砕けないほど硬い古米(玄米に近いもの)と、わずかな塩のみ。高級品である精製された小麦粉など、この冷宮にあるはずがなかった。

「どうしよう……これではただの素揚げだわ」

素揚げが悪くはない。だが、素材の味だけで勝負するには、この野良ニワトリは少々筋肉質すぎて固いだろう。それに、麗華姫が繰り出してくるであろう洗練された宮廷料理に対抗するには、パンチが弱すぎる。

「唐揚げ」の真髄は、あの衣のサクサク感と、ジュワッと溢れる肉汁のコントラストにあるのだから。

私が頭を抱えていると、塀の向こう側――特設会場では、麗華姫が優雅に設営された椅子に座り、最高級の白茶を啜っていた。

彼女の周りには、走らせた宦官たちが運び込んだ高級食材が、山のように積まれている。

フカヒレ、アワビ、燕の巣、金華ハム……。金色の包装紙が、太陽の光を浴びて憎たらしいほどキラキラと輝いている。

これぞ課金勢の暴力。資本主義の壁。

「あら? ずいぶんと粗末な食材ね。泥だらけのニワトリに、雑草の和え物かしら? ……ふふ、あまりに哀れだから、何か恵んで差し上げてもよくてよ?」

麗華姫が扇子で口元を隠し、憐れむような視線を投げてくる。

宦官の一人が、私の方へ向かって放り投げる仕草を見せた。それは、使い古した油の瓶や、野菜の切れ端だった。

「結構です!」

私は反射的に叫んでいた。

施しなど受けるものか。ここで彼女の情けにすがれば、料理人としてのプライドも、元OLとしての意地も廃るというものだ。

しかし、現実は非情だ。粉がない事実は変わらない。

(どうする? 衣なしで戦う? いいえ、何か代わりになるものは……)

焦る私の視界に、配給で置かれていた「硬い古米」が入った。

石のように硬く、炊いてもボソボソして美味しくない、あの米だ。

その瞬間。

私の脳裏に、雷に打たれたような閃きと共に、ほろ苦くも忌まわしい記憶が走馬灯のように蘇った。

 あれは五年前。

 当時付き合っていた、バンドマン志望のヒモ彼氏・ケンジのことだ。

 彼は顔だけは良かったが、生活能力は皆無。そのくせ、食事へのこだわりだけはミシュラン審査員並みにうるさい男だった。

 特に唐揚げには異常な執着を持っていた。


『俺さぁ、唐揚げが美味い女としか愛さねえって決めてるんだよね』


 ソファに寝転がり、私の稼いだ金で買ったビールを飲みながら、彼はのたまうのだ。

 恋に盲目だった当時の私は、彼を喜ばせたい一心で、来る日も来る日も鶏肉を揚げ続け、彼の家に通い詰め、食べ物とお金を貢いでは帰るという生活を続けていた。


 そう、それはまさに「通い詰め」と言うにはあまりに一方的で、献身的すぎる儀式ルーティンだった。


 私の仕事が終わるのは、早くても十九時を過ぎる。

 クタクタに疲れた体を引きずり、スーパーで半額シールの貼られた鶏肉を奪い合うようにしてカゴに入れ、自分のアパートへと急ぐ。

 なぜ、彼の家で作らないのか。

 それはケンジが、『匂いがつくから』というふざけた理由で、自室での揚げ物を禁止していたからだ。

「俺の部屋はスタジオ代わりでもあるんだ。機材に油が回ったらどうすんの? ロックは繊細なんだよ」

 そんな理不尽な言い分を、当時の私は「さすがアーティスト、道具を大切にするのね」と好意的に解釈していたのだから、恋の病とは恐ろしい。


 狭い自室のキッチンで、私は黙々と肉を揚げる。

 換気扇の音が虚しく響く中、バチバチと跳ねる油が腕に飛ぶ。「熱っ!」と声を上げても、誰も心配してはくれない。それでも、冷水で患部を冷やしながら、私は幸せだった。これを食べさせれば、ケンジが笑ってくれる。頭を撫でてくれるかもしれない。そんな微かな期待だけが、私を動かす燃料だった。


 揚げたての唐揚げを、キッチンペーパーを敷いたタッパーに丁寧に詰める。

 まだ熱のこもるそれを風呂敷に包み、さらに保温バッグに入れる。

 そして、私はもう一つの「包み」を用意する。

 銀行の封筒に入れた、なけなしの三万円だ。

「今月、スタジオ代が足りなくてさ……来月フェスに出るかもしれないから、今は勝負の時なんだ」

 そんな彼の言葉を信じ、私は食費を切り詰めて捻出した諭吉たちを、唐揚げと一緒にバッグに忍ばせるのだ。


 あの日もそうだった。

 外は、横殴りの雨が降っていた。

 傘が役に立たないほどの暴風雨。アスファルトを叩きつける雨音が、不安を煽るように街全体を包み込んでいる。

 普通なら、外出など控えるような天気だ。ましてや、片道三十分かけて恋人の家に行くなど、正気の沙汰ではない。

 だが、私は迷わず家を出た。

 なぜなら、ケンジが待っているから。お腹を空かせた彼が、私の唐揚げを待っているから。


 ビュオオオオッ!

