第1話 臆病者のランチタイム
フォークを持つ手が、小刻みに震えている。
アルコール中毒の禁断症状ではない。
借金取りに追われているわけでも、恋人にプロポーズする前の武者震いでもない。 理由はもっと単純で、原始的だ。
ただ、怖いのだ。
この薄汚れたダイナーに入ってから十五分間、俺の心臓は警鐘のように早鐘を打ち続け、胃袋はキリキリと悲鳴を上げている。
「……おい、客さん。食わねぇなら皿を下げるぞ」
不愛想な店員が、油で汚れたエプロンで手を拭きながら声をかけてきた。
その低い声だけで、俺の体はビクリと跳ね上がる。
俺はテーブルの上の冷めたハンバーガーを、まるで爆弾から守るかのように両腕で囲い込み、身を縮めた。
「く、食うよ。食います。いま、心の準備をしてるんだ……」
「ハンバーガーひとつ食うのに、随分な覚悟だな。冷める前にとっとと食えよ」
店員は鼻を鳴らし、ハエのたかったカウンターへと戻っていった。
無理もない。
端から見れば、俺はただの挙動不審な中年男だろう。
猫背で、目つきが悪く、季節外れの薄汚れた灰色のコートを羽織り、常に周囲をキョロキョロと見回している。
精神を病んだ浮浪者か、薬中のどちらかだと思われているに違いない。
だが、俺に言わせれば、この世界の人間の方がよっぽどどうかしている。
なぜ平気な顔をして歩ける?
頭上の看板のボルトが錆びて落ちてくる確率は?
すれ違うサラリーマンが隠し持ったナイフで刺してくる可能性は?
交差点に突っ込んでくるトラックのブレーキが故障しているかもしれないとは考えないのか?
俺の名前はJ。
かつて裏社会で「ミサイラー」と恐れられた暗殺者集団の、唯一の生き残りにして――最大の面汚しである「不発弾」。
AからZまでのコードネームを持つ二十六人の人間兵器たち。
その中で、俺だけが任務を達成できず、あろうことか敵前逃亡し、泥水をすすって生き延びてきた。
俺にあるのは、英雄的な戦闘能力でも、冷徹な殺人スキルでもない。
異常なまでの臆病さと、死への強迫的な恐怖だけだ。
俺は深呼吸をし、震える手で再びフォークを握り直した。
早く食って、早く出よう。
ここは窓が多すぎる。通りからの射線が通り放題だ。
背中の筋肉が強張って痛い。
まるで、見えない照準がうなじを焼いているような錯覚に陥る。
カチャリ。
不意に、自分の手が皿の縁に当たってフォークが落ちた。
その甲高い金属音が、極限まで張り詰めていた俺の神経を逆撫でする。
ドクン。
心臓が、ひときわ大きく跳ねた。
同時に、頭の奥で不快な音がした。
キーン……。
(……なんだ?)
嫌な予感がする。
背筋がゾワゾワと泡立つような、吐き気を催す感覚。
皮膚の下を虫が這いずり回るような不快感。
耳鳴りが止まない。
まるで、見えない誰かが俺の脳味噌に直接警告を叫んでいるような、強烈なノイズ。 ここにいてはいけない。
一秒でも早く、ここから動かなければならない。
そんな理屈抜きの焦燥感が、喉元までせり上がってくる。
「ひっ……!」
俺は小さく悲鳴を上げ、喉の渇きを潤そうと慌てて水に手を伸ばした。
だが、過剰な恐怖で痙攣した指先は、グラスを掴むどころか、勢いよく弾き飛ばしてしまった。
ガシャン! と音を立ててグラスが倒れ、氷混じりの冷たい水がズボンにかかる。
「うわぁ! つ、冷たい!」
股間に広がった冷感に、俺はパニックを起こした。
慌ててナプキンを取ろうとして椅子の上でもがき、その反動で足を滑らせる。
世界が反転した。 俺は椅子ごと後ろへひっくり返り、無様に床へ転がり落ちた。
ドンッ、と背中を打ち付ける鈍い音。天井のシミが見えた。
店内の客たちが一斉にこちらを向く。「
なんだあの酔っ払いは」という冷ややかな視線が突き刺さる。
恥ずかしい。
惨めだ。
穴があったら入りたい。
そう思った、次の瞬間だった。
バシュッ!
