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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
失楽園編
1/22

吾輩は姫である。仕事はまだ無い

(うるさい……まだ月曜の朝よ……もう少し寝かせて……)

意識の底にへばりつくような、不快な電子音が鳴り響いている気がした。スマートフォンのアラームだ。スヌーズ機能を使って、五分おきに現実を突きつけてくるあの無慈悲な音。

瞼の裏には、昨夜深夜まで見続けてしまった中華ドラマの残像が焼き付いている。画面の中で冷徹な美貌を振りまいていた皇子 景様! 彼の流し目が脳裏をちらつき、胸の奥がきゅっと甘く痛むのと同時に、胃のあたりには鉛のような重圧がのしかかってきた。

ああ、そうだ。今日は月曜日だ。

朝九時からの定例会議のパワポを準備し、そのあとには理不尽な社長とのお客さんまわりが待っている。満員電車の湿った熱気、中年サラリーマンの整髪料の匂い、そして終わりの見えない残業。

(嫌だ、行きたくない。あと五分、いや三分でいいから……)

私は逃避するように、安物のせんべい布団の中で身体を丸めようとした。

いつものように、背中のスプリングが軋む音を聞きながら、湿気たポリエステルの感触に包まれるはずだった。

けれど。

寝返りを打った瞬間、世界が裏切った。

「……え?」

背中に伝わってきたのは、背骨を突き上げるような硬いスプリングの感触ではなかった。

それは、まるで雲そのものを切り取って敷き詰めたかのような、底なしの柔らかさだった。体がふわりと沈み込み、重力を忘れるほどの弾力が私を優しく受け止める。

肌に触れるシーツの感触もおかしい。何回洗濯したかわからないような毛玉だらけのジャージ越しに感じるのは、ごわついた綿ではない。もっと滑らかで、水の流れそのもののような、ひやりとした極上の肌触り。

そして、決定的な違和感が鼻腔をくすぐった。

いつもの、生活臭の染みついた六畳一間の澱んだ空気ではない。

ほのかに甘く、それでいて精神を鎮めるような深みのある香り。白檀びゃくだんだろうか、それとも沈香じんこうだろうか。高級旅館や、あるいは由緒ある寺院でしか嗅いだことのないような、高貴で静謐な「香り」が、部屋全体を満たしているのだ。

(何これ……私、アロマキャンドルなんて焚いて寝たっけ?)

いや、そんな洒落た真似をする余裕なんて、今の私の生活にはないはずだ。

まだ夢を見ているのだろうか。それとも、あまりの疲労に脳が現実逃避をして、幻覚を見せているのか。

「姫様! 姫様、杏花きょうか姫さま、お目覚めですか?」

不意に、すぐ耳元で声がした。

電子音ではない、人の声だ。それも、鈴を転がしたように清らかで、しかしどこか切迫した響きを含んだ若い女性の声。

(姫様……? 杏花……?)

知らない名前だ。けれど、その声は明確に私に向けて発せられていた。

心臓がドクンと大きく跳ねる。不法侵入? 泥棒?

恐怖が眠気を吹き飛ばし、私は弾かれたように上半身を起こした。

「だ、誰っ!?」

叫び声と共に目を見開いた私の視界に飛び込んできたのは、見慣れた光景ではなかった。

天井の隅にできた雨漏りのシミも、通販で買ったプラスチックの照明器具も、脱ぎ散らかしたストッキングがぶら下がるカーテンレールも、そこにはない。

「……は?」

喉から、間の抜けた音が漏れた。

視界を覆い尽くしていたのは、圧倒的な「赤」と「金」の世界だった。

頭上には、幾重にも重ねられた薄紅色の(うすぎぬ)が天蓋となって垂れ下がっている。その骨組みには、今にも動き出しそうなほど精緻な龍と鳳凰の彫刻が施され、金箔が鈍い光を放っていた。

視線を彷徨わせれば、壁一面には墨の濃淡だけで幽玄な世界を描き出した山水画が掛けられ、黒檀こくたんと思しき重厚な棚には、白磁の壺や珊瑚の置物が並んでいる。どれ一つとっても、博物館のガラスケースの向こう側にあってしかるべき一級品ばかりだ。

窓からは、格子越しに柔らかい朝の光が差し込み、宙を舞う塵さえも金粉のように輝かせている。

部屋の広さは、私のワンルームが四つ……いや、五つは入るだろうか。遠くに見える入り口付近には、色鮮やかな巨大な屏風が立てかけられ、外の世界とこの静寂な空間を隔てている。

(なにこれ……ドッキリ? テレビの企画?)