 容赦ない風が、私の安物のビニール傘をお猪口にし、骨をへし折った。

 冷たい雨粒が頬を打ち、スーツのスカートはずぶ濡れになり、足元のパンプスの中には水が溜まってグジュグジュと不快な音を立てる。

 それでも私は、胸に抱いた保温バッグだけは死守した。

 自分の体が濡れるのは構わない。けれど、この唐揚げが冷めることだけは許されない。

 まるで戦火の中、赤子を守り抜く母親のような形相で、私は風雨の中を突き進んだ。


 ようやく彼の住むアパートに辿り着いた頃には、私は濡れねずみそのものだった。

 髪は乱れ、メイクは崩れ、服からは滴が垂れている。

 震える指で、チャイムを鳴らす。


 ピンポーン。


 反応がない。

 もう一度、鳴らす。

 ピンポーン、ピンポーン。


 数分後、ようやくドアの向こうから足音が近づいてきた。

 ガチャリ。

 ドアが開く。しかし、それはチェーンがかかったままの、わずか数センチの隙間だけだった。


「……うぃーす。おつかれ」


 隙間から覗くケンジの顔は、寝起きのように不機嫌そうだった。

 あるいは、何かに集中していたのを邪魔されたような苛立ちを含んでいた。


「ご、ごめんねケンジ君。遅くなって……。外、すごい雨で……」

 歯の根が合わないほど震えながら、私は精一杯の笑顔を作った。

「はい、これ。唐揚げ。まだ温かいと思うから」


 私は隙間から保温バッグを差し出した。

 ケンジは無言でそれを受け取ると、中身を確認し、ふんと鼻を鳴らす。

「サンキュ。……あ、あれは?」


 唐揚げへの感謝よりも先に、彼が要求したのはもう一つの包みだった。

 私は慌てて、濡れないように懐に入れていた封筒を取り出し、隙間から滑り込ませた。

 彼の手が素早くそれを掠め取る。中身の厚みを確認した瞬間、彼の手つきがわずかに優しくなったような気がした。


「悪いな花子。助かるわ」

「ううん、いいの。……あの、ケンジ君」


 私は期待を込めて、彼を見つめた。

 こんな雨の中、びしょ濡れになって来たのだ。

 「上がってきなよ」なんて言葉は期待しない。ただ、せめて「タオル使いな」「風邪ひくぞ」くらいいってくれたら、そういってくれるだけでいいのだーーー

 そんな言葉を、心のどこかで期待していた。そして将来、きっと温かい部屋で、二人で唐揚げを食べて、冷えた体を温め合う時間がくる、そう夢見ていた。


 しかし、ケンジは冷酷に言い放った。


「あー、ごめん。今さ、曲が降りてきそうなんだよね。囁いてるっていうか。このバイブスを途切れさせたくないから、今日は一人にしてくんない?」


 バイブスーーーー

 その抽象的で便利な言葉が、私の目の前に立ちはだかる鉄壁の拒絶だった。

 部屋の奥からは、テレビのバラエティ番組の笑い声が微かに漏れ聞こえている気がしたが、私はそれを聞かなかったことにした。


「そ、そっか……。大事な時だもんね。ごめんね、邪魔して」

「わかってくれる花子は最高だよ。じゃ、気をつけて帰ってな」


 バタン。

 ガチャリ。


 ドアは無情にも閉ざされ、鍵をかける音が響いた。

 残されたのは、薄暗い廊下に一人佇む、ずぶ濡れの女。

 手には、折れた傘の柄だけが残っていた。


「……がんばってね、ケンジ君」


 誰もいないドアに向かってそう呟くと、私は来た道を引き返した。

 帰りの道は、行きよりも長く、そして寒く感じられた。

 冷え切った体が震え、涙なのか雨なのか分からない水分が頬を伝う。

 それでも私は自分に言い聞かせた。

 「私は彼の夢を支えているんだ」「天才を理解できるのは私だけなんだ」と。


 一時間後。

 ようやく自宅のアパートに辿り着いた私は、泥のように疲れ果てていた。

 熱いシャワーを浴び、部屋着に着替え、ようやく人心地ついた時だった。


 ピコン。


 テーブルの上に置いたスマートフォンが、通知音を上げた。

 ケンジからだ。

 私は弾かれたように画面を手に取った。

 きっと、感謝の言葉だ。「美味かったよ」「愛してる」「風邪ひくなよ」。

 そんな労いの言葉を期待して、私はメッセージを開いた。


 そこには、たった三行の、残酷な文字列が並んでいた。


『おつかれ。

 てかさ、今日の唐揚げ、なんか油っぽくない?

