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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
冷宮編
10/23

皇子はピアノを弾くOLの夢を見るか?

画面の上部に、ポップアップが表示される。その信じられない文字列に、私の心臓は跳ね上がった。

『景皇子があなたの投稿に「いいね!」しました』

「…………はあああああああああああああああああ!?!?」

私の絶叫は、静寂に包まれた夜の冷宮に、まるで断末魔のように響き渡った。隣でウトウトしかけていた蘭馨が、飛び上がらんばかりに驚き、私の顔を覗き込む。

「ひ、姫様!?いかがなさいました!もしや、お化けでも…!?」

「お化けより怖い!というか、意味がわからない!」

私はパニックで頭をぶんぶん振りながら、手の中のスマホ画面を凝視した。蘭馨が「ひ、光る板が…何か…?」と怯えているが、今はそれに構っている余裕はない。

『景皇子があなたの投稿に「いいね!」しました』

見間違いではない。何度目をこすっても、そこにはっきりと、あの氷の彫刻のような皇子の名が表示されている。

投稿?何の投稿?私はこの世界に来てから、写真を撮るどころか、SNSアプリを開いてすらいないはずだ。震える指で、通知をタップする。すると、画面には一枚の写真が表示された。

そして、それを見た瞬間、私の記憶の蓋が、バコン!と音を立てて開いた。

そこに写っていたのは、まぎれもなく、三十路OL・山田花子だった。

スマホの画面に映し出されたその画像は、異世界に飛ばされたという現実すら吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。


「投稿? ……何の投稿?」


 思考が完全にフリーズした。

 私がこの世界に来てからというもの、このスマートフォンはただの文鎮と化していたはずだ。電波はおろか、Wi-Fiすら飛んでいない石造りの部屋で、写真は一枚も撮っていないし、SNSアプリのアイコンなど視界の端にすら入れていない。

 なのに、手の中にある無機質な板は、確かにブブッ、と不穏な振動を私の掌に伝えてきたのだ。


 嫌な予感が背筋を駆け上がる。恐る恐る、震える指先で通知バナーをタップする。

 暗い部屋の中で、液晶画面の青白い光だけが私の顔を照らし出す。そこに表示された一枚の画像――。

 それを見た瞬間、私の脳内で錆びついていた記憶の蓋が、バコンッ!! と盛大な破裂音を立てて吹き飛んだ。


「う、うわあああああ……ッ!」


 そこに写っていたのは、紛れもなく私――現世における、三十路OL・山田花子の無様な姿だった。


 場所は、小洒落たレストランバー。

 そこに写る私は、普段の私を知る人間が見れば、合成写真だと断言するだろう。それほどまでに、その姿は「山田花子」という人間のアイデンティティから乖離していた。


 本来の山田花子とは、どういう人間か。

 それは、「無」である。あるいは、「忍耐の化身」と言い換えてもいい。

 中小企業の事務職として働く私は、社内では空気のように振る舞うことを信条としていた。波風を立てず、目立たず、ひたすらに業務をこなす。集合写真に写る時ですら、私は誰かの影に隠れるように位置取りし、表情筋を死滅させたアルカイックスマイルで、背景の一部になりきるのだ。


 その理由は一つ。我が社の絶対君主、剛田社長の存在にある。


前にもいったのだが、もうみんな忘れていることだろう、ここでおさらいだ!

剛田社長は、絵に描いたようなワンマン経営者だった。

 恰幅の良い体型に、ギラギラした金の腕時計。そして口を開けば飛び出すのは、三河弁と名古屋弁が混ざり合った、独特かつ威圧的な剛田弁だ。


「おい、花子! おみゃあ、なんで定時で帰ろうとしとるんだ! まだ夜の7時だら? わしの腹時計じゃあ、まだおやつ時だがや!」


 理不尽という言葉が服を着て歩いているような男だった。

 私の前任の秘書は、剛田社長の罵詈雑言とセクハラまがいの言動に精神を病み、「適応障害」という診断書を叩きつけて辞めていった。その翌日、剛田社長は私を社長室に呼び出し、ニタニタと笑いながら辞令を渡してきたのだ。


