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第3話 死神たちのスキルツリー

下水道のマンホールを頭突きで押し上げると、そこは路地裏の吹き溜まりだった。  

午後の日差しが、暗闇に慣れた目には暴力的なほど眩しい。  

俺は泥と油にまみれた体を引きずり出し、よろめきながら壁に手をついた。  

通行人たちが「うわっ、臭せぇ」と露骨に顔をしかめて避けていく。

俺はコートの襟を立てて顔を隠した。  

好都合だ。

今の俺は透明人間になりたい。

「……腹減った」

命の危機を(不可解な力で)脱した途端、今度は猛烈な空腹感が襲ってきた。  

緊張の糸が切れた反動だ。

俺の胃袋は、ここ数時間で一生分のアドレナリンを消費し尽くしている。

ふと、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。  

路地の出口、大通りに面した場所にホットドッグの屋台が見える。

鉄板の上でソーセージが焼ける音、ケチャップの赤、マスタードの黄。  

俺の足は、磁石に吸い寄せられるようにそちらへ向いた。  

金ならポケットに小銭が入っている。

一本くらい食ってもバチは当たらないだろう。

その時だった。

ザザッ……!

脳内で、ラジオのノイズのような音が爆ぜた。  

ドローンを撃墜した時と同じ、あの不快な感覚。

頭蓋骨の内側を金属タワシで擦られるような、強烈な違和感。  

俺はピタリと足を止める。

(……なんだ? またかよ)

幻聴か? いや、それにしてはリアルすぎる。  

俺の視線が、自分の意志とは無関係に、ホットドッグ屋の店主の手元に吸い寄せられた。  

愛想のいい太った店主が、ケチャップのボトルを新しいものに交換している。

何気ない動作だ。  

だが、俺の脳裏に、勝手に「成分分析データ」のような無機質な情報が浮かび上がった。

――粘度の異常低下。  

――揮発性の微粒子。  

――微かなアーモンド臭。

(アーモンド? ホットドッグにか?)

俺の理性が疑問を抱くより早く、脳髄に冷徹な答えが弾き出された。  

知識の奔流が、俺の食欲を恐怖で塗りつぶしていく。

――シアン化カリウム(青酸カリ)。

経口摂取後、数秒で呼吸中枢麻痺。即死。

「うぷっ……」

俺は口元を押さえて後ずさった。  

匂いなんてここまで届くはずがない。

俺の鼻は腐った下水の臭いで麻痺しているはずだ。  

なのに、俺の脳が「あれは毒だ」と断定し、強烈な拒絶反応を起こさせている。

俺はホットドッグ屋から目を逸らし、逃げるようにきびすを返した。  

すれ違いざま、ショーウィンドウのガラスに映った自分の顔を見る。  

俺はひどい顔をしていたが、その後ろ――人混みの中に、一人のサラリーマン風の男がこちらを見ているのが映った。

清潔なスーツ。銀縁の眼鏡。手にはアタッシュケース。  

目が合った瞬間、男がニヤリと笑った気がした。

(……ビクターッ!)

心臓が凍りついた。  

間違いない。

かつて俺が所属していた組織の同僚。  

AからZまでのコードネームを持つ「ミサイラー」の中でも、最も陰湿で、最も芸術的な殺しを好む男。  

毒物と薬物のスペシャリスト、Vだ。

あいつだ。あいつが先回りして、俺の逃走ルート上にある屋台に毒を仕込んで待ち構えていたんだ。  

アップリンクのドローンが失敗したから、次はVが出てきた。  

奴らは俺を追い詰めるゲームを楽しんでやがる。

「ひぃぃッ!」

俺は人混みをかき分けて走った。  

怖い。

どこに罠があるか分からない。  

自動販売機の釣り銭口に毒針があるかもしれない。

手すりに接触毒(VXガス)が塗られているかもしれない。

すれ違いざまに傘の先端で刺されるかもしれない。  

世界中が地雷原に見える。

ザザッ、ザザッ。  

脳内のノイズが強くなる。

まるでカーナビゲーションのように、俺に進むべき道を指示してくる。  

言葉ではない。

だが、強烈な「直感」として脳に響く。

――右だ。風上へ回れ。  

――人混みを利用して視線を切れ。

「だ、誰なんだよ……!」

俺は泣きそうになりながら、それでも頭の中の「直感」に従って右へ曲がった。  

自分の判断じゃもう動けない。

臆病な俺なら、パニックになって大通りへ飛び出し、車に轢かれているところだ。  この奇妙な「勘」に従うしか、生き延びる道がない。

俺が飛び込んだのは、雑居ビルの裏口だった。  

薄暗い廊下には、清掃用具や業務用の洗剤ボトルが無造作に置かれている。  

突き当たりまで走って、俺は絶望した。  

行き止まりだ。鉄扉には鍵がかかっている。

背後のドアが、ギィと音を立てて開いた。  

コツ、コツ、コツ。  

革靴の音が近づいてくる。Vだ。  

逃げ場はない。

「……おいおい、ネズミごっこは終わりか? J」

 気障な声が響く。  

俺は震えながら振り返った。  

Vがそこに立っていた。

手にはサイレンサー付きの銃……ではなく、スプレー缶のようなものを持っている。

防毒マスクもつけていない。ということは、自分には影響がなく、俺だけを殺すような種類の毒か?