私は慌てて周囲を見回した。カメラは? スタッフは? 「大成功」と書かれたプラカードを持った芸人が飛び出してくる気配はない。

それとも私、とうとう夢遊病にでもなって、寝ている間にテーマパークのホテルに忍び込んだのだろうか。だとしたら犯罪だ。不法侵入で逮捕される未来が一瞬で脳裏をよぎり、血の気が引く。

混乱する頭で、私は自分の身体を見下ろした。

そこにあるはずの、高校時代のジャージあるいはヨレヨレのバンドTシャツは存在しなかった。

代わりに私の身体を包んでいたのは、淡い桃色をした、濡れたような光沢を放つシルクの寝間着だった。袖口には見たこともないほど繊細な花の刺繍が施され、動くたびにさらさらと衣擦れの音が鳴る。

(噓でしょ……この布だけで、私の一ヶ月分の給料より高そう……)

震える手で、自分の顔に触れようとする。その途中、視界に入った自分の髪に、呼吸が止まった。

私の髪は、肩につくかつかないかのボブカットで、色は繰り返したカラーリングで傷んだ茶髪のはずだ。

けれど、指先に絡みついたのは、夜の闇を溶かして固めたような、艶やかな黒髪だった。それも、腰を優に超えるほどの長さがある。一本一本が絹糸のように滑らかで、枝毛の一つも見当たらない。

「姫様、杏花姫さま。本日は一年に一度の『観菊(かんきく)の宴』がございます。ささ、お急ぎになりませんと」

呆然自失とする私に追い打ちをかけるように、先ほどの声の主が再び口を開いた。

恐る恐る声のした方へ顔を向ける。

そこには、本当に時代劇から抜け出してきたかのような衣装をまとった女性が立っていた。

髪を頭頂部で二つの輪に結い上げ、薄緑色の襦袢(じゅばん)と長いスカートのようなを身に着けている。年の頃は二十代前半だろうか。顔立ちは愛らしいが、その瞳には職務を全うしようとする強い意志と、私――この「杏花姫」に対する親愛の情が滲んでいた。

彼女は私を「杏花(きょうか)」と呼んだ。

いやいや、誰それーーーー

私の名前は山田花子やまだ・はなこ

私の名刺には、初対面の人間が必ず眉をひそめる肩書きが印刷されている。

『株式会社剛田興産 総合責任パーフェクト・アドバイザー 山田花子』

 名古屋市中村区、名駅の摩天楼の陰にある雑居ビル。そこで働く私は30歳、独身、彼氏なし。

 そして、自他ともに認める、プロフェッショナルの社畜である。

「おい、花子! どえりゃあことになったぞ! ちょっとこっち来やぁ!」

 週明けの月曜日。社長室の扉が開くと同時に、剛田厳ごうだ・げん社長の怒声がフロアに響き渡った。

 この道四十年のワンマン社長。三河弁と名古屋弁が混ざった独特の言葉を操るこの男こそが、私の飼い主だ。

「おはようございます、社長。『どえりゃあこと』とは、先日の脱税疑惑の件でしょうか? それとも、今日のゴルフコンペのメンバーが足りない件でしょうか?」

 私はデスクから一歩も動かず、PCの画面を見つめたまま冷静に返す。

「どっちも違うわ、たわけ! 手土産だわ、手土産! 今日の取引先の専務さん、あんこが嫌いで洋菓子も医者に止められとるらしいんだわ。だもんで、甘いもんが食いてゃあとか抜かしとる。なんとかせえ!」

