『「役立たずの【修復師】はいらない」と妹に婚約者を奪われ追放されましたが、私が直していたのは国の結界だったようです。〜壊れかけの辺境伯様に拾われたら、なぜか溺愛されています〜』
「ルシア、今日をもってお前との婚約を破棄する!」
王宮の夜会、煌びやかなシャンデリアの下で、その声は高らかに響き渡った。
声の主は、この国の第一王子であり、私の婚約者であるリカルド殿下。金髪をオールバックに撫でつけ、自信に満ちた青い瞳で私を見下している。
その隣には、私の妹であるミラが、殿下の腕にギュッとしがみついていた。
「姉さん、ごめんなさい……でも、真実の愛には逆らえないの」
潤んだ瞳で上目遣いをする妹。ピンクブロンドのふわふわとした髪、守ってあげたくなるような小動物的な仕草。私とは大違いだ。
周囲の貴族たちがざわめき出し、扇子で口元を隠しながらこちらを嘲笑っているのがわかる。
「ルシア、お前のような地味で、何の役にも立たない女を王太子妃にするわけにはいかない。それに比べてミラを見ろ。彼女は伝説の『聖女』の力に目覚めたのだ!」
殿下が誇らしげに叫ぶと、会場から「おお……」と感嘆の声が漏れた。
聖女の力。それはあらゆる傷や病を癒やす、神聖な光の魔法。
対して、姉である私が持っているスキルは――【修復】。
壊れた物を直すだけの、地味な生活魔法だ。平民の職人なら重宝されるかもしれないが、高貴な身分、ましてや王族の妻としては「底辺」と見なされる能力だった。
「地味で無愛想、おまけにスキルまで貧相だ。お前のような女は、私の隣に相応しくない」
「……左様でございますか」
私は、殿下が握りしめているワイングラスをじっと見つめながら、短く答えた。
表情を変えない私に苛立ったのか、殿下はさらに声を張り上げる。
「なんだその態度は! 悔しくないのか!」
「いえ、殿下がそうお決めになられたのでしたら、私が申し上げることは何もありません」
「ふん、可愛げのない。……だが、ただ追い出すのも慈悲がないだろう」
殿下はニヤリと口角を吊り上げ、残酷な宣告を口にした。
「お前には新たな嫁ぎ先を用意してやった。北の果て、魔獣の森に隣接する『黒鉄の城』だ」
「……黒鉄の城、ですか」
「そうだ。あそこを治めるカイル・バーンシュタイン辺境伯に嫁げ。もっとも、彼は『呪われた怪物』と呼ばれているがな! 魔獣の毒に侵され、全身に醜い傷を持つ男だ。お似合いだろう?」
会場にドッと笑いが起きた。
北の辺境伯。国境を守る武門の名家だが、当主のカイル様は魔獣討伐の最前線で呪いを受け、誰も寄り付かない化け物になったと聞く。
厄介払いにはもってこいの場所だ。
「わかりました。謹んでお受けいたします」
「は……?」
私が即答したことに、殿下もミラも呆気に取られた顔をした。泣いて縋るか、怒り出すと思っていたのだろう。
残念ながら、私の中にそんな感情は欠片もなかった。あるのはただ、「やっと終わった」という安堵だけ。
「では、私は荷物をまとめてすぐに出発いたします。ミラ、お父様とお母様をよろしくね」
「え、ええ。お姉さま、元気でね……?」
私は深々とカーテシーをして、背を向けた。
背後で「なんだあの女、負け惜しみか?」「強がっちゃって」という嘲笑が聞こえる。
――パリンッ。
私が会場の扉に手をかけた瞬間、甲高い音が響いた。