「ええか花子。今日からおみゃあは、ただの事務員じゃにゃあ。この会社全体を見渡す『総合責任(パーフェクト・アドバイザー)』に任命してやるでよ!」


 パーフェクト・アドバイザー。

 その響きだけは立派だが、実態はただの「雑用係兼サンドバッグ」の名称変更に過ぎなかった。

 給料は一円も上がらない。手当もつかない。けれど、辞めた秘書の仕事も、総務の仕事も、社長の個人的な使い走りも、すべてが「総合責任」という言葉の下に私に降りかかってきた。


「おみゃあ、ここの数字が違うがや! どけ、わしがやる! ……あー、やっぱり細かい字は見えん。おみゃあがやれ! なんでまだやっとらんのだ、たわけ!」

「社長、お言葉ですが……」

「口ごたえするんじゃにゃあ! わしが白と言えばカラスも白くなるんだわ! おみゃあは黙って手ぇ動かしとればええんだ!」


 罵倒は日常茶飯事。

 飲み会の席では「花子は愛想がにゃあなあ、もっと女を出さな嫁に行けんぞ」と肩を抱かれーーーーセクハラギリギリ、いや完全にアウトな行為だ。

 それでも私は耐えた。

 ひたすらに耐えた。

 奥歯が砕けるほど噛み締め、拳を握りしめ、顔には能面のような「従順な部下」の仮面を張り付けた。


「……申し訳ありません、社長。すぐに修正いたします」

「……はい、ご助言ありがとうございます」


 そうやって自分を殺し、感情を押し殺し、私は「社畜・山田花子」としての生を全うしていたはずだった。


 ――お酒を一滴も飲んでいない時までは。


 写真が撮られたあの日、私は限界を迎えていた。

 連日の残業、剛田社長からの理不尽な叱責、そして「パーフェクト・アドバイザー」という名の無賃労働地獄。ストレスは私の許容量を遥かに超え、内側から食い破ろうとしていた。


 そんな私を、会社の同窓会――正確には、かつて剛田社長の下から命からがら逃げ出した元同僚たちが主催する「生存者確認会」に連れ出したのが、同期のミカだった。


 ミカは、私とは正反対の人間だ。

 彼女は私の唯一の悪友であり、私が唯一、心の内を晒け出せる存在だった。

 ミカはとにかく容量が良い。仕事はそこそこに、上司への媚びの売り方は天才的で、面倒な仕事は愛嬌ひとつで誰かに押し付ける術を心得ていた。剛田社長ですら、ミカには甘い。


「社長〜、これ分かんないですぅ〜。教えてくださぁい」

「おっ、ミカちゃんか! しょうがにゃあなあ、わしが見てやるでよ!」


 そんな風に、ミカは軽やかに地雷原をスキップしていく。

 自由で、奔放で、誰にでも愛される。

 私はそんなミカを見るたびに、「ミカっていいなーー」と、羨望と嫉妬が入り混じった溜息をついていた。彼女は私が持ち得ない「軽やかさ」を持っていたからだ。


「花子、顔死んでるよ? 今日は無礼講だってば! ほら、飲んだ飲んだ!」


 会場のレストランバーで、ミカは私のグラスに並々と赤ワインを注いだ。

 その赤い液体を見た瞬間、私の中で何かが切れた。

 プツン、と。

 それは、長年私を縛り付けていた理性の糸が断ち切られる音だった。


 私はグラスを煽った。一杯、二杯、三杯。

 空きっ腹に流し込まれたアルコールは、瞬く間に血管を駆け巡り、脳髄を麻痺させた。そして、麻痺と引き換えに、心の奥底に封印されていた「獣」を解き放ったのだ。


「あー……あーっ! やってらんねーんだよぉぉぉッ!!」


 第一声は、咆哮だった。

 普段の蚊の鳴くような声からは想像もつかない、腹の底からのドスの効いた声。周囲の視線が一斉に集まるが、酔った私にはそれがスポットライトのようにしか感じられない。


「なーにが『パーフェクト・アドバイザー』だ! ただの便利屋じゃねーか! あのクソタヌキ親父がぁ! 三河弁だか名古屋弁だか知らねーけど、方言で誤魔化せばパワハラが許されると思ってんじゃねーぞ!!」


 止まらない。一度開いた水門からは、濁流のように本音が溢れ出す。

 普段、剛田社長の前で「はい」「すみません」しか言わない私が、テーブルをバンバン叩きながら管を巻く姿に、元同僚たちはドン引きしつつも、どこか期待の眼差しを向けていた。