 あんこが駄目で洋菓子も駄目、でも甘いもの。そんなことを言う大人は地獄へ落ちればいい。

「かしこまりました。錦の老舗果物店に連絡して、最高級の『太陽のタマゴ』、マンゴーの桐箱入りを押さえます。それなら文句はないはずです」

「おおっ! それだがね! おみゃあ、さすがパーフェクト・アドバイザーだわ。気が利くがね!」

 社長は満足げに頷くと、ドスドスと社長室へ戻っていった。

 私は小さくため息をつき、受話器を取る。

 ことの始まりは三年前だ。

 当時、剛田社長の秘書を務めていた女性が、社長のあまりの横暴さと理不尽な要求の数々に心を病み、ある日突然、出社拒否になった。

 総務部にいた地味で真面目だけが取り柄の私、山田花子が、とりあえずの繋ぎとして社長の身の回りの世話を命じられたのだ。もちろん今までの業務は据え置きでである。

『新しいのが見つかるまででええで、頼むわ』

 そう言われて三年。

 新しい秘書? 募集すらしていない。求人広告費がもったいないという理由と、私が「あまりに便利すぎる」という最悪な理由によって。

 私の役職『総合責任パーフェクト・アドバイザー』は、昨年の昇給の際に社長が勝手につけたものだ。

「花子は秘書なんて枠には収まらん働きぶりだでよ、もっとええ名前にしたったるわ!」

 給料は据え置きで、増えたのはわけのわからないカタカナ役職と、無限の業務量だけ。

 果物店への発注を終えた直後、内線が鳴る。

「山田です」

『おい、パーフェクト。悪いが今日の昼飯、予約しとらんかったわ。いつものひつまぶし屋、今からねじ込めるか?』

「……社長、あそこは人気店で、当日の昼なんて行列必須ですが」

『だでお前に電話しとるんだがね。お前のその肩書きは飾りか? なんとかしてちょーよ』

 飾りだ。あんたがつけたふざけた飾りだ。

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、私は「善処します」と答える。

 受話器を置き、即座にひつまぶし屋の女将の個人の携帯を鳴らす。

「あ、女将さん? 剛田興産の山田ですぅ~! ええ、いつものワガママなんですけど……はい、本当に申し訳ない! 今度、私が個人的に実家から送られてきた高いメロンお裾分けしますから! ……あ、いけます? 個室? ありがとうございます! 一生ついていきます!」

 電話を切った瞬間、ふと虚しさがこみ上げる。

 私は何をしているんだろう。

 30歳。周りの友人は結婚したり、キャリアアップしたりしている。

 なのに私は、名古屋の片隅で、わがままな老人のために、うなぎ屋に土下座(電話越し)をしている。

 午後一時。

 社長を接待に送り出し、少し遅い昼食をとるためにデスクでコンビニの味噌おにぎりを齧っていると、また社長から着信が入った。

『花子ォ! わしの万年筆、どこやった!』

「胸ポケットに入っていなければ、車の後部座席のドリンクホルダーです。さっきサインした時に置いたままにしていませんか?」

『……お、あったあった。さすがだわ。……あとな、孫の入園プレゼント、何がいいと思う?』

「お孫さんは今月で五歳ですから、今はやりの戦隊モノの変身セットをすでに発注済みです。夕方にはご自宅に届きます」

『……おみゃあ、ほんとにすごイわ』

「仕事ですから」

 通話を切る。

 すごいのではない。ただ、社長の思考回路を完全に学習してしまっただけだ。AIがビッグデータを学習するように、私は「剛田厳」という厄介な生き物の行動パターンを体に叩き込んでいる。

