第5話 ピエロの奇行
Wの監視網をクラッシュさせてから数時間。
深夜のコインランドリーには、乾燥機が回る低い音だけが響いていた。
俺は防犯カメラの死角で、震えながら着替えを済ませていた。
さっきまで着ていた汚泥と油まみれのコートは、ゴミ箱に押し込んだ。
代わりに身につけているのは、乾燥機から出したばかりの温かい服だ。
ヨレヨレのチノパンに、少しサイズの大きいパーカー、そして安物のウィンドブレーカー。
どれも俺のものじゃない。
ついさっき、ここに洗濯物を放置して居眠りしていた学生のカゴから「拝借」したものだ。
『サイズが合ってないわよ。袖を捲りなさい。だらしない格好は逆に目立つわ』
脳内で女の声が響く。
H。
潜入と変装のプロだ。
彼女の指示通り、俺は公衆トイレの洗面台で顔の泥を洗い流し、濡れた髪をオールバックになでつけた。
鏡に映っているのは、指名手配中のテロリストではない。
どこにでもいる、疲れた顔の中年男だ。
『財布の中身は?』
「……現金三万と、免許証、クレジットカードが一枚」
俺は、先ほど路上で泥酔していたサラリーマンからスリ取った財布を確認した。
これはSの技術だ。
俺の手は、持ち主すら気づかない速さでポケットの中身を抜き取っていた。
俺は泥棒だ。
犯罪者だ。
だが、生き延びるためには「市民」に化けなきゃならない。
「……行くぞ。反撃開始だ」
俺は小奇麗になった格好で、堂々と自動ドアをくぐり抜けた。
***
三十分後。
俺は繁華街にあるネットカフェの個室にいた。
シャワーを浴びて着替えたおかげで、店員には怪しまれずに入れた。
リクライニングシートに体を沈め、カップラーメンを啜る。
久しぶりのまともな食事だ。安っぽい塩分が五臓六腑に染み渡る。
「……生き返った」
俺は息をつく。だが、休息は長くは続かない。
Wのシステムはいずれ復旧する。
UもVも、血眼になって俺を探しているはずだ。
逃げるか?
また地下に潜るか?
ザザッ……。
脳内でノイズが走る。
今度のノイズは、これまでのような「警報」や「反射神経」ではない。
もっと粘着質で、計算高い響きを含んでいた。
――逃げるだけじゃ、いつか狩られるぞ。
――攻撃だ。奴らの足元を崩せ。
――金だ。組織の血液(資金)を抜け。
「……金だって?」
俺は箸を止めた。
俺の視線が、意思に反してPCのモニターを凝視する。
俺の指が、勝手にキーボードへ伸びた。
「おい、やめろ。俺は株なんて分からねぇぞ」
俺の呟きを無視して、指が踊る。
検索ウィンドウに打ち込まれたのは、『イージス・セキュリティ・ソリューションズ』。
組織が表向きの隠れ蓑にしている、民間軍事会社の名前だ。
株価は安定して右肩上がり。紛争地帯での実績が評価されている優良銘柄。
――空売り(ショート)だ。
――盗んだカードと身分証で口座を開け。
レバレッジを最大までかけろ。
(正気か!? 失敗したら借金まみれだぞ!)
俺の理性が叫ぶが、脳内の知識――かつて組織の資金洗浄を担当していたMの記憶――が、冷徹な抜け道を提示してくる。
俺は盗んだサラリーマンのIDを使い、海外の匿名口座を経由して、信用取引の口座を一瞬で開設した。
カチャカチャカチャッ!