振り返ると、リカルド殿下が持っていたワイングラスが、何の前触れもなく砕け散っていた。赤ワインが殿下の純白の礼服を汚し、ミラが「きゃっ!」と悲鳴を上げる。
「な、なんだ!? 粗悪品か!?」
殿下が喚いている。
私は小さく息を吐いた。
粗悪品ではない。殿下が感情に任せて強く握りしめすぎたのだ。今までは、微細なヒビが入るたびに、私が遠隔でこっそりと【修復】していたことに、彼は一生気づかないだろう。
もう、直してあげない。
私は心の中で別れを告げ、会場を後にした。
実家である男爵邸に戻り、私は必要最低限の荷物をトランクに詰めた。
両親は「聖女の親」として王宮でチヤホヤされているらしく、不在だった。私の追放についても、おそらく同意済みだろう。
私の部屋は屋根裏にある。冬は寒く、夏は暑い。
壁のあちこちには亀裂が走り、窓枠は歪んでいる。
私は壁に手を触れた。
「……解除」
呟くと同時に、パキパキと微かな音がして、壁の亀裂が少しだけ広がった。
私の【修復】スキルには二通りの使い方がある。一つは、魔力を注ぎ込んで一瞬で元通りにする「即時修復」。もう一つは、魔力を編み込んで現状を維持する「継続修復」だ。
この屋敷は古い。本来ならとっくに雨漏りし、床が抜け、隙間風が吹き荒れていてもおかしくないボロ屋敷だ。
それを私が、幼い頃から毎日毎日、人知れず魔力を注いで繋ぎ止めていた。
「今までありがとう。もう、眠っていいわよ」
屋敷全体に張り巡らせていた私の魔力を、プツリと切る。
途端に、家全体が重苦しい音を立てて軋んだ気がした。
明日からは、ドアの開け閉めがきつくなり、廊下を歩けば床板が鳴り、窓からは風が入り込むだろう。
殿下の剣も、王宮の古い外壁も、そして王都を守る大結界の綻びも。
全部、私が散歩のついでに直していたけれど、もう私の知ったことではない。
聖女であるミラの「癒やし」の力は、生物にしか効かない。
物が壊れていく恐怖を、精々味わえばいいわ。
北への旅路は過酷だった。
用意された馬車は古びていて、ガタガタと酷い揺れ方をした。御者は「こんな場所まで行きたくなかった」と露骨に不機嫌だ。
車輪が軋むたび、私は無意識に【修復】しそうになる手を、反対の手で押さえた。
一週間後、景色は豊かな緑から、荒涼とした岩肌と針葉樹の森へと変わった。
空は鉛色に淀み、空気には魔獣特有の生臭さが混じっている。
「着いたぜ。……ひでえ場所だ」
御者が吐き捨てるように言った。
目の前に聳え立つのは、断崖絶壁の上に築かれた『黒鉄の城』。
かつては堅牢な要塞だったのだろう。だが今は、見る影もなかった。
城壁はあちこちが崩れ落ち、黒い煤汚れがこびりついている。塔の屋根は傾き、窓ガラスの多くが割れていた。
まるで巨人の死骸だ。
「じゃあな、俺は帰るぞ! 金をもらっても二度と来るか!」
私と荷物を降ろすと、御者は逃げるように馬車を走らせて去っていった。
残されたのは、私とトランク一つ。そして、冷たい北風。
「……想像以上ね」
私は城を見上げた。
普通なら絶望して泣き崩れる場面かもしれない。
でも、私の胸の奥底で、何かが疼いた。
――ここ、直したい。
職人の血が騒ぐというか、あそこの崩れかけた石積み、もう少し右に重心を戻して魔力を流せば強度が戻るのに。あの窓枠、歪みを矯正すれば隙間風が止まるのに。
ああっ、門の蝶番が錆びて悲鳴を上げているわ!