 そして、運命の瞬間が訪れる。

 ふらつく足取りで立ち上がった私の視界に、会場の隅に置かれたグランドピアノが飛び込んできたのだ。


「……ピアノ」


 私は吸い寄せられるように近づいた。

 酔いが回り、気が大きくなった私は、なぜか自分なら弾けるという確信に満ちていた。

 

「私、昔ちょっとだけ習ってたんだよね〜。バイエルって知ってる? 音楽の神髄はね、バイエルにあるのよ」


 誰も聞いていない講釈を垂れながら、私はおもむろに椅子に座った。

 その座り方ときたら。

 背筋を反らし、顎を上げ、まるでカーネギーホールの舞台に立つ巨匠のような威風堂々たる態度。ただし、顔は真っ赤で、目は据わっている。


「聴いてください。私の魂の叫び……曲目は、『剛田への鎮魂歌レクイエム』」


 そんな曲はない。

 だが、私は鍵盤に指を振り下ろした。


 ――ジャーン、グシャ、ガァァン!!


 美しい旋律など生まれるはずがない。「猫ふんじゃった」すら怪しいレベルの腕前なのだ。

 そこから生まれたのは、不協和音の塊だった。デタラメな和音を、ただ力任せに叩きつける。

 しかし、アルコールの力とは恐ろしいもので、私の耳にはそれが荘厳な交響曲に変換されていた。

 

 私はショパンにでもなったかのような顔つきで、デタラメな和音をジャーン、ジャーンと鳴らし、悦に入っていた。

 鍵盤を叩きつけるたびに、剛田社長の「たわけ!」という顔が砕け散っていくような快感。

 

「どうだ! これが私の才能だ! パーフェクト・ピアニストだぞコラァ!!」


 絶叫しながら、最後の不協和音をかき鳴らし、私は天を仰いだ。

 恍惚の表情。やりきった達成感。そして、スカートがめくれ上がっていることにも気づかない無防備さ。


 その、最も「イタい」瞬間を切り取ったのが、この写真だった。


 撮影したのは、もちろんミカだ。

 彼女は私の狂態を止めるどころか、腹を抱えてケラケラ笑いながらスマホを構えていた。

「最高! 花子、最高だよ! 今の顔、歴史に残るよ!」

 悪魔のような笑顔でシャッターを連写し、彼女はこう言い放ったのだ。

「これ、全世界に発信しなきゃもったいないって!」


 そして、ご丁寧にこんなハッシュタグまで付けて、勝手に私のSNSアカウントに投稿したのだ。


#三十路OLの悪あがき

#ショパンとか弾けないくせに

#雰囲気だけは一丁前

#パーフェクトピアニスト誕生

#誰か嫁にもらってやってください


 ……思い出したら、怒りと恥ずかしさで体が発火しそうになってきた。

 翌日、ひどい頭痛と共に目を覚まし、この投稿を発見した時の絶望感。

 私は震える手でミカに抗議のメッセージを送った。

『ちょっとミカ! 何してくれてんの!? 消して! 今すぐ消してよ!』


 だが、すぐに返ってきたのは、相変わらず人を食ったようなスタンプと、悪魔の囁きのようなメッセージだった。

『えー、いいじゃん。花子の黒歴史、永久保存版にしといたよ☆ 普段の死んだ魚みたいな目より、よっぽど生き生きしてたよ?(笑)』


 あまりの恥ずかしさと、二日酔いの吐き気で、私はその投稿を削除する気力もなく、記憶の彼方へと葬り去っていたのだ。

 ミカの言う通り、確かにあの瞬間、私は「生きて」いたかもしれない。剛田社長への鬱憤を晴らし、社畜の殻を破り捨てていた。

 だが、その代償がこれか。


 そう、これは紛れもなく、私の、山田花子としての、忌まわしき過去の遺物。

 後宮の石造りの部屋で、私は頭を抱えてうずくまった。

 剛田社長の怒鳴り声も、ミカの笑い声も、あの不協和音も、すべてが遠い世界の出来事だというのに。この一枚の写真が持つ「恥」のエネルギーは、時空を超えて私を苛み続けるのだったーーーーー

しかし、問題はそこではない。

なぜ、今、この投稿に?

そして何より、なぜ、清の時代の皇子であるはずの景皇子が、これに「いいね!」できるというのか?

