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エピローグ 幸せな多重人格

南太平洋に浮かぶ、名もなき小さな島。  

コバルトブルーの海を見下ろす丘の上に、一軒の小さなレストランがあった。  

看板には、手書きの文字で『J's KITCHEN』とだけ書かれている。

ランチタイムのピークが過ぎ、店内には穏やかな波の音と、コーヒーの香りが漂っていた。

「マスター、このパスタ最高だったよ! こんな美味いミートソース、都会でも食べたことない」

観光客の男性が、空になった皿を満足げに指差した。  

カウンターの中でグラスを磨いていたジェイは、照れくさそうに鼻をこすった。

「はは、ありがとうございます。……まあ、祖母の秘伝のレシピってやつでして」

嘘ではない。  

Jの脳内で、グルメ――かつて組織の毒見役でありながら、超一流の料理人でもあった男――が、勝ち誇ったように叫んでいるからだ。

『当たり前だ! 隠し味に入れた赤ワインとナツメグの配合が絶妙なんだよ! おいJ、客にもっとアピールしろ。「私の計算し尽くされた火加減のおかげです」とな!』

(はいはい、分かったから静かにしてくれ。注文が聞こえないだろ)

Jは苦笑しながら、心の中で相槌を打った。  

Jの手際は神がかっていた。  

複数のオーダーを同時にこなしながら、フライパンを振り、盛り付けを行い、さらにはホールの客の水の減り具合まで完璧に把握している。  

これはシエラの「周辺視野」と、タンゴの「身体操作」の賜物だ。

「それにしても、この椅子も座り心地がいいな。身体に吸い付くようだ」

「ああ、それは手作りなんです。木材選びからこだわったんですよ」

Jが答えると、今度は脳内でパパ――元工作部隊のエンジニアで、日曜大工の達人――が鼻を鳴らした。

『フン、当然だ。背骨のカーブに合わせた人間工学設計だぞ。そんじょそこらの既製品と一緒にされてたまるか。おいJ、次はテラス席のテーブルを直すぞ。ニスが剥げかけてるのが気になって夜も眠れん』

(お前ら死んでるから眠る必要ないだろ……。分かったよ、後でやるよ)

Jはエプロンで手を拭きながら、レジへと向かった。  

客を見送り、売上をチェックする。  

タブレットの画面を弾く指先は、かつてWのシステムをハッキングした時のような高速操作だ。

『ふむ……原価率は適正範囲内。今月の利益は先月比一二〇%増だな。J、この調子なら隣の土地を買収して農園を作るプランも前倒しできるぞ』

マイクの冷静な分析が響く。  

かつて組織の資金を横領していた会計のプロが、今では健全なレストラン経営の参謀だ。

「……農園なんて広げたら、俺の体が持たねぇよ」

Jは独りごちて、自分用に淹れたコーヒーを啜った。  

店にはもう、J一人しかいない。  

窓の外には、水平線に沈む夕日が海をオレンジ色に染めている。  

静かだ。  

あの雨の日の激闘が、遠い昔のことのように思える。

組織は崩壊した。  

Jがばら撒いた証拠によって各国の捜査機関が動き、幹部たちは一網打尽にされた。  J自身も指名手配されていたが、リーガルの知識を駆使して司法取引を行い、別人としての戸籍と、この島での平穏な暮らしを手に入れたのだ。

Jはコーヒーカップを置き、サンドイッチを作ろうとパンを手に取った。  

すると、また脳内が騒がしくなる。

『おいJ、塩が足りないぞ。もっと振れ』

Gがうるさく指示を出してくる。

『トマトのスライスが厚すぎる! 3ミリだと言っただろう!』

『マヨネーズはカロリーが高いから控えろとあれほど……』

『ビール! ビール飲もうぜJ! 仕事上がりだろ!』

『バカ、まだ帳簿の整理が終わってないぞ!』

A、B、C……そしてYまで。  

二十人の「家族」たちが、口々に勝手なことを叫び始める。  

Jはゆで卵に塩を振ろうとして、Gの指示通りにもう一振り……しようとして、手を止めた。

「うるせぇな。塩分過多で高血圧になるぞ」

『ハッ! 死人が健康の心配をしてどうする!』

『俺たちの体はお前なんだから、お前が病気になったら俺たちも困るんだよ』

『そうだそうだ、J、もっと野菜を食え』

脳内会議は、いつ終わるとも知れない。  

Jは呆れたように肩をすくめ、それでも口元には隠しきれない笑みを浮かべていた。

一人の夜。  

かつては、いつ殺されるか分からない恐怖に震え、孤独に押しつぶされそうだった夜。  

だが今は違う。  

この頭の中には、世界一うるさくて、世界一頼りになる連中が住んでいる。

「……さて、今日も生き延びたな」

Jは誰に言うでもなく呟き、サンドイッチを頬張った。  

美味い。  

やっぱり、Gの言う通り塩を多めにした方が美味かったかもしれない。

Jはグラスを掲げた。  

誰もいない店内で、見えない二十人の家族に向かって。

「乾杯」

脳内で、盛大な「乾杯!」の声が響き渡った。    

ミサイラーJ。  

死者たちの遺産相続人は今、世界で一番騒がしくて、幸せな男として生きていた。

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