 もう、逃げられないのだ。

 私がいないと、この社長は万年筆一本探せないし、孫の機嫌も取れない。会社の重要書類の場所も、金庫の暗証番号も、全部私しか知らない。

「……完全に飼いならされとるなぁ、私」

 味噌おにぎりの味が、少ししょっぱく感じた。

 夜九時。

 社長は接待で錦三(錦三丁目)の街に消え、私はようやく退社する。

 地下鉄桜通線の駅に向かって歩きながら、ふとビルのガラスに映った自分を見た。

 疲れ切った顔。地味なスーツ。

 でも、背筋だけは妙に伸びている。どんな無理難題が来ても即座に打ち返す、臨戦態勢の姿勢だ。

 スマホが震える。社長からだ。

『今から二次会だわ。お前も来やぁ。わしの武勇伝を知っとる聞き役がおらんと酒がうまくねぇんだわ』

 普通なら断る。明日も早い。

 でも、私は立ち止まり、深く息を吐いてから、慣れた手つきでフリック入力する。

『了解しました。十分で到着します。ヘパリーゼ、買っていきますか?』

 送信ボタンを押すと、既読は一瞬でついた。

『さすがパーフェクト・アドバイザー! 気が利くがね! 二本頼むわ!』

 私は夜空を見上げる。テレビ塔のライトアップが滲んで見える。

 悲しいことに、私はこの理不尽な状況を、どこかで「攻略ゲーム」のように楽しんでしまっている節がある。

 社長の「おみゃあ、すごいな」という名古屋弁を聞くたびに、妙な達成感を覚えてしまうのだ。

 それが、社畜の鎖だと分かっていても。

「……はいはい、行きますよ。山田花子、ただいま参上」

 私はヒールを鳴らし、夜の繁華街へと歩き出した。

 30歳、独身、彼氏なし。

 今日も私は、わけのわからない肩書きを背負って、完璧に走り回るのだ。

午前二時。

 錦三丁目のネオンもさすがにまばらになり、タクシーを待つ酔っ払いたちの列だけが長く伸びている。

 私はその列を横目に、ため息を一つついて、アスファルトを踏みしめた。

 終電はとっくになくなった。タクシー代は会社から出るらしいが、この長蛇の列に並ぶ気力はないし、経理の佐藤さんがいい顔しない。何より、あの喧騒の余韻を家に持ち帰りたくなかった。

 ここから自宅のアパートまでは徒歩一時間。

 ヒールで痛む足を引きずりながら、私はバッグからイヤホンを取り出し、耳にねじ込む。

 スマホの動画アプリを開く。画面に映し出されるのは、極彩色の衣装をまとった美女たちと、壮大な紫禁城。

 私のささやかな、そして唯一の現実逃避。

 全七十話もある長編中国宮廷ドラマの鑑賞タイムだ。

『陛下、この薬湯をお召し上がりください……』

『ふん、其の方の企みなどお見通しだ!』

 耳元で響く、甲高い中国語のセリフと大げさなBGM。

 画面の中では、側室たちが皇帝の寵愛を巡って、毒を盛ったり、濡れ衣を着せたりと、ドロドロの愛憎劇を繰り広げている。

 広い桜通の歩道を一人歩きながら、私はぼんやりと妄想にふける。

(あーあ……私もお姫様だったらなぁ……)

 こんな深夜に、味噌カツのタレがついたスーツをクリーニングに出したり、酔っ払った社長の演説を聞きながらウコンを差し出したりしなくていい世界。

 絹のドレスをまとい、爪を長く伸ばし、「お茶」と言えば侍女がうやうやしく差し出してくれる生活。

 歩く時ですら、宦官かんがんの手を借りて優雅に一歩ずつ進むのだ。自分では何もしなくていい。ただ美しく着飾って、庭園の花を愛でていればいい。

(清朝の側室になりたい。……いや、位の高い貴妃きひがいいな)

 ドラマの中のヒロインが、ラスボスの皇太后に濡れ衣を着せられて涙を流している。

 普通なら「かわいそう」と同情するところだが、今の私の感想は違った。

(……甘い。甘すぎるわ、ヒロイン。剛田太后(しゃちょう)なら、その濡れ衣をかけられた瞬間に倍返しで怒鳴り返してくるわよ)

 ふと、冷めた思考が頭をよぎる。

 考えてみれば、この宮廷ドラマの世界も、私の職場と大差ないのではないか?

 気まぐれで絶対的な権力を持つ「剛田太后しゃちょう」。皇太后の化粧をしているあの社長が頭の中を占領していくーーーやめてーーーー

 その顔色を常に窺い、ご機嫌を取り、ライバルを蹴落とそうとする「側室たち(取引先や社内の取り巻き)」。

 そして、皇太后の命令一つで東へ西へと走り回る「宦官かんがん」。

(……あれ? 私、お姫様っていうより、完全に『有能な宦官』じゃない?)