「お前が、生贄の花嫁か」
不意に、地を這うような低い声が聞こえた。
錆びついた正門が、キイィィィィンと耳障りな音を立てて開く。
そこ立っていたのは、黒い甲冑を身に纏った巨躯の男だった。
兜はつけていない。顔の半分を覆う仮面。露出している肌は土気色で、首筋には血管のようにどす黒い紋様が浮き上がっている。
カイル・バーンシュタイン辺境伯。
「……王都の貴族どもも悪趣味なことだ。こんな痩せっぽちの娘を、魔獣の餌に寄越すとは」
彼は私を威圧するように見下ろした。その瞳は、諦めと拒絶で凍りついている。
きっと、私が悲鳴を上げて逃げ出すのを待っているのだ。あるいは、罵倒されるのを。
私はトランクを置くと、彼に向かって一歩踏み出した。
そして、彼の手を取る。
ゴツゴツとした、氷のように冷たい手。
「なっ……何をする! 俺に触れるな! 呪いが移るぞ!」
「動きが悪いですわ」
「は?」
「甲冑の関節部分、油が切れていますし、留め具が三箇所も歪んでいます。これでは剣を振るう時に右肩が突っかかるでしょう?」
「……お前、何を言って」
私は彼の手を離し、今度は軋み音を立てていた正門へと歩み寄った。
門柱に手を触れる。
冷たい石の感触と共に、構造の全てが頭の中に流れ込んでくる。どこが摩耗し、どこが腐食しているか。
私は、くすぶっていた魔力を一気に解放した。
「【修復】」
カッと淡い光が私の手から溢れ出し、巨大な鉄の門を包み込む。
赤錆が瞬く間に剥がれ落ち、歪んだ鉄格子が飴細工のようにぐにゃりと動いて、本来あるべき真っ直ぐな形へと戻っていく。
キーキーと鳴っていた蝶番は、滑らかな銀色の輝きを取り戻した。
数秒後。
そこには、まるで新造されたばかりのような、重厚で美しい正門が鎮座していた。
「……は?」
辺境伯が、ポカンと口を開けている。
仮面の奥の瞳が、限界まで見開かれていた。
私は満足げに手の埃を払うと、彼に向かって微笑んだ。
「はじめまして、旦那様。ルシアと申します。ご覧の通り、壊れたものを直すことしかできませんが、このお城、直し甲斐がありそうでワクワクしております」
王都での息苦しさは、もうない。
ここには、私が直すべきものが山ほどあるのだから。
これが、私と「呪われた辺境伯」との出会いだった。
私が直した正門の前で、カイル様はしばらくの間、彫像のように固まっていた。
やがて、仮面の奥から掠れた声が漏れる。
「……お前、一体何をした?」
「申し上げた通り、【修復】です。構造を理解して魔力を通せば、大抵のものは元の姿に戻りたがるものですから」
私はこともなげに答えたけれど、カイル様の混乱は収まらないようだ。
無理もない。王都のエリート魔導師たちでさえ、私のこの力は「地味な生活魔法」だと鼻で笑っていたのだから。まさか数トンある鉄の門を一瞬で新品同様にするなんて、夢にも思わないだろう。
「……中へ入れ。風邪を引く」
カイル様はそれ以上何も聞かず、背を向けた。その足取りは重く、甲冑がガチャガチャと不快な音を立てている。
私はトランクを持ち上げようとした――が、フワリと体が軽くなった。
カイル様が片手で私のトランクを奪い取り、もう片方の手で私の背中をぎこちなく支えたのだ。
「荷物は俺が持つ。……客人に重労働をさせるわけにはいかない」
「あら。お優しいのですね」
「勘違いするな。死なれたら王家に文句を言われるからだ」
ぶっきらぼうな言い方だが、その耳が赤いのが見えた。
どうやらこの「怪物」と恐れられる辺境伯様は、噂ほど恐ろしい人ではないらしい。
城の中は、外観以上に悲惨だった。
エントランスの床石は割れ、吹き抜けの天井には大きな穴が空いているせいで、雪がチラチラと舞い落ちてくる。
出迎えてくれたのは、数名の使用人と騎士たちだけ。皆、やつれて目の下に隈を作り、衣服も継ぎ接ぎだらけだった。
「よ、ようこそお越しくださいました……何もお構いできませんが……」
執事らしき初老の男性が、震える声で頭を下げる。
彼らは怯えていた。新しい女主人に、この惨状を罵倒されると思っているのだ。
「ご挨拶ありがとうございます。ルシアです。……皆様、寒くありませんか?」
「へ……?」
「まずは、ここを塞ぎましょう」
私は天井を見上げた。
高い。物理的に手は届かないけれど、視界に入っていれば問題ない。
私は右手をかざした。
「【修復】」
天井の崩れた石材が、まるで時間が巻き戻るように浮き上がり、互いに組み合わさっていく。ヒビ割れが塞がり、仕上げに古いシャンデリアの輝きまで取り戻した。
雪が止み、代わりに暖かな魔法灯の光がフロアを満たす。
「あ、ありえねえ……」
「穴が……消えた?」
騎士たちが呆然と天井を見上げている隙に、私は次々と「お掃除」を開始した。