私は恐る恐る、「いいね!」をした人物のリストを開き、そこに表示された「景」という名前のアカウントをタップした。

プロフィール画面が表示される。


アカウント名:景

プロフィール画像:水墨画で描かれた、霧深い竹林の風景画。

投稿:0件

フォロー中:1

フォロワー:1


……謎すぎる。

アカウント名は、あまりにもシンプル。顔写真もなく、投稿も一切ない。そして、極めつけはフォローとフォロワーの数だ。どちらも、たったの「1」。

まさかと思い、フォロー中のアカウントを確認する。そこには、私の、山田花子のアカウントがあった。そして、フォロワーのアカウント。それは、この「景」のアカウント自身だった。つまり、このアカウントは、私の投稿を見るためだけに存在し、そして私しか見ていない(あるいは私にしか見られていない)ということになる。

背筋が、ぞくりと冷たくなった。

一体どういうこと?考えられる可能性はいくつかある。

仮説1:景皇子も、私と同じタイムトラベラー。

彼も現代からこの世界にやってきて、スマホを持っている。そして、何らかの方法で私の元の世界のアカウントを特定し、フォローした。でも、だとしたらなぜ接触してこない?なぜ投稿ゼロの謎アカウントで?

仮説2:このスマホは、時空を超えたツール。

清の時代にいる彼が、なぜか私の過去のSNSを閲覧できる。そして、「いいね!」という概念を理解し、そのボタンを押した。…ファンタジーがすぎる。

仮説3:壮大なバグ、あるいは私の妄想。

極度のストレスが見せている幻覚かもしれない。私は自分の頬を思いっきりつねってみた。痛い。どうやら現実らしい。

仮説4:なりすましアカウント。

現代の誰かが、ドラマの景皇子になりきってアカウントを作り、偶然私の投稿を見つけて「いいね!」した。これが一番ありえそうだが、腑に落ちない点が多すぎる。なぜ今このタイミングで?なぜフォロー・フォロワーが「1」だけの、こんな奇妙なアカウントが?


「姫様…?顔色が、紙のように白くなっておりますが…」

蘭馨が、本気で心配そうな顔で私の肩を揺さぶる。私はハッとして、慌ててスマホの画面を隠した。

「だ、大丈夫!なんでもないの!ちょっと…その、故郷の知り合いかもしれない人物の痕跡を見つけて、驚いただけよ」

「故郷の…?まあ、それは…!」

蘭馨は何かを察したのか、それ以上は聞いてこなかった。彼女の優しさが、今はありがたい。

私はスマホの電源を落とし、ごくりと唾を飲み込んだ。

この小さな板は、絶望的な状況を打破するための「知恵の板」であると同時に、私の過去とこの世界を繋ぐ、全くもって不可解な鍵でもあるのだ。

景皇子。

観菊の宴で私を助けてくれた、あの美しい青年。

そして、私が冷宮に送られるのを、氷のように冷たい瞳でただ傍観していた男。

彼は一体、何者なんだろう。

謎は、深まるばかりだ。しかし、不思議と恐怖はなかった。むしろ、私の心の中では、OL時代に培われた、困難なプロジェクトに立ち向かう時のような、奇妙な闘志が燃え始めていた。

(面白いじゃない…)

サバイバル生活に、時空を超えたミステリー。望んだわけではないが、退屈とは無縁の毎日になりそうだ。

「蘭馨」

「はい、姫様」

私は、目の前の忠実な侍女に向かって、にっこりと笑いかけた。

「明日も早いから、もう寝ましょう。明日は、賢者の知恵を借りて、煙の少ない、すごく暖かいかまどを作るわよ!」

「はい!」

力強く頷く蘭馨の横で、私はボロボロの布団に身を横たえた。

景皇子の謎は、ひとまず頭の隅に置いておく。今は、目の前の現実を生き抜くことが最優先だ。

冷宮の夜は、どこまでも静かで、暗い。

しかし、私の手元には、現代の叡智が詰まった光る板がある。

そして、心の中には、新たな謎という名の、奇妙な希望の灯がともっていた。

明日になれば、きっとまた何か新しいことが始まる。そんな予感を胸に、私はゆっくりと目を閉じた。山田花子改め杏花姫の、波乱万丈な冷宮リノベーション計画と謎解きの日々は、まだ始まったばかりなのだ。


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