 衣もベチャッとしてるし、正直、三十分並んで買うコンビニのホットスナック以下だわ。萎える』


 ……は?


 私は何度も読み返した。

 油っぽい? ベチャッとしてる?

 当たり前だ。

 土砂降りの中、湿気100%の外気を突き抜けて運んだのだ。揚げたての状態を保てるわけがない。

 それ以前に、「ありがとう」の一言はないのか。

 三万円に対する礼は?

 台風並みの暴風雨の中を歩いてきた私への気遣いは?


 プツリ。

 その時、私の中で何かが千切れる音がしたような気がした。けれど、完全に千切れることはなく、まだ「好き」という呪いが勝っていたあの頃。

 私は震える指で、『ごめんね、次はもっと気をつけるね』と返信し、枕に顔を埋めて泣いた。


 小麦粉、片栗粉、コーンスターチ。配合を変え、温度を変え、試行錯誤を繰り返した日々。

 それは全て、あの理不尽なダメ出しを封じ込め、彼を唸らせたいという、歪んだ執念の歴史だったのだ。


 ある日、小麦粉を切らしてしまった私は、苦肉の策で、実家から送られてきた米をミルサーで砕き、粉にして使ってみたことがあった。

 すると、どうだろう。

 小麦粉よりも油切れが良く、時間が経ってもベチャつかず、ガラスのように繊細で鋭い「カリカリ」とした食感が生まれたのだ。

 これなら、雨の中を運んでもベチャつかない。湿気に負けない最強の鎧だ。


 それを食べたケンジは、目を見開いて言った。

『へえ、やるじゃん花子。このガリッとした感じ、ロックだね』

 私は心の中でガッツポーズをした。これで彼との未来は約束されたも同然だと思った。


 だが、その一週間後。

 彼は私の前から姿を消した。一通のラインの書き置きを残して。

『ごめん花子。俺、唐揚げより肉じゃがが美味い子と付き合うことになったわ。夢、追いかけるから探さないで』

 で、すでにブロックされていた……。


 今思えば、あの「肉じゃが女」は、最初から彼の部屋に上がり込んでいたのだろう。私が雨の中、玄関先で締め出されていたあの時間も、彼女は部屋の中で私の悪口を言いながら、肉じゃがを煮込んでいたのかもしれない。


「……ああ、思い出しただけでも腹が立つ!!」


 冷宮の厨房で、私は叫んだ。

 あの時の惨めさ、寒さ、そして理不尽なダメ出しの数々。

 それらが怒りの業火となって、私の全身を駆け巡る。

 だが、不思議なことに、その怒りは今、目の前の料理に対する強烈なモチベーションに変わっていた。


(見てなさいよ、ケンジ。そして剛田社長も、ミカも! 私がこの冷宮で、あんたたちがひれ伏すような『ロックな唐揚げ』を作って、成り上がってやるんだから!)


 私は目の前に転がっていた、冷宮の穀物をひっ掴んだ。

 米ーーーーーー これを砕く。粉々にするーーーーーー

 かつての私が、自分のプライドを粉々にして彼に尽くしたように。

 今度はこの穀物を粉砕し、最強の衣を纏わせるのだ。


 私の瞳に、復讐(リベンジ)野望(バイブス)の炎がメラメラと灯った。

それを今こそ、この冷宮で昇華させてやるわ!

元カレへの怨念をスパイスに変えて、最高に罪深き味を作り出してやる!