割れた窓ガラス、修復。
腐りかけた床板、修復。
隙間風の吹く壁、修復。
ついでに、執事さんの虫食いだらけの燕尾服も、新品同様のパリッとした黒服に修復。
「おや? 腰の痛みが……服が軽くなったようでございます!」
「すげえ! 俺の剣、刃毀れが直ってやがる!」
ものの十分足らずで、廃墟同然だったエントランスホールは、王宮の広間にも劣らない優美な空間へと生まれ変わった。
寒さに震えていた使用人たちの顔に、血色が戻っていく。
「ふぅ。とりあえず、今日はこれくらいにしておきましょうか」
私が額の汗を拭うと、背後でカイル様が呻くような声を上げた。
「……お前は、魔法使いなのか?」
「いいえ、ただの修復師です。壊れたものを放っておけない性分でして」
ニッコリ笑うと、カイル様は深く溜息をつき、そして――
「……ありがとう」
消え入りそうな声で、そう言った。
仮面の下の瞳が、少しだけ潤んで見えたのは気のせいだろうか。
その夜。
食事(といっても、堅い黒パンと薄いスープだったけれど、食器とテーブルセットを私が直したおかげで豪華に見えた)を終えた後、私はカイル様に執務室へと呼ばれた。
部屋に入ると、彼は苦しげに胸元を押さえ、ソファに深く沈み込んでいた。
「……ルシア。明日、馬車を用意させる」
「え?」
「金も持たせる。だから、この城を出て行け」
彼は苦悶の表情で私を睨んだ。
「今日、お前が素晴らしい力を持っていることはわかった。だからこそ、こんな場所にいてはいけない」
「どうしてですか? 私はここが気に入りましたけれど」
「俺のそばにいると……死ぬぞ」
カイル様が震える手で、顔の仮面を外した。
露わになった素顔。
それは本来なら、彫像のように整った美貌だったはずだ。しかし今は、右頬から首筋にかけて、どす黒い植物の根のような痣が這い回っていた。
痣は脈打つように蠢き、彼の生命力を蝕んでいるように見えた。
「これは『魔王種の呪毒』だ。三年前に受けた傷が、未だに肉体を腐らせ、魔力を食らい続けている。……近寄る者にも影響が出る。お前のその不思議な力も、俺のそばにいれば枯れ果てるだろう」
彼は自嘲気味に笑った。
「俺は化け物だ。城も、領地も、俺自身も、こうしてゆっくりと壊れていくだけの――」
「動きませんね」
「……は?」
私が彼の目の前まで詰め寄ると、カイル様は目を白黒させた。
私は遠慮なく、彼が「醜い」と忌避するその痣に、そっと指先を触れた。
「や、やめろ! 腐るぞ!」
「じっとしていてください。……ふうん、なるほど」
指先から伝わってくるのは、複雑に絡まり合った魔力の「結び目」だった。
呪い、と彼は言うけれど、私にはそうは見えない。
これはただの、魔力回路の渋滞だ。
外部から侵入した異質な魔力が、彼の体内の魔力循環をせき止め、炎症を起こしている。
複雑だけど、構造さえわかれば――。
「壊れているなら、直せます」
「なっ……これは呪いだぞ!? 聖女の癒やしでも解けなかったんだ! それを修復などと……!」
「聖女様の力は『上書き』ですからね。痛いの痛いの飛んでいけ、と願うだけ。でも私は違います。原因を取り除いて、あるべき姿に『組み直す』んです」
私は彼の上に馬乗りになるような体勢で、両手を彼の頬と首筋に添えた。
驚いて固まるカイル様の瞳をまっすぐに見つめる。
綺麗なアメジスト色の瞳だ。
「少し熱くなりますよ」
「おい、待て、ルシ――」
私の全魔力を、指先に集中させる。
イメージするのは、絡まった糸を一本一本丁寧に解きほぐし、断裂した回路を繋ぎ合わせる作業。
黒い痣の奥にある「エラー箇所」を特定し、修正プログラムを流し込む。
「【修復】!」
バチバチッ! と激しい音と共に、金色の光が執務室を埋め尽くした。
カイル様が短く息を呑む。
どす黒い靄が彼の体から噴き出し、そして光に浄化されて霧散していく。
やがて、光が収まった時。
「……嘘、だろ」
カイル様が、恐る恐る自分の頬に触れた。
そこにあったはずの凸凹とした痣は消え失せ、陶器のように滑らかな肌が現れていた。
長年彼を苦しめていた鈍痛も、倦怠感も、すべて消えているはずだ。
「ほら、やっぱり元通り。カイル様、とても素敵な殿方でしたのね」
私が微笑むと、カイル様は鏡を見ることもせず、呆然と私を見つめ返した。
そして次の瞬間、強い力で抱きしめられた。
「……っ!」
痛いほど強く、けれど壊れ物を扱うように震える腕。
彼の顔が私の肩に埋められる。
「ずっと……痛かった。熱くて、寒くて、暗闇の中で一人で腐っていくのだと……」
「ええ」
「お前が、救ってくれたのか」
「救ったのではありません。直したんです。私の旦那様になる方なんですから、ピカピカでないと困ります」