 社長の思考を先読みし、欲しいものを差し出し、トラブルを未然に防ぐ。

 私の今のスキル、たぶん宮廷でも通用する。

 皇太后が「茶」と言う前に最高級の茶葉を用意し、刺客が来れば無表情で処理し、他の側室の嫌がらせも笑顔でスルーする。

『そちこそ、真のパーフェクト・アドバイザーよ』

 脳内の皇太后(なぜか顔は剛田社長)が、にやりと笑って褒めてくる想像をしてしまい、私は夜道で頭を振った。

「……やだやだ。妄想の中でまで働いてどうすんのよ。ってかなんで剛田社長は男でしょ!!」

 ドラマのヒロインは、ようやく逆転の一手を打ち、愛する皇子「(けい)」との愛を確かなものとしたようだ! きらびやかな衣装で微笑んでいる。

 やっぱり、綺麗だ。

 どんなにドロドロしていても、彼女たちは自分の人生の主役だ。

 私はスマホの画面を消し、夜空を見上げた。

 名古屋の街灯りで星は見えない。

「私も……いつか景様が迎えにこなかなぁ」

 独り言は、深夜の国道に吸い込まれて消えた。

 足の痛みは限界に近い。

 それでも、明日の朝九時には、完璧な笑顔で社長を出迎えなければならない。

 私は再び再生ボタンを押した。

 ドラマの続きが始まる。

 せめて家に着くまでのあと三十分だけは、この煌びやかで残酷な夢の国に浸らせてほしいーーーー

というのが私の記憶に残る昨日までの私!

「姫」なんて呼ばれる要素は、私の人生のどこを探しても一ミリグラムも存在しない。

(もしかして、まだ夢の中? 明晰夢ってやつ?)

そう思い、私は太ももをつねってみた。

「いったぁ……!」

鋭い痛みが走り、目尻に涙が滲む。夢じゃない。痛覚がある。現実だ。

「姫様? いかがなさいました? やはり昨夜の風邪気味だったのが……?」

侍女らしき女性――後に彼女が私の専属侍女であり、名は蘭馨らんけいだと判明するのだが――は、心配そうに眉を寄せながら近づいてくる。

彼女の手が私の額に触れた。ひんやりとして、心地よい。その手のひらの感触があまりにも生々しくて、私は言葉を失った。

「あ、いや……えっと……」

口から出た声は、いつもの私の、酒焼け気味で低い声ではなかった。

高く、鈴の音のように可憐で、頼りなげな響き。自分の喉から出たとは信じがたいその美声に、私自身が一番驚いて口をつぐんでしまう。

(この声……誰の声? 私の声帯、どうなっちゃったの?)

蘭馨は私の反応をどう解釈したのか、「お熱はないようですが、まだお顔色が優れませんね」と呟くと、手際よく私を寝台から引きずり下ろした。

彼女の腕力は見た目に反して意外と強く、私は抵抗する間もなく床に立たされる。足裏に触れる床板は磨き上げられ、靴下なしでも少しもざらつかない。

「さあ、まずは洗顔を。それからお着替えをしていただきませんと、皇帝陛下もお待ちでございますよ」

皇帝陛下。

その単語が出た瞬間、私の脳内で何かがカチリと音を立てた。

昨夜見たドラマ。イケメン皇帝。中華風の世界。姫と呼ばれる私。

まさか。

いや、まさかそんな。ラノベやネット小説じゃあるまいし。

「鏡……」

私は掠れた声で呟いた。

「鏡を見せて。今すぐ」

蘭馨は怪訝そうな顔をしたが、主人の命令には逆らえないというように、部屋の奥にある化粧台へと私を導いた。

そこには、私の身長の半分ほどもありそうな、巨大な銅鏡が鎮座していた。現代のガラスの鏡ほどの鮮明さはないが、磨き上げられたその表面は、光を反射して白く輝いている。

心臓が早鐘を打つ。

見たいけれど、見たくない。

もしそこに映るのが、寝不足で目の下にクマを飼い、ほうれい線が気になり始めた二十八歳の私の顔だったら?

いや、むしろその方が安心するかもしれない。ここはただのドッキリ会場で、私は騙されているだけだと笑い飛ばせるから。

けれど、もし。

もし、そこに映るのが「私」じゃなかったら?

ごくり、と唾を飲み込み、私は鏡の前に座った。

蘭馨が横から明かりを近づけてくれる。

銅鏡の中の霧が晴れるように、そこに映る「誰か」の姿が浮かび上がった。

「…………」

息が、止まった。

世界中の音が消えたような静寂が、私の頭の中を支配した。

そこにいたのは、私ではない。

挿絵(By みてみん)

山田花子の面影など、微塵も残っていない。

鏡の中にいたのは、透き通るような白い肌を持つ、絶世の美少女だった。

年齢は十六、七歳といったところだろうか。

陶磁器のように滑らかで欠点のない肌。

濡れたような輝きを宿す、少し吊り上がった大きな瞳は、星を砕いて散りばめたように煌めいている。

通った鼻筋、桜色の小さな唇、そしてフェイスラインは触れたら切れてしまいそうなほどシャープだ。

長い黒髪が背中を流れ落ち、桃色の寝間着と相まって、まるで桃源郷に咲く花のような儚さと妖艶さを醸し出している。

(いやいやいや、誰よこの美少女!)

