159.恋愛初心者
10号サイズのキャンパスに描かれていたのは、瑠璃紺の夜空に散りばめられた満天の星と黄金の満月が湖面に反射し、その湖に映る満月の中に美しい女性が浸かっているものだった。微笑みを浮かべてこの絵を見る者を見ている瞳は金色で、銀月色の長い髪は湖面に広がるように浸されている。
吸い込まれるように近づくと、題名には「星月夜の女神」とあった。
……ノヴァ様が見ていたのは、姉であるルナ様だったのね。
人間界に来てから800年もの途方もない年月が経っているもの。この絵を眺めていた時の顔からそんな風には見えなかったけど、顔に出ないだけで内心では寂しさを抱えているのかもしれない。
でもノヴァ様はあと200年、人間界にいなければならない。その事実が私の心を軽くしてくれる。
ふ、自分勝手ね。
私は肩で息をつき、絵画から離れノヴァ様を探した。
ノヴァ様は場所を移動して綺麗な装丁の本が並んでいる棚にいた。本を眺めているノヴァ様に近づくと、声をかけるタイミングを計っている若い女性たちが目に入る。
……
私はノヴァ様の方へ足を進めながら、完璧な淑女の笑みを彼女たちに向け綺麗な動作で目礼した。
私に気づいた彼女たちは浮かれた顔をぱっと引っ込ませると、少々気まずそうに挨拶を私に返した。そして彼女たちはお互いに目を合わせ、そそくさと退散した。
そっと息をつく。はぁ、私にこんな一面があったなんて、と思いながら彼女たちを横目で見送った。
そして私は「何か気になる本でもありました?」と、何事もなかったかのように笑みの仮面を顔に貼り付けてノヴァ様に声をかけた。
するとノヴァ様は私を物珍しそうに見つめた後、ふ、と目元を和らげた。
心臓が大きく跳ねる。周りの女性たちの小さな悲鳴が聞こえた。
不意打ちを食らい令嬢として振る舞っていた顔と心が崩れそうになるのを必死で堪えながら、抗議の気持ちを込めて言った。
「……どうして笑うのですか」
「いや……あまり見ないような顔をするから、つい。許せ」
笑い混じりにそう言ってから、「ああ、だが……」と続けた。
「やはりディアナは貴族の仮面とやらを外している時の方が良い」
「……!」
微笑みながらそんなことを言われ一瞬息が止まり、自分の顔がみるみると熱くなっていった。貴族の仮面なんてどこかに飛んで行った。
「ふ、外れたな……ん?」
私の様子なんてお構い無しに、ノヴァ様が私の顔を覗き込むように屈んだ。
わ、近い!
「……顔が赤いが、大丈夫か?」
低くて艶のある美声と超絶美形の顔が間近にあるものだから、私は限界が近づいて目を閉じた。耳を塞げないのはどうしたものか。
「そ、そうですね。暖房が効きすぎているせいかもしれません。ていうかちょっと近いと言いますか、程々にして頂きたいと言いますか、えっと、つまりですね……」
もはや頭が回らず何を喋っているのか自分でもよくわからない。
恥ずかしすぎて手を顔の前に持ってきてガードをした。
「あまり見ないでもらえますか……」
その時所々から「うっ」と呻き声が聞こえた気がした。
ああ、もう! 初心者すぎてどうしたら良いかわからないわ! てかどうしたの、ノヴァ様。急にタラシみたいになっちゃって。いえ、タラシだと思っているのは私に邪な気持ちがあるせいかもしれない。出会った時よりも距離が近くなった感じがするのは私の願望が見せる錯覚かしら。
「……熱いなら外に出よう。ここも落ち着かないしな」
「え? あ、はい、わかりました」
ぐるぐる回る思考が中断され、閉じていた目を恐る恐る開けて応えた。
そうね、ちょっと外に出た方が良いわね。火照った顔を冷ましたいし。あと正直私もここでは全ての女性の視線をノヴァ様が浴びているから落ち着かなかった。
「では少し待っていてください」
シェリーに万年筆とインクを受け取ってもらうよう言おうと、シェリーの所へ行く。
シェリーはハインと並んで他のお客さんの邪魔にならない店の隅っこにいた。シェリーは口に手を当て「あらあらまぁまぁ」とでも言いそうな顔を浮かべていて、隣のハインもニヤニヤした顔つきをしている。
シェリーにもバレたかもしれない。ハインにもまた誂われるわ。
私はハインをひと睨みしてからシェリーに贈り物を受け取るように伝え、私はノヴァ様とお店を出た。周りの貴族たちが見てはいけないものを見てしまったと驚いているのを知らずに。
ノヴァ様と雑貨店を出るとハインも一緒に付いてきた。
「シェリーを1人にして大丈夫かしら」
心配になって後ろを振り返って聞くと、ハインは「シェリーさんなら大丈夫ですよ」と応えた。
本当に何も心配していない顔と口調で言うので、私は腕の確かなハインが言うならと顔を前に戻した。シェリーはヴィエルジュ家の者とわかるお仕着せをを着ているからこんな所で手を出してくる人もいないだろうとも思って。
高級店が多く並んだ通りを再びノヴァ様とどことはなしに並んで歩く。火照った顔も外気で通常に戻ってきた。
馬車で移動しても良いんだけど、そこまで寒くないし、せっかくならデート気分を味わってみたかった。そう思っているのは私だけだけど、ノヴァ様の隣を歩くというドキドキとふわふわが混ざった気持ちは私を落ち着かなくさせるし、でもそれが心地よかったりするしで、前世でも経験しなかったこの感情をただ楽しみたかった。
けれど、お兄様たちへのプレゼント選びが予定より早く終わってしまったのでデートもこれで終わりかもしれないと思うと、だんだんと気が沈んでくる。
ノヴァ様はどこかに寄るところがあったりするのかしら。
「思ったより早く終わりましたし、この後はどうしますか?」
あ、紅茶専門店でアフタヌーンティーも良いかもしれない。ノヴァ様に他の用事がなければ言ってみようかな。
ノヴァ様は通りに目を向けた。
「そうだな……もう戻るか」
え。
そう言って停まっている馬車の方に進んでいった。
「……」
ノヴァ様から告げられるデート終了のお知らせに心が深く沈んでいく。
どうしますか、なんて言うんじゃなかった。はぁ、駆け引きが下手くそすぎる。恋愛初心者は駆け引きなんてせず直球の方が良いのかしら。でも全部直球ってちょっと照れるし押しが強いとも思われるのも引かれるのも嫌だわ。変化球を習おうとしても、2号が愛読している恋愛小説ってちょっとクセが強いからあまり参考にならないのよね。
私は帰ったら初心者向けの恋愛小説に目を通そうと思った。
次回は10/3(金)に投稿致します。