冗談めかして言うと、彼は顔を上げ、濡れた瞳で私を射抜いた。
そこにはもう、拒絶の色はない。
あるのは、熱っぽいほどの情熱と、深い執着。
「ルシア。……もう離さない」
彼は私の手を取り、甲に口づけを落とした。
「お前が望むなら、世界中の宝石をこの城に敷き詰めよう。誰にも文句は言わせない。お前は俺の、俺だけの妻だ」
――あら。
どうやら私、「呪われた怪物」を直した結果、とんでもない「溺愛魔人」を覚醒させてしまったようです。
一方でその頃。
私を追い出した王都では、少しずつ、しかし確実に「崩壊」の足音が近づいていた。
王都が「異変」に見舞われたのは、ルシアを追放してからわずか三日後のことだった。
「クソッ! なんだこれは! どうなっている!」
王宮の騎士訓練場に、リカルド王太子の怒号が響き渡った。
彼の手元で、国宝級の名剣『飛竜の牙』が、無残にも真ん中からへし折れていたのだ。
ただの素振りをしただけである。魔獣の硬い皮膚を斬ったわけでもないのに、飴細工のようにパキンと折れた。
「殿下、お怪我はありませんか!?」
駆け寄ってきたのは、新しい婚約者となった聖女ミラだ。
彼女は心配そうな顔で、折れた剣に手をかざした。
「大丈夫ですわ、私が直して差し上げます。『聖女の祈り』よ、傷つきしものを癒やしたまえ……!」
淡いピンク色の光が剣を包む。
だが、光が収まっても、折れた剣は折れたままだった。
「……あれ? おかしいわね」
「ミラ、どうした? 早く元通りにしてくれ」
「も、もう一度やってみます! ……エイッ! エイッ!」
何度やっても、鉄塊はピクリとも反応しない。
当然だ。彼女の「癒やし」は細胞の活性化を促す魔法であり、金属の結合を復元する物理的な「修復」とは根本的に理屈が違うのだから。
「くそっ、役立たずの鍛冶師どもめ! 手入れを怠りおって!」
リカルドは折れた剣を投げ捨てた。
だが、異変はそれだけではなかった。
訓練を終えて執務室に戻ろうとすると、廊下の赤絨毯に足を取られた。床板が腐って抜けたのだ。
執務室のドアノブは錆びついて回らず、無理やりこじ開けると、今度は窓ガラスがひとりでに割れ落ちた。
極めつけは、昼食のスープだ。
「なんだこのぬるくて薄いスープは! 料理長を呼べ!」
「も、申し訳ございません殿下! なぜか『魔法コンロ』の魔力回路が焼き切れてしまい、火力が上がらないのです!」
リカルドは苛立ちで頭をかきむしった。
この数日、何もかもがおかしい。
愛用していた万年筆はインク詰まりを起こし、着心地の良かったシルクのシャツは肌に引っかかり、自慢の金髪を整える櫛の歯が欠けた。
まるで世界そのものが、彼に対して牙を剥いているようだった。
「……おい、まさか」
リカルドの脳裏に、数日前に追放した地味な元婚約者の顔がよぎった。
ルシア。
いつも無表情で、何かにつけて「ここが傷んでいます」「直しておきました」と報告してくる鬱陶しい女。
彼女がいなくなってから、ピタリとタイミングを合わせたように、身の回りの品々が壊れ始めている。
「まさか、あの女が……?」
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……と、地響きのような音が王宮を揺らした。
直後、窓の外の空が、紫色に染まる。
「ご報告します!! 大変です、王都を守る『大結界』に亀裂が入りました!!」
伝令の兵士が、顔面蒼白で飛び込んできた。
王宮の最深部にある『結界の間』は、パニックに陥っていた。
巨大な水晶玉――王都全体を覆う防御結界の制御装置――には、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、不穏な警告音を鳴り響かせている。
宮廷魔導師長が、脂汗を流しながら叫んだ。
「だ、ダメです! 魔力を注いでも結界の崩壊が止まりません! 構造そのものが老朽化しすぎています!」
「ええい、聖女ミラは何をしている! 彼女の祈りで何とかしろ!」
国王の怒声に応じ、ミラが必死に祈りを捧げているが、効果は皆無だった。
そもそも結界装置は「無機物」だ。聖女の管轄外である。
「お、お待ちください……この水晶に残っている魔力残滓……」
魔導師の一人が、解析魔法を使って叫んだ。
「今までこの結界を維持していたのは、王宮の動力源ではありません! 極めて繊細に編み込まれた、個人の『継続修復魔法』によって繋ぎ止められていたのです!」
「なんだと? 誰がそんな高度なことを……」
「魔力紋を照合しました……こ、これは……先日追放された、ルシア・バーンズ嬢のものです!」
その場にいた全員が凍りついた。
リカルドは口をパクパクと開閉させた。
ルシア? あの「役立たず」が?
