二、それは突然現れる
本と机しかない部屋に無機質な珠算を打ち鳴らす音が響き渡る。
「はぁー」
まるで精密機械の如き速さで計算をこなしていた凛樹は大きくため息をつく。あまりにも風量が多いせいか、机の上にある紙をあわや飛ばしてしまうところであった。眉間に深い皺を刻み何やら重苦しい顔で机に突っ伏している。
(一体あいつはなんだったんだ)
あの男の突然の登場&幕引に未だ動揺が隠せない凛樹。突然現れ助けたと思ったら逃げていきやがった。名も名乗らずに立ち去る不可解さ。私があいつについて知っている事はやけに言葉使いが上品なことと、少しだけ耳心地の良い声質をしているという所だけである。ほんとに、少しだけであるが。
いったいどこから、なぜ、どうやって、など部品があまりにも少なすぎる七巧図を頭の中で必死に解こうとする。だが情報が足りなすぎた。考えてみると、ここに長く居るが一度だってあんな声は聞いたことがない。あいつはこのへんには住んでいないのか?それともただ単に会ったことがない…?
「はぁー…」
体が勝手にもう1度ため息をつく、どうしても落ち着かない。
どんどん思考が短絡的になっていく凛樹とは裏腹に、終わらせるべき書類があちらこちらから渡される。
(誰か代われる人がいたらなあ…)
この書類を運んでくれる幼女中らは、まだ算数はおろか読み書きすら習得していない様子だった。私の代わりに仕事を渡せたとしてもあのおっちゃんを怒らせない仕事は出来ないだろう。こんな子たちをあの怒号の餌食にするわけにはいかない。むしろ、なにか意図があって制限されているのかもしれない。まあ、私には関係のない話だ。食い扶持がなくなったら困る。と凛樹は1人で考えていた。
「階段に油脂でも塗っておこうか」
腹立たしさのあまり余計なことまで口にしてしまったが、今はこの書類の値段や数を計算することが最優先である。前回のように時間を守れないと罰が下る。辛うじて2週間の本棚没収だけで済ますことができた。だが、また罰を貰うようなことになれば困るというもの。既に隠している本はすべて見終わっている。もし今度没収となったらそれこそ私の命の糧である本がすべて無くなることとなる。
しかし、目の前に聳える自分の背丈ほどの書類の山を見ていると、それが竹のように突然生えてきた錯覚に陥る。
(この私を困らせる紙屑たちはどうやら下からにょきにょきと生えてくるものなのかもしれない。そんな竹は嫌だなあ)
と、取り留めのないことに思いふけっていた。
そんな凛樹には、絶対にきまりの悪い何かが起きる。
「小凛!仕事は終わったのか!」
ほらきた。おっちゃんに怒鳴られてしまった
「はいはい、いまやってます!」
どこから見たら1階から2階の仕事ぶりを見られるんだ。地獄耳ならぬ地獄眼である。私が女中であるとはいえ、何しろ先日の殴打で、吐くには至らなかったものの帰宅後も口内には鉄錆びの味が漂うほどだった。少しくらいはこちらの状況を慮ってほしいものだ。と愚痴を内心に溢していた。
やるしかないと感じた凛樹は書類を1枚、また1枚と確認し始めた。
「にしてもなんでこんなに溜めるのかなあ仕事を…」
いつにも増して積まれているこの書類を見てつぶやく。なぜ今日はここまでに書類が多い?普段この時期は少ないとは言わないがこんなにも紙が来ることはまずない。しかもこの山によく目を凝らすと書類の中には少し色の違う紙が所々に隠されている。
(繊細な紙だ、これは西琰の物かな)
山から一つ質の良い紙を取ってみる。そこにはこう書かれていた。
仕入契約書 宦官用漢服
――――――
乙は甲に対し宮廷で使える漢服を四十枚、品質を保証し受け渡すことをここに明言する
ははぁ、と感嘆の声が漏れる凛樹。
宮廷直々の契約書だったのか。確かにそれならばこんなにも高級な紙を使う理由もわかる。つまり見栄だ。ほかの客のそれとは段階が違う、異次元な雰囲気をまとっている理由もわかるというものだ。美しい字で書かれたその紙はもはや芸術といえるほど整っている。しかもご丁寧にに宮廷の印まできっちりと押されている。と凛樹は細かいところまで見ていた。
「拝まさせてくれてありがとうございます」
思わず手を合わせてしまった。
少々特殊な癖を持つ凛樹にとってこれは宝といっても過言ではなかった。まるで貴重な本に入っているような紙と字体であったからである。
だが何かおかしい、冷静に考えるとなぜ今頃急に杉家に話がかかるのだろうか?
確かにうちはいろいろな業種に手を伸ばしている。だが後宮に服を卸す仕事は今まで1度だって確認したことはない。この店で経費や書類チェックをしているのは私だけなのだから見ないはずもない。他の家は一体何を――
紙がいきなりの風によって床に落ちる。
考えに耽っていた凛樹は、1枚の紙が床に落ちる音で、現実に引き戻された。
紙を取ろうと手を床に伸ばそうとした。
「君は、考えることが好きなんだね」
その時、いきなり話しかけられた凛樹は思わず唖然とした。ゆっくりと目を見開き、何かお化けでも見るかのように自室と廊下を隔てて閉まっているはずの襖を見上げた。
そこには、男物の漢服を着た男がいた。