第2話 臆病者の最適解
下水道の中は、腐った卵とカビ、そして巨大都市が排泄した汚泥の臭いで満ちていた。
頭上のマンホールの隙間から、頼りない光の筋が一本だけ差し込んでいる。
俺はその薄暗いコンクリートの縁に座り込み、泥だらけになった靴の紐を結び直していた。
指先が震えて、うまく結べない。
爪の間には黒いヘドロが詰まり、さっきの無様な逃走劇で擦りむいた膝が、ズキズキと熱を持って痛む。
「……クソッ。クソッたれが。なんだってこんな目に」
俺は悪態をつき、濡れて額に張り付いた前髪を乱暴にかき上げた。
心臓のドラムロールはまだ鳴り止まない。
さっきのダイナーでの狙撃の恐怖が、骨の髄まで染み付いている。
静かにしたい。
今はただ、この世の誰からも見つからない場所で、泥のように眠りたい。
だが――俺の頭の中は、酷い耳鳴りで満たされていた。
『――――――』
キーン、という金属音のような高いノイズ。
まるで、周波数の合わないラジオを無理やり脳味噌に埋め込まれたようだ。
時折、砂嵐のような雑音の中に、意味のない映像のフラッシュバックや、知らない誰かの感情が混線してくる。
怒り、焦燥、嘲笑、そして断末魔の苦悶。
「……痛ぇな。黙れよ、静かにしろ」
俺はこめかみを泥だらけの拳でゴンゴンと叩いた。
逃亡生活のストレスだ。常に何かに怯えて暮らしているせいで、俺の神経は参っちまっている。
自律神経失調症か、あるいは統合失調症の前兆か。
さっきの逃走劇もそうだ。
あの時、俺はなぜか「転べば助かる」と確信した。テーブルの下に潜れば安全だと、理屈ではなく体が勝手に判断した。
まるで、見えない誰かに首根っこを掴まれて、無理やり頭を下げさせられたような感覚。
ただの火事場の馬鹿力だ。
過剰なアドレナリンが、俺の脳を一時的にオーバークロックさせただけに過ぎない。
そうに決まっている。
俺は特別な人間じゃない。
ただの、運がいいだけの臆病な「不発弾」だ。
俺は大きく息を吐き、冷たいコンクリートの壁に背中を預けた。
ポケットから、濡れてひしゃげたタバコの箱を取り出す。
一本だけ、奇跡的に無事なものがあった。
震える手でそれを口にくわえ、ライターを探す。
その時だった。
ザッ……。
脳内のノイズが、一瞬だけ変質した。
砂嵐のような音が一瞬止み、代わりに背筋を凍らせるような、明確な「警告」の信号が脳幹を突き刺した。
言葉ではない。
だが、それは「動くな」という命令よりも強烈に、俺の体を硬直させた。
(……え?)
俺は顔を上げた。
静かだ。
天井から汚水が滴る音と、遠くでネズミが走る音しかしない。
だが、俺の首筋の産毛が逆立っている。
胃袋が縮み上がるような、強烈な不快感。
何かがおかしい。
何かが近づいている。
俺の目は、無意識のうちに暗闇の奥――配管が複雑に入り組んだ天井付近の一点を凝視していた。
ブゥン……。
低い、虫のような羽音。
闇の中に、二つの赤い光点が浮かび上がった。
ドローンだ。
手のひらサイズのクアッドコプター。
その無機質なカメラレンズが、ギョロリと動き、正確に俺を捉えた。
機体の下部には、不吉な白い粘土のような塊――プラスチック爆弾(C-4)らしきものがぶら下がっているのが見えた。
「ひっ……!」
俺は悲鳴を飲み込み、くわえていたタバコを落とした。
弾かれたように立ち上がり、反対方向へと走り出す。
Uの仕業だ。
あの執念深い盗撮魔め。
狙撃に失敗したから、今度はハイテク玩具で俺を爆殺する気か。
以前の「U」はただの優秀なスナイパーだったが、二代目を襲名した今の奴は、テクノロジーを駆使する冷酷な狩人だ。
俺のようなアナログな人間が一番苦手とするタイプだ。
俺は泥水を蹴り上げて走る。
バシャバシャという水音が、静寂な地下道に反響する。
だが、ここは一本道だ。隠れる場所なんてない。
背後の羽音が大きくなる。速い。
相手は障害物を自動で回避し、最短ルートで標的を追尾するAIだ。運動不足でメタボ気味の中年男が逃げ切れるわけがない。
(追いつかれる! 爆発する!)
恐怖で足がもつれそうになる。
心臓が破裂しそうだ。
誰か助けてくれ。警察でもいい、通り魔でもいい、この殺人機械を止めてくれ。
俺は泣きそうになりながら、何度も後ろを振り返った。
赤い目が、確実に距離を詰めてきている。
死ぬ。ここで終わりだ。
俺の思考が恐怖で真っ白に染まった、その時。
バチッ!
脳内で、ショートしたような火花が散った。
視界が明滅する。
激しい頭痛と共に、俺の意思とは無関係に、一つの「イメージ」が脳裏に焼き付いた。
それは、今まさに俺が走り抜けようとしている頭上の光景だった。
――天井から垂れ下がる、一本の太い黒いケーブル。
――経年劣化でひび割れた被覆。
――内部に見える、剥き出しの銅線。
――流れているのは、地下鉄用の高圧電流、直流六〇〇ボルト。
「……あ?」
俺は走りながら、何かに操られるように天井を見上げた。
あった。
脳裏に浮かんだイメージと寸分違わぬ場所に、切れかけた送電線がぶら下がっている。
普段なら気にも留めない、ただの産業廃棄物のようなゴミだ。
なのに、今の俺にはそれが、なぜか「唯一の武器」に見えた。
(武器? バカなこと言うな! あんなのぶつけたら、衝撃で爆弾が爆発して共倒れだ!)