乾いた音が空気を裂いた。
俺がコンマ一秒前まで座っていた椅子の背もたれが、何の前触れもなく弾け飛んだ。 中の黄色いスポンジと綿が、まるで雪のように舞い散る。
一拍遅れて、通りに面した窓ガラスに、綺麗な蜘蛛の巣状のヒビが入った。
「……あ?」
カウンターの中にいた店員の目が点になっていた。
俺は床に這いつくばったまま、腰を抜かして震えていた。
今、何が起きた?
椅子が……弾けた?
あと少し。
あと少し水をこぼすのが遅れていたら。
あと少し転ぶのが遅かったら。
俺の頭は、あの背もたれのように砕け散っていた。
「て、鉄砲だ! 誰か撃ってきやがった!」
俺が裏返った声で叫ぶと、店内は一瞬の静寂の後、爆発的なパニックに陥った。
悲鳴。
怒号。
食器が割れる音。
客たちは我先にと出口へ殺到する。
Uだ。
間違いない。
組織の新しい「U」。
姿を見せずに遠距離から標的を処理する、ドローンと狙撃のスペシャリスト。
あいつが来たんだ。
俺を処分しに。
俺はとっさに近くのテーブルの下に潜り込み、頭を抱えてダンゴムシのように丸まった。
ガタガタガタと歯が鳴る音が止まらない。
怖い。
死ぬほど怖い。
やっぱり狙われていたんだ。
(逃げなきゃ……でも、どっちへ!? 出口は客で塞がってる!)
思考よりも先に、体が勝手に動いた。
恐怖でパニックになった足が、もつれるようにして俺の体を弾き飛ばす。
まるで、誰かに首根っこを掴まれて引きずり回されているかのように、俺の体は床を転がり、カウンターの方へ飛び出した。
その直後。
ドォン!
轟音と共に、さっきまで俺が隠れていたテーブルの脚が、大口径の弾丸でへし折られた。
テーブルが崩れ落ち、上の食器が粉々になる。
「ひぃぃッ!」
俺は涙目になりながら、床を滑ってカウンターの中へ転がり込んだ。
偶然だ。
ただの偶然。
ビビって転がった先に、たまたま分厚い樫の木のカウンターがあっただけだ。
俺はカウンターの裏で、荒い息を吐いた。
敵はどこだ?
窓の外、向かいの雑居ビルか?
Uの狙撃位置は?
距離は?
いや、考えるな。
考えたら死ぬ。
俺のような落ちこぼれが、現役のエリートの思考なんて読めるわけがない。
とにかく動くんだ。
止まったら死ぬ。
表はダメだ。
裏口も……いや、なんとなく嫌な予感がする。
あっちに行ったら死ぬ気がする。
根拠なんてない。
ただ、脳内の耳鳴りが「そっちはダメだ」と叫んでいる。
俺はキョロキョロと逃げ場を探した。
視界の端に、油でギトギトに汚れた業務用のレンジフードと、その奥にある換気ダクトの金網が映った。
普通なら、あんなところへ入ろうなんて思わない。
人間が通る場所じゃない。
だが、今の俺は錯乱している。
(あそこだ……あそこなら、狭くて誰も入ってこれない! 弾も届かない!)