この国の安全の要である大結界を、たった一人で維持していたというのか?
「そ、そんな馬鹿な……あいつはただの修復師だぞ……」
「殿下! ただの修復師ではありません!」
魔導師長が血相を変えて詰め寄った。
「これほど大規模な魔道具を、通常業務の片手間に、誰にも気づかれずに修復し続けるなど……『国宝級』どころの話ではありません! 彼女一人がいなくなっただけで、この国のインフラは一ヶ月保ちませんぞ!」
パリンッ。
決定的な音がして、窓の外に見えていた半透明のドーム――結界の一部が砕け散った。
隙間から、翼を持った魔獣ガーゴイルが数体、王都の上空へと侵入してくるのが見える。
街から悲鳴が上がった。
「ひ、ひいいっ!」
ミラがへたり込む。
リカルドは青ざめた顔で、しかしどこか歪んだ怒りを燃え上がらせて叫んだ。
「あ、あの女……! 王族である私に断りもなく、勝手に修復を止めるなど、許されると思っているのか!」
自分の追放が原因だという思考は、彼にはない。あるのは「自分たちの所有物だった便利な道具が、勝手に機能を停止した」という理不尽な怒りだけだった。
「父上! すぐにルシアを呼び戻しましょう!」
「う、うむ! もちろんだ! 衛兵を北へ走らせろ!」
リカルドは拳を握りしめた。
「辺境伯のところに嫁がせたとはいえ、まだ数日だ。あんな化け物相手に、まともな生活などできているはずがない。きっと泣いて後悔している頃だろう」
彼の顔に、卑しい笑みが戻る。
「『王太子妃に戻してやるから、すぐに結界を直せ』と言えば、涙を流して感謝し、這いつくばって戻ってくるはずだ。……その代わり、たっぷりと罰を与えてやるがな。国を危険に晒した罪は重いぞ」
――彼らはまだ、知らなかった。
ルシアが「呪われた辺境伯」によって、王妃以上に大切に溺愛されていることも。
そして、その辺境伯こそが、かつて国の英雄と謳われ、怒らせてはいけない「最強の騎士」であったことも。
一方、その頃。
北の『黒鉄の城』改め、ルシアの手によって白亜の輝きを取り戻した『白銀の城』では。
「ルシア、あーん」
「……カイル様。自分で食べられます」
「ダメだ。昨日は城壁の修復で疲れているだろう? 俺が食べさせてやる」
食堂で、私はカイル様に膝抱っこ(!?)をされながら、最高級のステーキを口に運ばれていた。
呪いの解けたカイル様は、それはもう眩しいほどの美丈夫だった。
銀色の髪にアメジストの瞳。肌は艶やかで、筋肉質な肉体は彫刻のよう。
そんな彼が、デレデレに甘やかしてくるのだ。使用人たちは「見てはいけないものを見た」という顔で、生温かい視線を送ってくる。
「美味しいか?」
「はい、とても」
「そうか、よかった。……ああ、ルシア。君は本当に可愛いな。このまま食べてしまいたい」
「ご飯の最中に不謹慎です」
幸せな時間。
窓の外は極寒の吹雪だが、私が断熱効果を【修復】(というより強化改造)した城内は、春のように暖かい。
魔獣の襲撃も、カイル様が指先一つで追い払ってくれる。
王都の結界が割れたことなど、微塵も知らない私たちは、平穏で甘やかな日々を過ごしていた。
……そう、あの愚かな使者が到着するまでは。
その日、白銀の城の静寂を破ったのは、品のないドアのノック音――いや、ドンドンという叩く音だった。
「開けろ! 王太子の来訪だぞ! 出迎えんか!」
外は猛吹雪だというのに、随分と元気なことだ。
私は優雅にティーカップを置き、隣に座るカイル様と顔を見合わせた。
「……来たな、ハイエナどもが」
「あら、カイル様。ハイエナに失礼ですよ。彼らは腐肉をあさって自然を綺麗にする益獣ですが、あの方々は散らかすだけですから」
「ふっ、違いねぇ」
カイル様が指を鳴らすと、重厚な扉が音もなく開いた。
雪崩れ込んできたのは、雪まみれでガタガタと震えるリカルド殿下とミラ、そして数名の近衛兵だった。
