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第4話 幽霊のハッキング

都市は巨大な檻だった。  

俺はフードを目深にかぶり、雑踏に紛れて歩いていたが、気配を消すことなど不可能に思えた。  

視線を上げれば、ビルの壁面にある巨大ビジョン、駅の改札にあるデジタルサイネージ、さらには街ゆく人々のスマホの画面――そのすべてが、俺を敵視している。

『緊急手配。地下鉄毒ガス未遂事件の重要参考人。年齢不詳、住所不定……』

画面には、薄汚れたコートを着て逃げ回る俺の姿が映し出されていた。

さっきのビクターとの一件だ。

防犯カメラの映像だろうが、俺が「毒を撒いた犯人」として編集されている。  

ウィスキー。  

組織の情報戦担当。

AIによる画像解析と、ネット世論の誘導を得意とする「デジタルの死神」だ。  

あいつは物理的に手を下さない。

代わりに、社会そのものを凶器に変えて俺を殺しに来ている。

「……喉が渇いた」

俺は自動販売機の前で立ち止まった。

小銭はあるが、使いたくない。

現金を使い果たせば終わりだ。  

俺は震える手で、ポケットからICカード乗車券を取り出した。

まだ残高があるはずだ。  

読み取り機にかざす。

ブーッ!

不快なエラー音が鳴り響いた。  

販売機の液晶画面に、赤い文字で『利用停止ロック』と表示される。

それどころか、内蔵カメラがギョロリと俺の顔に向けられた気がした。  

俺は悲鳴を上げてカードを取り落とし、逃げるようにその場を離れた。  

銀行口座も、クレジットカードも、そしてこの交通系ICカードも。

俺に紐づく全てのIDは死んだ。  

今の俺は、このデジタル社会において「存在してはいけないバグ」だ。

ブブブブ……。  

懐に入れていたガラケーが震えた。  

俺はビクッとして立ち止まる。

この番号を知っているのは、裏の仕事の仲介屋だけだ。

助け舟か?  

俺は縋るような思いで通話ボタンを押した。

「……もしもし?」

『よう、J。随分と派手にやったな』

スピーカーから聞こえてきたのは、仲介屋のダミ声ではなく、機械的に加工された合成音声だった。  

背筋が凍る。

Wだ。

『逃げても無駄だぞ。顔認証システム、Nシステム、消費履歴……この街の全ての「目」が僕の支配下にある。お前の心拍数すらモニターできるんだ』

「ふ、ふざけんな……! 俺をどうする気だ!」

『どうもしないさ。ただ、兵糧攻めにするだけだ。お前は水一本買えない。電車にも乗れない。野垂れ死ぬのを、高みの見物させてもらうよ』

プツン。

通話が切れた。  

俺は携帯を握りしめたまま、その場に崩れ落ちそうになった。  

見られている。

空から、壁から、他人の携帯から。  

逃げ場なんてない。

ここは透明な監獄だ。

その時だった。

ピガーッ……!

脳内で、ファックスを受信したような甲高い電子音が炸裂した。  

頭が割れそうだ。

俺は路地裏の壁に手をつき、嘔吐きそうになるのを堪えた。  

まただ。

また「あいつら」が騒ぎ出した。

視界が明滅する。  

目の前の風景――薄汚れた路地の壁、配管、そして古ぼけた公衆電話――に、緑色の文字列が重なって見えた。  

マトリックス? 

いや、これはソースコードだ。

――バックドア検知。  

――レガシーシステムへのアクセス推奨。  

――ポート開放。

(な、なんだこれ……英語か? 意味が分からねぇ!)

俺はPCなんて動画サイトを見るくらいしか使えない。

ハッキングの知識なんてゼロだ。  

だが、脳内の「誰か」が、猛烈な勢いでキーボードを叩くように、俺の思考をハックしていく。  

俺の足が、勝手に動いた。  向かった先は、埃を被った緑色の公衆電話。スマホの普及で誰も使わなくなった、都市の遺物。

俺は受話器を取り上げ、硬貨を入れた。  

ダイヤルを押すのではない。  

俺の指は、受話器のフックスイッチ(電話を切る突起)を、目にも止まらぬ速さでカチカチと連打し始めた。

「な、何やってんだ俺は!?」

俺の口が勝手に動く。  

フックスイッチのリズムに合わせて、俺は奇妙な口笛を吹き始めた。  

ピー、ヒョロロ、ガガーッ。  

昔のインターネット接続音(モデム音)のような、不快な電子音を、俺の喉が正確に再現している。

――音響カプラによる強制介入。  

――電話交換機のデバッグモード起動。  

――管理者権限ルート奪取。

脳裏に浮かぶ専門用語。  

これは俺じゃない。

かつて組織にいた、引きこもりの天才ハッカー、インディアだ。  

あいつは死ぬ前、「世界中のシステムに裏口を作った」と豪語していた。  

まさか、こんなアナログな方法で?