「蘭馨! 石臼を持ってきて! あと、あのお米も!」

「は、はいっ! ……ですが姫様、あのような古米をどうなさるおつもりで?」

「粉にするのよ! 小麦粉がないなら、米を砕けばいいじゃない!」

私は蘭馨が運んできた小さな石臼に、硬い古米を投入した。

ゴリッ、ゴリッ、ゴリッ。

重い石を回すたびに、白い粉が舞う。

私の腕に乳酸が溜まっていくが、そんな痛みはケンジへの恨みに比べれば蚊に刺されたようなものだ。

「砕けろ! 過去の男への未練ごと、粉々になれぇぇっ!」

私の気迫に圧されたのか、蘭馨が無言でカメラのアングルを調整し、私の形相をアップにする。

やがて、石臼の隙間から、サラサラとした真っ白な粉が溢れ出てきた。

きめ細かく、光を反射してキラキラと輝く米粉。

これだ。これならいける。

「ありがとうございます、麗華様! ですが、食材は間に合っております! 私は私の武器で戦います!」

私は向こう側へ向かって高らかに宣言した。

麗華姫は「フン、強がりを。そんな石ころのような米で何ができるというの」と嘲笑ったが、私は心の中で特大のガッツポーズをした。

見てなさい。この米粉こそが、最強の衣になるのだから。

「蘭馨、カメラを寄せて! 行くわよ、秘伝・米粉二度揚げの術!」

「は、はいっ! 姫様、目が……目が燃えております!」

コメント欄が加速する。

『姫の目がガチだww』

『元カレへの殺意を感じる』

『米を粉にする発想はなかった、すげぇ』

『ヒモ男のエピソードが重すぎて泣ける』

私は即席のタレに漬け込んでおいた鶏肉に、挽きたての米粉をたっぷりとまぶした。

米粉は粒子が細かい。鶏肉の表面に薄く、均一に張り付き、余分な水分を吸い取っていく。

小麦粉のようにボテッとならず、あくまで肉の輪郭を際立たせる薄衣。

余分な粉をはたき落とす。このひと手間が、衣を薄く、サクサクにするコツだ。

ロケットストーブの火力を最大にする。

貴重な油(獣脂と植物油のブレンド)が、適温になり、パチパチと小さな音を立てている。

油面に菜箸を入れると、シュワシュワと細かい泡が立つ。ベストな温度だ。

「いざ、投入!」

ジュワアアアアアアッ!!

その音は、まるで私の心の叫びであり、勝利へのファンファーレだ。

高温の油に入った瞬間、米粉の衣が硬化し、肉の旨味を完全に閉じ込める。

香ばしい匂いが立ち上り、廃墟の澱んだ空気を支配していく。

きつね色に輝く衣が、油の中で花開くように踊る。

「うわぁ……いい音……」

「この匂いだけでご飯三杯いける」

「米粉だと音が違う気がする、カリカリ感が伝わってくる」

コメント欄も飯テロ被害で阿鼻叫喚だ。

一度取り出し、予熱で中まで火を通す。そして、油の温度をさらに上げて、二度目の投入。

バチバチバチッ!

より激しい音が響き、衣に含まれたわずかな水分が飛び、表面がガラスのように硬質化していく。

一方、麗華姫サイド。

「さあ、できたわ」

彼女が宦官に出させたのは、透き通るような金色のスープに浮かぶ、美しい華の形をした点心だった。

湯気と共に、上品な海鮮と干し貝柱の香りが漂う。

……って、おい。

私は調理過程を横目で見ていたぞ。

宦官が持ってきた豪華な螺鈿らでんのお重から取り出して、最後の一葉(パクチー的なやつ)を乗せただけじゃないか!

完全な出来レース! レンチン料理詐欺だ! いや、レンチンですらない、ただの盛り付けだ!

「これがわたくしの『鳳凰の舞い降りるスープ』よ。どう? この透明感、この気品。そちらの泥臭い揚げ物とは格が違ってよ」

麗華姫が勝ち誇った顔で言った。

確かに、見た目は美しい。悔しいが、宮廷料理人の最高傑作だろう。透き通ったスープは芸術品のようだ。

しかし。

私はニヤリと笑い、鍋から揚げたての唐揚げを取り出した。

二度揚げによって、極限までカリッカリになった衣。

表面は細かい凹凸が黄金色に輝き、箸で触れるだけで「カツッ」と硬い音がする。

中は肉汁でパンパンに膨らんでいるのがわかる。

「ふふっ……麗華様。料理において、見た目よりも大事なものをご存知ですか?」

「なんですって?」

「それはね……『背徳感』と『熱量カロリー』、そして『食感クランチ』よ!!」

私は揚げたて熱々の唐揚げを、大皿(洗った瓦)に山盛りにした。

米粉特有の、鋭角的に立った衣が、夕陽を浴びてテラテラしている。

そして、仕上げに荒塩と、庭で採れた山椒をパラリと振る。

「完成! 『冷宮特製・元カレへのレクイエム唐揚げ〜涙の米粉クラッシュ〜』です!」

コメント欄が爆発した。

『タイトルwww』

『美味そうすぎてスマホ舐めた』

『元カレへの復讐草www』

『米粉唐揚げ食べたことあるけどマジでカリカリなんだよな』

そして、その流れの中に、一際目立つ金枠のコメント(スーパーチャット)が投下された。

¥50,000(相当の金貨)

景:『……その元カレとかいう男は、既に処刑したのか? まだなら私がやる。八つ裂きでは生温いか?』

「ヒッ……!」

重い! 愛が重いよ景皇子! そして怖いよ!

でも、ありがとう! この勝負、勝ったも同然よ!

画面の向こうの最強の味方と、私の過去の怨念が込められたこの一皿。

負ける要素が見当たらない。

「さあ麗華様、実食です! どちらが真に心を震わせる味か、勝負!」


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