「さ、さ、寒い……! なんだこのふざけた寒さは!」
「お姉さま……どうして出迎えてくれないの……凍え死ぬかと思ったわ……」
彼らの格好は惨めだった。最高級の防寒具を着ているはずだが、ところどころ破れ、毛皮が抜けている。道中の過酷さと、メンテナンス不足が祟ったのだろう。
対して、この応接室は魔法暖炉のおかげでポカポカと暖かい。
私たちが座るソファもフカフカだ。
「よ、よくも王族を待たせたな、ルシア!」
鼻水を垂らしたリカルド殿下が、私を見つけて怒鳴り声を上げた。
しかし、部屋のあまりの豪華さと、整えられた内装に気づき、言葉を詰まらせる。
「な、なんだここは……? 廃墟だと聞いていたが……いや、そんなことはどうでもいい!」
彼はズカズカと土足で絨毯の上を歩き、私の目の前に立った。
「ルシア! 王都が大変なことになっている! 結界が割れ、城の壁が崩れ、私の剣まで折れた! すべてお前の仕業だろう!」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいませ。私はただ、この城に来てから『何もしなかった』だけですわ」
「それが罪だと言っているんだ! お前がコソコソと維持していたせいで、誰も設備の劣化に気づかなかった! 説明責任を果たしていない!」
呆れてものが言えないとはこのことだ。
私が「直しておきました」と報告するたびに、「うるさい」「黙ってやれ」「地味な女だ」と吐き捨てていたのは誰だったか。
「それで? わざわざ国境まで文句を言いにいらしたのですか?」
「迎えに来てやったんだ!」
殿下は胸を張り、恩着せがましい笑みを浮かべた。
「特別に、私の側室として戻ることを許してやる。正妃はミラだが、お前のその小賢しい修復スキルは役に立つからな。光栄に思え! こんな化け物の住む僻地から、花の王都へ帰れるんだぞ!」
隣でミラもコクコクと頷く。
彼女は私のドレス――カイル様が贈ってくれた、最高級の絹とレースで作られた真新しいドレス――を、羨ましそうに睨みつけながら言った。
「そうよお姉さま。聖女である私のサポート役をさせてあげる。壊れたものを直すなんて汚れ仕事、お姉さまにお似合いよ。……あと、そのドレス、私が貰ってあげるわ」
二人のあまりの傲慢さに、怒りを通り越して笑いが込み上げてくる。
けれど、私が口を開くより先に。
部屋の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。
「……おい」
地の底から響くような、低い声。
それまで黙って紅茶を飲んでいたカイル様が、ゆっくりと立ち上がった。
殿下たちは、そこで初めて私の隣にいた男の存在を直視したようだった。
「な、なんだ貴様は! 無礼だぞ! 私は王太……ひっ!?」
殿下の言葉が悲鳴に変わる。
カイル様が放つ圧倒的な威圧感。歴戦の騎士だけが纏う、濃密な殺気が彼らを飲み込んだのだ。
そして何より、彼らを驚愕させたのは、その容姿だった。
「だ、誰だお前は……? こんな美丈夫が、なぜここに……?」
「辺境伯カイル・バーンシュタインだ。……俺の妻に、随分な口を利いてくれるじゃないか」
カイル様が冷酷なアメジストの瞳で彼らを射抜く。
ミラが頬を染めて「え、嘘……すごく綺麗……」と呟くのが聞こえたが、カイル様はゴミを見るような目で彼女を一瞥しただけだった。
「か、カイルだと!? 嘘をつくな! 奴は全身腐りかけた怪物のはずだ!」
「ルシアが直した」
「は?」
「俺の呪いも、この城も、領地の荒廃も。すべてルシアが、その手で救ってくれた。彼女は俺の女神だ」
カイル様は私の肩を抱き寄せ、見せつけるように髪にキスを落とした。
「側室? サポート役? ふざけるな。ルシアはこの辺境伯領の、唯一無二の女主人だ。腐りかけた王都になど、金輪際返すつもりはない」