私は鏡の中の少女に向かって、心の中で絶叫した。

試しに右手を挙げてみる。鏡の中の美少女も、優雅に右手を挙げる。

頬をつねってみる。美少女の白い頬が赤く染まり、痛みに顔をしかめる。

変顔をしてみる。……美少女が変顔をしても、それはそれで可愛いという衝撃の事実が判明しただけだった。

(私の知ってる山田花子の顔面偏差値は、こんなに高くないわよ! っていうか、これ、加工アプリとかじゃないわよね!?)

私は鏡に顔を近づけ、まじまじと見つめた。

毛穴がない。シミもない。目尻のシワもない。

あるのは、若さと美しさ、そして高貴な血筋だけが持つ圧倒的なオーラだけ。

これは、昨夜見たドラマの女優よりも、アイドルよりも、はるかに美しい。まさに「傾国」という言葉がふさわしい容貌だ。

「杏花姫さま? やはりお加減が?」

鏡の中の自分に見とれ、あるいは戦慄していた私を、蘭馨が不思議そうに覗き込んでくる。

鏡の中には、美少女と、その横に立つ心配そうな侍女の姿。

これは夢だ。夢に決まっている。

そう思いたいのに、鏡の縁の冷たい感触も、部屋に漂うお香の香りも、窓の外から聞こえる小鳥のさえずりも、すべてが残酷なほどにリアリティを持っていた。

「……なんでもないわ」

私は震える声でどうにか答えた。美少女の唇から、鈴のような声が紡がれる。

この状況を受け入れるには、私のキャパシティはあまりにも足りない。けれど、ここで「私は山田花子だ!」と叫んだところで、狂ったと思われて幽閉されるのがオチだろう。

今はとりあえず、この「杏花姫」という役を演じるしかない。

二十八年の社会人生活で培った、「理不尽な状況でもとりあえずニコニコしてやり過ごす」スキルを、まさかこんなところで発揮することになるとは。

「観菊の宴、だったかしら」

「はい、左様でございます。陛下も、杏花姫さまの琴の演奏を楽しみにしておいでですよ」

(琴!? 弾けるわけないでしょ! リコーダーだって怪しいのに!)

新たな絶望が私を襲う。

しかし、蘭馨はそんな私の内心など知る由もなく、テキパキと櫛を手に取り、私の長い黒髪を梳かし始めた。

絹糸のような髪が引っ張られる感覚。頭皮に伝わる心地よい刺激。

鏡の中で、美少女が少しずつ「高貴な姫君」へと変身していく。

鮮やかな牡丹色が刺繍された衣装が運ばれてくる。

金細工のかんざしが用意される。

紅筆が準備される。

私は鏡の中の美少女――「私」の目を見つめ返した。

その瞳の奥には、隠しきれない不安と、ほんの少しの好奇心が揺らめいている。

(わかったわよ。やってやろうじゃないの)

月曜日の朝、満員電車に揺られて会社に行くはずだった私は、今ここにいない。

ここにいるのは、傾国の美少女・杏花。

この豪華絢爛で、けれどどこか恐ろしさを秘めた宮廷で、私は生きていかなければならないらしい。

「蘭馨」

私は名前を呼んでみた。意外にも、自然に言葉が出た。

「はい、姫様」

「……最高に美しくしてちょうだい。陛下が腰を抜かすくらいにね」

どうせ夢か、あるいはわけのわからないなんかのイベントなら、楽しまなきゃ損だ。

鏡の中の美少女が、ニヤリと不敵に笑った。

その笑顔は、かつての疲れたOLのものではなく、物語の主人公にふさわしい、強気で美しいものだった。

蘭馨が嬉しそうに微笑み、私の髪に櫛を入れる。

その瞬間、窓の外から吹き込んだ風が、微かに菊の香りを運んできた気がした。

私の新しい人生――あるいは壮大な夢――の幕開けである。



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