俺は無我夢中でレンジフードによじ登った。
店員が「おい、そこは!」と何か叫んでいるが聞こえない。
邪魔だ。
どけ。
俺は金網を靴の踵で何度も蹴りつけた。
ガガン、と音がして金網が外れる。
腐った油と埃の臭いが鼻をつく。
吐き気がする。
狭い。
暗い。
ゴキブリの巣窟かもしれない。
だが、外にいる「死神」よりはマシだ。
俺は芋虫のようにダクトの中へ潜り込んだ。
スーツの肘と膝を使い、必死で這い進む。
ダクトの継ぎ目が体に食い込み、油汚れが顔にへばりつく。
涙が出てきた。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。
ただ平和に、誰も殺さず、誰にも殺されずに生きたいだけなのに。
AからTまでの連中は死んだ。
あいつらは優秀だったから、組織のために命を燃やせた。
でも俺は違う。
俺はただの、死にぞこないの臆病者だ。
外の世界では、パトカーのサイレンが近づいてきているのが遠く聞こえた。
***
十分後。
三ブロック離れたビルの裏路地。
生ゴミの集積所にあるダクトの排出口から、黒いゴミ袋の山へと、何かが転がり落ちた。
油まみれの男。俺だ。
「……ゲホッ、ゲホッ! オエッ……」
咳き込みながら、俺はアスファルトの上に大の字になった。
全身ゴミ臭い。
顔も服もドロドロだ。
さっきまで着ていたコートは、あちこちが破れて見る影もない。
最悪だ。
だが、生きている。
胸に手を当てると、心臓はまだ早鐘を打っていたが、確実に動いている。
「……はぁ、はぁ……」
俺は震える手でポケットを探り、奇跡的に潰れていなかった安物のタバコを取り出した。
マッチを擦ろうとするが、指の震えが止まらず、三本も無駄にしてようやく火がついた。
深く吸い込む。
安っぽいニコチンが肺に染み渡り、少しだけ震えが収まった。
今回も助かった。
本当に運が良かった。
ただ、コップの水をこぼして、転んで、無様な格好で逃げ回っただけだ。
Uの狙撃を、素人のドジで回避したなんて、笑い話にもならない。
そう、俺はただの「運がいい臆病者」だ。
……そうだよな?
俺はこめかみをトントンと指で叩いた。
頭の奥で、キーンという耳鳴りがしている。
まるで、誰かが騒いでいるような、たくさんの人間が囁き合っているような、不快なノイズ。
狙撃の直前、あのフォークを落とした時にも、この耳鳴りがした気がする。
「……ああ、クソ。頭が痛ぇ」
俺は誰に言うでもなく、ボソリと呟いた。
極度の緊張とストレスのせいだ。
長年の逃亡生活で、俺の頭はいかれちまってるのかもしれない。
幻聴まで聞こえるようになったらおしまいだ。 俺はよろよろと立ち上がり、ゴミの山からまだ着られそうな、サイズの合わないボロボロのコートを引っ張り出した。 今の格好よりはマシだ。
変装にもなる。
その時、上空を一羽のカラスが「アホウ」と鳴いて通り過ぎた。
俺はビクリと空を見上げ、身構える。
……ただのカラスだ。Uのドローンじゃない。
俺は安堵の息を長く吐き出し、足を引きずりながら雑踏へと消えていく。
街頭の大型モニターには、ニュース速報が流れていた。
どこかの企業の株価暴落と、きな臭い国際情勢のニュース。
人々は皆、スマホの画面を見ながら無関心に通り過ぎていく。
その群衆の中に紛れ込んだ、薄汚れたホームレスのような男――世界最高峰の暗殺組織から逃げ延びた「不発弾」に注目する者は、誰一人としていなかった。
お読みいただきありがとうございます!
次回、【爆弾ドローン vs 逃げ惑うおっさん】。
絶体絶命の地下道で、Jの脳内に異変が!? 「え、俺、高圧電線を素手で掴む……?」
臆病者の生存本能が、物理法則すら味方につける!? 第2話「臆病者の最適解」へ続く!