「なっ、なっ……! こ、これは王命だぞ! 逆らう気か!」
殿下が喚くが、カイル様は鼻で笑った。
「王命? 国境を守る『黒鉄の騎士団』を敵に回して、その言葉が吐けるのか? 今、王都の結界は消えているんだろう? 魔獣だけでなく、北の蛮族が攻めてきたら誰が守る?」
「そ、それは……」
「俺たちを怒らせていいのか? 今ここで、俺が『国境警備を放棄する』と言ったら、お前たちの国は明日にも滅びるぞ」
その言葉はハッタリではなかった。
カイル様の実力と、国境警備の重要性を知らないわけがない。
リカルド殿下の顔から、サァーッと血の気が引いていく。
「そ、そんな……! 待ってくれ、ルシア! お前も何か言ってくれ!」
形勢不利と悟ったのか、殿下は縋るように私を見た。
「お前はこの国の貴族だろう!? 愛国心はないのか! お前が戻れば全て丸く収まるんだ! そうだ、正妃にしてやってもいい! ミラを側室に降格させてもいいから!」
「なっ、リカルド様!?」
ミラの悲鳴を無視して、殿下は必死にまくし立てる。
本当に、どこまでも腐った人だ。
私は、冷めきった紅茶をテーブルに置き、静かに告げた。
「お断りします」
「な……ぜ……」
「私のスキルは【修復】です。形あるものなら、直すことができます。……ですが」
私は殿下の目を真っ直ぐに見据えた。
「人の心や、信頼関係。そして、あなた方の腐った性根。……そういった『形のない壊れたもの』までは、直せないのです」
殿下の顔が絶望に歪む。
「それに、もう遅すぎます。王都の結界装置は、私が長年継ぎ接ぎして保たせていた骨董品。一度完全に崩壊してしまったなら、もう『素材』が死んでいます。ゼロから作り直すには、国家予算の十年分は掛かるでしょうね」
「じゅ、十年分……!?」
「頑張って働いてくださいね、殿下。聖女様も、祈りでなんとか頑張ってください」
私が手を振ると、カイル様が衛兵たちに合図を送った。
「叩き出せ。二度と敷居を跨がせるな」
「はっ!」
「ま、待て! ルシア! 愛していたんだ! 本当だ!」
「いやぁぁぁ! こんな寒い中帰るなんて無理よぉぉぉ!」
見苦しい悲鳴を残して、元婚約者と妹は吹雪の中へ放り出されていった。
それから数年後。
王都は「灰色の都」と呼ばれるようになった。
結界を失った王都は、頻繁な魔獣の襲撃と、終わらない修復工事のために常に足場が組まれ、埃っぽい街になってしまったからだ。
復興税という名の重税が課せられ、民衆の不満は爆発寸前。
リカルド殿下は廃嫡され、責任を取らされて工事現場の監督として働かされているという。
「聖女」ミラも、癒やしの力が尽きるまで酷使され、今では誰からも見向きもされない修道院に幽閉されているらしい。
一方で。
北の辺境は、かつてないほどの繁栄を迎えていた。
私が直した道路は交易を盛んにし、私が直した農具は豊作をもたらし、私が直した城壁はどんな敵も寄せ付けなかった。
人々は笑顔で暮らし、この地はいつしか『白銀の楽園』と呼ばれるようになった。
「ルシア、今日はどこを直すんだい?」
執務室で、カイル様が後ろから私を抱きしめる。
その声は甘く、優しい。
「今日は、街の噴水を直そうかと。子供たちが遊びたがっていましたから」
「そうか。じゃあ俺も手伝おう。……その前に」
カイル様が私の顎を持ち上げ、甘いキスを落とす。
「俺の『ルシア成分』が不足している。まずはここを修復してくれないか?」
「もう、カイル様ったら。どこも壊れていませんよ」
私たちは笑い合う。
壊れかけた人生は、もう綺麗に直った。
ここには、二度と壊れることのない、温かな幸せだけが満ちているのだから。
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