序、琰の国
「今日の品物、ここに置いとくね!」
「ありがとう、いっつも悪いね」
この街は、眠らない。
陽が上がれば大通りは人々で溢れ、荷馬車が石畳を軋ませながら通りを行き交う。辺りからは魚が焼ける匂いや鼻を突く香辛料の香りが至る所から漂ってくるほど活発な大通りは、時間によって姿を変えていく。月が上がれば通りに提灯の明かりが灯り、酒場や茶館の扉が次々と開き始める。至る所から客の笑い声や三味線の音が聞こえ始め、艶やかな雰囲気を醸し出していた。
先代皇帝の号令により始まった遊牧民族との戦争による特需によって、急激にこの国では経済が伸び始めている。その中でもここ、南琰は商業&工業が特徴で、今を輝く都市となっていた。この波は止まらず、今では世界の水上貿易の要衝へと変貌した。
経済が回り始めると、人々は段々と資産を蓄えていく。特にその類稀なる商才により頭角を表す商家が出てくる。今では杉伍繕唐という四大商家が今現在宮廷に物を献上できる、商家として最高の権利を皇帝より下賜されていた。
止まることを知らない商家たちは、より利益を出せる売り方を模索している。その中でも杉家は筆頭で、下女が客の元へ行き、必要とされた物やその客に合いそうなものを持って売る形式の通称“御用聞き”は、着実に結果を伸ばしていた。
「じょーちゃん!次はいい酒でも持ってきてくれよぉー」
「はいはい、今度持ってきますね。今度は奥さんに気づかれないようにしてくださいね」
わかってらぁと笑顔で返答する主人。この方は凛樹が半年ほど前に見つけた比較的新しい顧客で、普段は質屋を生業にしている。普段は優しいイケオジなのだが、今日は昼間から頬を赤く染め、飲み過ぎによりしゃっくりをしてた。最近では何かあったのか、昼間から酒盛りを続けていた。
このようにわかりやすく何か没頭している事があると、良い意味で品物を持ってきやすい。
凛樹はそこにいくつか置いてある空の酒壺を受け取り、紙に必要な物を書き留めておく。
日用品・替え酒壺・嗜好酒・ツマミ
この家に毎回卸している日用品と、酒壺、そして重要なのは“嗜好酒”と“ツマミ”。この家は比較的大きい。普段の行動を見るに、お金をそれなりに持っているだろうと凛樹は予測していた。だからこそ、輸入したが買い手が付かず、蔵に残ってしまった西洋酒をここに使い、それに合うツマミを持ってくることで主人に買ってもらおうと商魂を燃やしていた。
「やっぱり、凛凛は偉い子だなぁ。いつもほしぃーものをもってきてくれるやぁな、お前みたいな娘がほしぃや」
酒壺片手に主人は凛樹を褒め始める。酒によって臭くうざったいが、褒められることは嫌いではなかった。
「おじさん、いつもありが……」
品物を纏めていた凛樹はお礼を言うために顔を上げながらおじさんの方を向こうとした。だが途中で言葉が止まってしまう。
「おぉ!なんだなんだ!続きを言ってみろ!」
言えるわけがない。そんな呑気なことを放てる訳がない。凛樹はおじさんの後ろを見て顔が青ざめる。
おじさんは気づいていないのだろう。あれに。
「じ、じゃあおじちゃん!まだ今度ね!」
足早に場を離れる凛樹。彼女は努力と知性、そして周りを見て分析する力があった。それは商家に勤める者として大事なことであり、彼女はそれを既に会得していた。
――だからこそ、今回は回避することが出来た。
「くそおやじいい!今日こそは酒を飲まずに仕事するんじゃなかったのかあぁああぁい!」
女性の金切り声が先ほどの家から辺りに響きわたる。
(がんばれ、おじさん)
少なくとも女の面倒事に関わりたくない凛樹は、金切り声が上がる前に脱出し、次の家へと逃げていくようにそそくさと駆けていった。
「次は何か綺麗な皿でも持ってきてくださる?」
「わかりました、いいものを見繕っておきますね!」
「ありがとう、頼みますね」
笑顔で礼をし、最後の訪問先から離れる凛樹。頭の中はお金のことで一杯で、8軒ある取引先から獲得した利益はまずまずの結果だ、と適当な暗算で予想していた。
普段ならもう少し稼げているはずなのだが、今日は一軒目のおかみさんの怒りが暴発したために満足のいく結果とはならなかった。
(これじゃ、今日は露店は無理だな)
身銭を切ってまで串焼きを食べたいとは思わない。余剰があれば考えないこともないが、今日は不幸にもお小遣いはどの家からも貰えていなかった。それなら見たことのない本に充てた方がマシだ、と考えた凛樹は大通りにある露店達を恨めしそうに眺めながら杉家への帰路を歩んでいった。
*
家について開口一番、杉家の主であるおっちゃんから衝撃の出世を伝えられた。
「お前を今日から女中へ繰り上げとする」
それは、凛樹の位が1つ上になるという、下女全員が夢に見ている事であった。
「あ、ありがとうございます!」
思い切り自分の素直な感情を表に出し、拳を握りしめ喜びを嚙みしめ喜ぶ凛樹。
おっちゃんは商家として、今までの積み重ねである凛樹の売り上げと会話力を公に認めた。
昇格させより働かせようという魂胆が見え隠れしている。実際、位が上がると仕事も増え、面倒くさくなる。が、しかしこれは下女たちにとって悪いことではない。より制限がなくなり自由に生活できるようになることの裏返しであるからだ。より自由にできると言うなら頑張れるのが下女たちの本音である。
認められた凛樹はその後、自室を与えられ、賃金も上がり、そのお金で目星をつけていた本を給与で買うことができた。彼女にとって、この上ない幸福であった。悪くない待遇に凛樹は心を踊らせ、自分の未来は明るい、本以外はこれ以上何もいらない、これ以上めんどくさいことは御免だと、そう思っていた。
これは、下積みを乗り越え昇格し、それなりに満足のいく生活を手に入れた十六歳の“賢き女”、またの名を、琰の国で起こる事件へ巻き込まれてゆく“哀れな女”が主人公の物語である。