幕間(21)
リュトヴィッツ家に入っておよそひと月で俺は当主になった。
当主になってもヴィエルジュ邸に身を置いているためエルガファルにあるリュトヴィッツ邸にはほとんど行くことはなかった。
邸には隠居したヴィンスと彼の病死した息子の妻であるカタリナと8歳の孫アイザックが住んでいる。元々ディアナの家に住むための養子入りだったため、あちらに住むつもりは全くない。カタリナに「部屋を用意してあるからいつでもいらして」と言われたが使うことはないだろう。ヴィンスにとっても、アイザックを継がせたいがため俺がディアナの家に住んだ方が都合が良いらしい。
ヴィンスの布石である「婚姻を結ばない」という条件。俺は人間ではないからそんなものはする必要はないため、すぐに了承した。立ち会ったジュードは「リュトヴィッツ家での婚姻を結ばないということだな?」とヴィンスに確認し、養子縁組の書類に書き足していた。
ヴィエルジュ邸でこの国に関する知識、人間の常識、貴族の常識を知るのは意外にも興味深く、面白かった。天界を追放されても神格は失われなかったおかげで知識を得ればジュードから割り振られる仕事も容易にこなすことができた。憂慮していたこの家の者以外の人間との関わりも、仕事の話であればどうということはなかった。
天界にいた頃は一人で森にいるか眷属たちの一方的な話をただ聞くか、時折武闘の相手をするかをして過ごすだけだった。姉上や護衛の眷属、姉上の神友たちは人間界に降りることはあったが、俺は全く興味がなく、人間の営みなど知ろうとも思っていなかった。
だが天界を追放され、人間界でも人間にとっての脅威となり自滅を待つだけだった俺が今や貴族の一人として人間と同じように生活している。時折ふと不思議な感覚に陥ることがある。俺にこんな未来があったことなど想像すらしていなかったせいで、今の俺は本当に「俺」なのかと。
人間の生活は忙しい。時間の流れは同じはずなのに、ゆったりと流れていた天界や、山脈で自滅をただ待っていた時とは全く違う。その目まぐるしさに疲れることもあるが、余計なことを考えずに済んでいられるのはディアナのおかげだ。
ディアナと出会うまで誰とも目を合わせないようにしてきた。それが、ディアナのあの言葉のおかげで徐々に他者と目を合わせて会話ができるようになっていた。
——幸せか不幸かは誰かがもたらすものではなくて自分自身が決めることだと思うんです。幸せかそうじゃないかは、それこそ自分次第だって。
——誰かがそんなことを言っていたとしても、それは決してノヴァ様のせいではないですよ。断言できます。
俺と目を合わせると不幸になる。それは姉上も眷属も否定してくれていたが、俺にはそんな力はないと言うだけだった。
だがディアナは違った。あの言葉で俺の中に広がっていた黒い鉛が徐々に溶け出していくような気がした。その熱があの時からずっと消えないでいる。
ジュード殿の仕事を一部任される中で知ったディアナの3人の婿養子候補。貴族の常識を学ぶ過程で貴族の婚姻事情も把握していたが、ディアナが誰かと婚姻を結ぶという事実は面白くないと感じた。ディアナが誰かのものになる可能性に胸が落ち着かなかった。
今まで感じたことのない感情。くすぶり続ける熱。姉上や星の眷属たちに対するものとは違うもの。その正体がわからないでいた。
ある時、俺がジュードの執務室に2人でいると、ジュードが俺の襟についた転移魔法が付与されたブローチをじっと見ていたことがあった。
そういえばジュードはディアナの金色の魔石を身に着けてはいなかった。
「ディアナに頼まないのか?」
ジュードも欲しいと思っているのだと思い、尋ねた。
「転移は確かに欲しいが、リスクはできるだけ避けたい」
ああ、ディアナの本来の力が露見する可能性をわずかでも無くしたいということかと理解した。己の欲よりも娘の安全を選ぶジュードに、父親というのはこういうものなのかと感心した。
またジュードは、「金色を身に着けるのは一人だけで良い」とも言った。
どういうことか聞き返すと、この国では婚約者や婚姻相手の色を身に着ける風習があるらしい。この国に関する文献はそれなりに読んだつもりだったが、そのような記述はなかった。暗黙の了解のようだった。
相手の色というのは主に髪色や瞳の色を指す。自分の色を相手に身に着けてもらうのは一種の独占欲の表れだとジュードは言った。
その意味を踏まえて俺は自身が身につけているブローチを確認した。
金色の魔石とブラックプラチナの細工。
金色はディアナの本来の瞳の色だ。ブラックプラチナは……俺の髪色なのだろうか。俺の目の色である赤はこの国には流通していないのは知っている。魔力登録に使ったあのブレスレットもブラックプラチナだったからきっとそうなのだろう。
だがこの魔石は元は水竜の魔石で青だった。ならそういうつもりはなかったのかもしれない……いや、ディアナは自分の魔力を流すと必ず金色に変わることを知っていた。
ならば……ディアナは俺に独占欲というものを抱いているのだろうか。
天界での女神たちが思い浮かぶ。俺に対する熱を帯びた眼差しの数々。その中で、ある女神を思い出した。名前まではもう思い出せないが、俺が消したあの男神が好いていた女神。
ディアナはあんなあからさまな態度を俺にはとらない。だから違うのかもしれない。ただ、俺はそうだと良いと思ってしまった。
瞬間、胸にくすぶり続けていた熱の正体が何なのかわかった気がした。だが初めてのことで同時に戸惑いも生まれる。
「……良いのか?」
ジュードに問う。婿養子候補を差し置いて人外である俺が、という意味だ。
「それは貴方次第だ」
「……?」
「貴方は今やリュトヴィッツ家の人間。そしてディアナの婿養子候補の中で最も有力なのはマクファーレン家のユージンだ。我が家の一大事業であるアルバローザの栽培と研究を担っている家だ、繋がりは深い……リュトヴィッツ伯爵は、そこに割って入れるのか?」
俺は目を見開いた。
「……それは、もし俺が割って入ることができれば、俺がディアナとの婚姻が可能だということか?」
ジュードが静かに頷く。
「『誰とも婚姻を結ばない』を条件にリュトヴィッツ家に入ったのにか?」
「『誰とも』ではない。『リュトヴィッツ家での婚姻』だ。ヴィエルジュ家での婚姻は条件に入らない」
「……」
俺はジュードの周到さに面食らった。
だがそうしておいた理由は? 俺すら気づいていなかった俺の思いに気づいていたとでも言うのか? 予め抜け道を用意しておくのがジュードのやり方というだけか?
俺は再びブローチに目を向けた。
戸惑いはまだある。そもそも本当にディアナがそういうつもりでこれを俺に贈ったのか定かではない。だが、俺にとってかけがえのない存在になっているディアナを誰にも取られたくなかった。
覚悟を決めた目をジュードに向けた時、ジュードはほとんど動かない口角を上に上げた。
次回は9/22(月)に投稿致します。