「組織の面汚しが。A達があんなに立派に散ったのに、お前だけがのうのうと生きているのが我慢ならなくてね」

Vがスプレーのノズルに指をかける。  

死ぬ。ここで毒ガスを浴びて、泡を吹いて死ぬんだ。  

ミサイラーの裏切り者に用意される末路としては、あまりにありふれている。

ガタガタと震える俺の手が、ふと、棚の上の洗剤ボトルに触れた。

バチッ!

まただ。

脳内でスパークが弾ける。  

今度は「映像」じゃない。

「知識」が奔流となって流れ込んできた。  

それは俺が一度も勉強したことのない、専門的な化学式と反応プロセスの羅列。

――棚の左、塩素系漂白剤(次亜塩素酸ナトリウム)。  

――足元、酸性トイレ用洗剤(塩酸)。  

――換気扇は停止中。空間容積、約十二立方メートル。

(……混ぜるな危険?)

洗剤のラベルに書いてある文言が、俺の脳裏に浮かぶ。  

主婦でも知っている常識だ。

だが、今の俺の脳は、それを「事故の注意書き」としてではなく、「反撃のためのレシピ」として認識していた。

――混ぜろ。  

――その二つを混合すれば、猛毒の塩素ガスが発生する。  

――致死量は必要ない。

目と呼吸器を潰せば、あいつは止まる。

「な、何を……」

俺の意識は「そんなことしたら俺も死ぬだろ!」と拒否している。  

だが、体はまるで熟練の化学兵器開発者のように、迷いなく動いた。  

俺の意思を乗っ取って、勝手に腕が動く。

俺は震える手で漂白剤のキャップをねじ切り、床にあったプラスチックのバケツを蹴り飛ばしてVの方へスライドさせた。  

同時に、酸性洗剤のボトルを力任せに握りつぶし、その中身をバケツめがけて噴射する。

「うわぁぁぁッ! 知らねぇぞ! 俺は知らねぇからな!」

俺は叫びながら、ポケットから取り出したハンカチ(さっきの泥水で偶然濡れていたものだ)を顔に押し当て、床スレスレまで伏せた。

バシャッ!  二つの液体が混ざり合う。  

シュワシュワという不吉な泡立ち音と共に、刺激臭のする黄緑色のガスが猛烈な勢いで発生した。

「なっ……!?」

Vの余裕の表情が凍りつく。  

狭い廊下は一瞬にして毒ガスの充満するガス室と化した。  

塩素ガスは空気より重い。

床に伏せている俺の頭上を、死の霧が通り過ぎていく。  

だが、立っていたVはまともにそれを食らった。

「ぐ、がぁッ! き、貴様……!」

Vが喉をかきむしり、激しく咳き込む音が聞こえる。  

スプレー缶を取り落とし、涙と鼻水を垂れ流して悶絶している。  

毒のプロフェッショナルが、ありふれた家庭用洗剤の化学反応に虚を突かれ、無様に這いつくばる。

なんという皮肉だ。

(逃げろ! 今だ!)

脳内の指令に従い、俺はVの脇をすり抜けて非常口へと這い進んだ。  

俺だって苦しい。

目も喉も焼けるように痛い。

皮膚がピリピリする。  

だが、呼吸困難に陥っているVよりはマシだ。

非常口の重い扉を押し開け、外の空気を吸い込んだ瞬間、俺は路地裏で盛大に嘔吐した。  

胃の中身なんてない。黄色い胃液だけがアスファルトに広がる。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

俺は壁に手をついて、何とか立ち上がった。  

自分の手を見る。  

どこにでも売っている洗剤。

それを一瞬で「兵器」に変える判断。

躊躇のなさ。  

俺のものじゃない。

絶対に違う。  

俺はただの臆病な「不発弾」だ。

化学の成績なんて赤点だった。

かつて組織にいた、偏屈な科学者のデルタならともかく、俺にこんな真似ができるはずがない。

「……誰だ」

俺は掠れた声で、自分の頭に向かって問いかけた。  

恐怖よりも、困惑が勝っていた。

「俺の中に……誰がいる?」

返事はなかった。  

ただ、頭の奥のノイズが、ふっと和らいだ気がした。  

まるで、俺の問いかけを聞いて、「ようやく気付いたか」と誰かがニヤリと笑ったような気配を残して。

俺はよろめきながら歩き出す。  

Vは無力化した。

だが、殺してはいない。

あいつらは執拗だ。

すぐに次の手が来るだろう。    

街の大型ビジョンには、ニュース速報が流れていた。  

『雑居ビルで異臭騒ぎ。警察はテロの可能性も含めて捜査中』  

もうニュースになっている。

ウィスキーの仕事だろう。

情報操作で俺をテロリストに仕立て上げ、市民全員を「監視の目」にするつもりだ。

「……ふざけんなよ」

俺は中指を立てたかったが、気力がなくてやめた。  

ただ、一つだけ分かったことがある。

俺はもう、ただ逃げ惑うだけの「獲物」じゃないらしい。  

俺の頭の中には、とんでもなく危険で、お節介な「スキルツリー(能力図)」が埋まっている。

俺はフードを目深にかぶり直し、雑踏の中へと消えた。  

脳内のノイズは、まだ止む気配がなかった。

物理攻撃を凌いだJを待っていたのは、情報戦のスペシャリストウィスキー

電子マネーもスマホも使えない! 

社会的に抹殺されたJが選んだ反撃手段は……「公衆電話」と「口笛」!?

昭和の遺物が、最新鋭のセキュリティを粉砕する!

第4話「幽霊のハッキング」。

ここから反撃開始です!

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