俺の理性が叫ぶ。
当然だ。
爆弾を積んだドローンに電気ショックを与えれば、誘爆して俺も吹き飛ぶ。
そんな自殺行為ができるか。
だが、脳内のノイズはもっと強く、冷徹に俺の恐怖を否定した。
まるで、爆発物の専門家が耳元で講義をしているかのように、知識が流れ込んでくる。
――違う。
プラスチック爆薬は極めて安定している。
火にくべても燃えるだけだ。
――起爆には、起爆装置からの特定の衝撃波が必要だ。
――高電圧で、信号が届く前に電子回路(基盤)を焼き切れば、それは起爆しない。ただの粘土になる。
「な、何を言って……」
専門的な知識が、奔流となって思考を塗り替えていく。
俺はそんなこと知らない。
知っているはずがない。
だが、体は納得していた。
戸惑う暇はなかった。
背後の羽音が、俺の真後ろでピタリと止まった。
ドローンが攻撃態勢に入った音だ。
ロックオン完了。
起爆信号送信まであと一秒。
「うわぁぁぁッ! ちくしょう!」
俺は半狂乱で叫びながら、理屈抜きで体を動かした。
泥の中にスライディングし、勢いのまま頭上のケーブルへ向かって手を伸ばす。
掴むんじゃない。弾くんだ。
俺の手が、何かの武術のような鋭い掌底打ちで、ケーブルの側面を強打した。
腐食していた留め具が外れ、黒い蛇のようなケーブルが勢いよく宙を踊る。
遠心力で跳ね上がった剥き出しの銅線が、空中で静止していたドローンの金属フレームに触れた。
バヂィッ!!
青白い閃光が地下道を焼き尽くした。
鼓膜が破れそうな破裂音と、大気が焦げるオゾン臭。
来る。
爆発が来る。
俺は反射的に目を覆い、泥の中に顔を埋めて体を丸めた。
死んだ。
今度こそ死んだ。
AやTたちのように、俺も肉片になって飛び散るんだ。
……しかし。
数秒経っても、熱風は来なかった。
代わりに聞こえたのは、ガシャン、という硬いものが地面に落ちる音だけ。
「……は、はは……」
俺は恐る恐る顔を上げた。
そこには、黒焦げになり、煙を上げて地面に転がるドローンの残骸があった。
積まれていた白い爆弾の塊は、焦げて煤けてはいるが、爆発することなく形を保っている。
俺はへたり込み、自分の手を見つめる。
泥だらけで、小刻みに震えている手。
いつもの、情けない俺の手だ。
「なんで……なんで爆発しなかった?」
俺の疑問に答えるように、また脳裏に知識が浮かぶ。
――六〇〇ボルトの過電流。
――電子信管のブリッジワイヤーが、起爆信号を受け取るより早く蒸発した。
――信管を失ったプラスチック爆弾は、ただの燃えない粘土だ。
「……知るかよ、そんなこと」
俺は吐き捨てるように呟いた。
俺はただのビビリの中年だ。
爆発物の構造なんて知っているはずがない。
なのに、今の俺は、まるで「爆発物処理班のプロ」のように、一瞬で最適解を選び取った。
以前、組織にいた爆弾魔のBなら、こういう芸当をやったかもしれないが、俺には無理だ。
キーン、という耳鳴りがまた強くなる。
頭が割れそうだ。
俺の中で、何かが蠢いている。
俺の臆病な人格とは別の、もっと冷徹で、知識豊富な「何か」が、この脳味噌の中に同居しているような、気色の悪い感覚。
まるで幽霊に取り憑かれたみたいだ。
(俺は……恐怖でおかしくなっちまったのか?)
俺は濡れた髪をかきむしり、よろよろと立ち上がった。
ここに長居はできない。
Uがドローンの消失を確認すれば、次はもっと確実な殺し屋を寄越すはずだ。
足を引きずりながら、俺はドローンの残骸――ただの粘土と化した爆弾を避けて歩き出した。
暗い地下道の奥へ。
まとわりつくような頭痛と、正体不明の「直感」を引き連れて。
しばらく歩くと、地上への出口が見えてきた。
錆びついた梯子の上から、微かな風が吹き込んでくる。外の空気だ。
俺は安堵し、梯子に手をかけようとした。
だが、その風の匂いを嗅いだ瞬間。
再び、脳裏に強烈なフラッシュバックが起きた。
――甘ったるい匂い。
――喉の痛み。
――白い煙。
「……っ!」
俺はとっさに梯子から手を離し、口元を袖で覆って後ずさった。
なぜだか分からない。
外の空気は新鮮なはずだ。
だが、本能が――いや、俺の中の「何か」が警鐘を鳴らしていた。
「その出口は死だ」と。
この匂いを知っている。
これは、Vが好んで使う神経ガスの前駆体だ。
なぜ俺がそれを知っている?
俺は震える足で向きを変え、別の出口を探して歩き始めた。
理由は分からない。
ただ怖いから逃げるだけだ。
俺はまだ知らない。
この異常な「勘」の正体が、俺の中で目覚め始めた十九人の死者たちだということを。
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