俺の指が高速で動き、複雑な手続きを完了させる。
俺は震えながらエンターキーを押した。
『イージス株・信用売り注文完了』。
「……終わった。俺はもう戻れねぇ」
俺は頭を抱えた。
だが、Mの気配はまだ満足していない。
――仕上げだ。これを送信しろ。
次に俺が開いたのは、証券取引等監視委員会の内部告発フォームと、大手経済新聞のリーク受付窓口だった。
そこに添付したのは、Mが生前に隠し持っていた『イージス社の不正会計データ』と『紛争地帯での民間人虐殺の隠蔽記録』。
これらが明るみに出れば、株価は紙屑同然になる。
送信ボタンをクリック。
これで、数日以内に組織の資金源は凍結され、ボスは株主と捜査機関への対応に追われることになる。
「……えげつねぇな」
俺はPCの履歴を完全消去し、ネットカフェを出た。
外は雨が降り始めていた。
俺はフードを被り、次の目的地、郵便局へ向かう。
身なりを整えたおかげで、局員も俺を普通の客として扱った。
俺は窓口で、小さな封筒を一通差し出した。
宛先は、『警視庁・組織犯罪対策部』。 中身は、USBメモリが一本。
――過去十年分の未解決暗殺事件のリストと、現場に残されたDNAデータの照合キー。
これはLの仕事だ。
組織の顧問弁護士だった男の遺産。
この封筒が届けば、警察は組織を「ただの警備会社」として扱えなくなる。
「……普通郵便でお願いします」
「はい、お預かりします」
局員に愛想笑いを浮かべて金を払う。
Mの経済攻撃と、Lの法的攻撃。
俺は戦っていない。
ただ、爆弾のスイッチを入れて回っているだけだ。
郵便局を出ると、雨は強くなっていた。
俺は濡れながら、最後の「奇行」のために花屋へ向かった。
「いらっしゃいませ」
「……菊の花を。白いやつを、あるだけくれ」
店員が少し驚いた顔をしたが、俺がくたびれた勤め人のような格好をしていたため、「葬儀の手配を任された部下」とでも思ったのだろう。
同情的な目で注文を受けてくれた。
俺は盗んだ金で、大きな花束を作らせた。
配送伝票に、震える字で宛先を書く。
『イージス・セキュリティ社長室 オメガ様』。
メッセージカードに、俺の手が勝手にペンを走らせる。
『不良品より、愛を込めて。 ――J』
店を出た俺は、雨の中で空を見上げた。
やることはやった。
株の暴落、警察の捜査、そしてボスへの宣戦布告。
これらはすぐに効果が出るわけじゃない。
だが、確実に組織の首を絞める「毒」になる。
「……これでいいのか?」
俺は誰に言うでもなく問いかけた。
脳内のノイズが、肯定するように一度だけ強く脈打った。
***
その頃。
イージス・セキュリティ本社の最上階。
社長室の革張りの椅子に、一人の男が座っていた。
オメガ。
組織のボスであり、かつてJの親友だった男。
「Wのシステムダウンに続き、株の空売りだと? ハハッ、傑作だ」
オメガは乾いた笑い声を上げた。
「あの臆病者のJが、そんな真似をするとはな。ネズミも追い詰められれば猫を噛むか」
そこへ、秘書が青ざめた顔で入ってきた。
手には、巨大な白い花束。
「しゃ、社長。お荷物が……」
「なんだそれは。葬式の花じゃないか」
オメガは眉をひそめ、花束に添えられたカードを手に取った。
『不良品より、愛を込めて。』
「……J。貴様、私を挑発しているのか?」
オメガはカードを握りつぶし、花束を床に叩きつけた。
彼はインターホンを乱暴に押した。
「Xを呼べ。
すぐにだ。
あの不愉快な害虫を、この街ごと消し去れ!」
***
俺は公園のベンチで、雨に打たれながら冷たい缶コーヒーを握りしめていた。
寒気がする。
だが、不思議と心は落ち着いていた。
今までは「ただ逃げていただけ」だった。
だが今は違う。
俺は初めて、あいつらに牙を剥いた。
キーン……。
脳内の耳鳴りが、また強くなる。
来るぞ。
直感が告げている。
ボスの怒りが、形となってやってくる。
次の刺客は、これまでの奴らとは桁が違う。
破壊そのものを楽しむ狂人だ。
「……休憩は終わりか」
俺は空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。
カラン、と寂しい音がした。
俺は立ち上がる。
まだ死ねない。
俺の中の十九人が、そう叫んでいるからだ。
ボスの怒りが爆発! 送り込まれたのは、ビルごと吹き飛ばす爆弾魔X。
廃デパートが炎に包まれる中、Jの足は勝手に動き出す。
「ひぃぃ! なんで爆発に向かって走るんだよぉぉ!」
爆風をステップにして踊る、死のタップダンスが開幕!
第6話「爆弾とタップダンス」。
アクション全開回です!