受話器の向こうで、ツー、という発信音が消え、代わりに『アクセス・グランテッド(承認)』という無機質な合成音声が聞こえた。  

繋がった。  

どこへ? 

Wのメインサーバーへだ。

俺は公衆電話の下にある、メンテナンス用の小さなジャックの蓋を爪でこじ開けた。  そこに、ポケットに入っていたガラケーの充電端子の配線を無理やり引きちぎって突っ込む。  

火花が散る。  

ガラケーの画面が真っ黒になり、次の瞬間、高速で文字列が流れ始めた。

『システム侵入成功。ターゲット:ウィスキー

「う、嘘だろ……」

俺は震える手でガラケーを操作した。

いや、操作させられた。  

Wは最新の光回線と衛星通信を使っているはずだ。  

だが、Iの知識が教えてくれている。  

『最新の城も、土台は古い石垣の上に建っている』  

この都市の通信インフラの基盤は、数十年前に作られた古い電話回線網だ。Wは最新の表層ウェブしか見ていない。

地下深くを走る、この「電話線」という旧式の裏道には気づいていない。

俺の指がガラケーのキーを叩く。  

エンターキーを押した瞬間。


 ***


数キロ離れた高級マンションの一室。  

Wは、六つのモニターに囲まれ、優雅にコーヒーを啜っていた。  

画面には、Jが公衆電話で立ち尽くしている姿が映っている。

「哀れだねぇ。ママに電話でもしているのかな?」

Wが嘲笑った、その時だった。  

全てのモニターが、一斉に赤く染まった。

『SYSTEM ERROR』 『GHOST LOGIN DETECTED』

「なっ、なんだ!? ファイアウォールは完璧なはずだぞ!」

Wがコーヒーを取り落とす。  

キーボードを叩くが、反応しない。

画面に、一昔前のドット絵のような、髑髏ドクロのマークが表示される。  

そして、スピーカーから、俺の声――いや、加工された合成音声が響いた。

『よう、W。随分といい部屋に住んでるな』

公衆電話の受話器に向かって、俺は脳内の指示通りにセリフを吐いた。  

声が震えないように必死だった。

『お前の監視システム、電気代がかかりすぎだ。少し節電した方がいい』

「き、貴様、何を――」

バシュンッ!!

マンションの部屋中の照明が弾け飛んだ。  

それだけではない。

WのPC、サーバー、空調、すべてが一斉にショートし、黒煙を吹き上げた。  

俺(I)がやったのは、ハッキングによるデータの盗難ではない。  

Wの部屋のスマート家電と電源管理システムを暴走させ、コンセントからの供給電圧を一〇〇ボルトから一〇〇〇ボルトへ跳ね上げたのだ。  

物理的な「過負荷オーバーロード」。

「熱っ! あつっ!」

Wが悲鳴を上げてヘッドセットを投げ捨てるのが、音声だけで伝わってきた。  

モニターの向こうで、スプリンクラーが作動し、水浸しになった機材が次々と死んでいく音がする。

俺は公衆電話のフックを静かに置いた。  

ガラケーの画面には、『作戦完了。ログ消去』の文字。

「……はぁ、はぁ……」

俺はその場にへたり込んだ。  

足がガクガク震えている。  

やった。やってしまった。  

最新鋭のサイバー攻撃を、公衆電話と口笛だけで撃退してしまった。

通りを行く人々が、怪訝な顔で俺を見ている。  

頭上の大型ビジョンを見ると、ニュース映像がプツンと途切れ、カラーバーが表示されていた。  

Wのシステムがダウンした影響で、街中のサイネージが一時的にブラックアウトしているのだ。

「……ざまぁみろ」

俺は小さく呟いた。  

脳内のノイズが、満足げにフェードアウトしていく。  

インディア

引きこもりの根暗な野郎だったが、とんでもない遺産を残していきやがった。

俺は立ち上がり、壊れたガラケーをゴミ箱に投げ捨てた。  

これで通信手段も失った。

金もない。  

だが、俺を見る「監視の目」は、しばらくの間潰れたはずだ。

俺はフードを被り直し、静かになった街へと歩き出した。  

頭痛はまだ残っている。  

次に目覚めるのは誰だ? 

爆弾魔か、詐欺師か、それとも……。

俺は自分のこめかみを押さえ、皮肉な笑みを浮かべた。  

十九人のイカれた天才たちとの同居生活は、まだ始まったばかりだ。

監視網を突破したJ。

次に脳内で目覚めたのは、横領のプロ(会計士)!?

「逃げるのは終わりだ。奴らの財布(株価)を燃やすぞ」

PC一台で組織を追い詰める、えげつない経済攻撃が始まります。

そしてボスへ送りつける、最大の「煽り」とは……?

第5話「ピエロの奇行」へ続く!

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