幕間(18)ー9
目を開けると、闇の中に迷い込んだのかと思う程の暗さの中にいた。
木の葉や土の匂い、獣の匂いがする。見上げると、夜空を覆い隠す程の葉が茂っていた。
森の中に降りられたようだな……ん?
俺は魔素濃度の薄さに違和感を覚えた。
なるほど。天界と人間界の魔素は濃度や性質が異なるのか……
自身の体を眺める。
……それでも俺のこの神力は変わらずここでも放出するようだな。
息をつく。
俺は辺りを見回した。
ここなら人間に見つからずに過ごせるだろうが、森のそこかしこから獣の気配がする。陽が昇れば人間が狩りでここに来るかもしれない。もう少し奥に行くとしよう。
土を踏みしめながら森の最奥へと歩いていく。鬱蒼と茂った木々の、闇の中へと溶け込むように。
しばらく歩いていると、ふと視線の先に白い光が見えた。
……なんだ、あれは。
近づくと、白い靄と金色の粒子が木と木の間に浮かんでいた。
これはロカスの……やはりテーレの言うように歪ができていたか。触れれば異世界へ迷い込むことになるが、俺にはどうすることもできない。
だが俺も『朔』を使った。人間界に広まった闇は消えただろうか……
それから探索がてら何時間か歩き続け、山の麓に着いた。葉が生い茂っていたせいで気づかなかったが、森の近くには山があったようだ。
森の奥に行く途中に切り株や原木、伐採された木が多く見られたことから人間の手は割と森の奥まで届いていることがわかった。森の中にいるよりも山の方が見つからないと考え、手っ取り早く俺は神力を使って山の頂上付近に転移をした。
山の頂上では雪が被っていた。
空が白んでいる。夜明けが近かった。
山の周囲を見渡すと、あまり緑がなく殺風景だった。神であるため温度は感じないが、山頂は雪が被り気温も低いようだ。霧がかってはいるが、遠くまでこの山が長く続いているように見える。
山の反対側の土地はすっかり雪景色だった。寒気の強い土地なのだろう。人間が住むには厳しそうに思えた。それにあちら側は月の神を信仰していない土地でもある。
俺は反対側には行かず、また元の場所に戻った。
地上を見下ろす。真下には深緑の森の海がこの山脈に沿って広がっていた。
その遥か向こうには人間の集落らしき建物やいくつかの川が見えた。
建物の外に人間がいるのが見え、ここは本当に人間界なんだと今更だが実感が湧いた。
俺が降りた場所は月の神の信仰が厚い土地だ。特に場所の指定をされなかったため、意図的にここに降りた。1000年という長い年月を過ごすのだ。どうせなら、俺はともかく慈悲深い姉上を信仰する人間がいる土地の方が良い。
一通り見渡して俺は頂上から少し下りた。やはり雪があると動きにくい。雪のない場所に行きたかった。
山の中腹辺りは雪はなく、所々に木々が立ち並んでいた。
そして生い茂った木々の中に開放的な空間を見つけ、俺はそこに姉上からもらった満月草を植えた。ここなら月の光も当たるだろうと。
金色に輝く満月草を眺めていると、姉上と眷属たちの顔が浮かんだ。ただ、それは姉上の笑みでも、眷属たちの騒がしさでもなかった。
俺は一度目を閉じ、それを振り切る。
再び開けると、踵を返した。
満月草から離れた場所を転々としながら人間に見つからないように過ごして100年が過ぎた。
その間、姿を変えて一度だけ人間の集落に降りてみたことがあった。
人間に馴染むよう髪色は茶褐色に、瞳は緑に変えた。神力の放出は俺にはどうすることもできないため漏れ出ていたが人間には見えないだろうと、人間の暮らしとはどういうものかの興味の方が勝り、俺は集落を見て回った。
昼間だったこともあり、多くの人間が行き交っていた。物々交換をしている者、牛を引く者、木の枝を剣に見立てて打ち合う子たち、立ち話を楽しんでいる者など。
……人間もある程度魔力を持っているようだな。不思議なことに魔法を使っている者は誰一人見かけないが。
出店がいつくか並んでいる。食料や工芸品や装飾品、衣服など様々だ。手作りのような雑貨品や装飾品には月や星を模したような品をいくつか取り扱っていた。
それらの品を眺めていると、あることに気づく。
俺は自ら他者に声をかけることがない。だがこの時はどうも気になり、躊躇いながらもこの店の者に尋ねることにした。
久方ぶりに声を発するため軽く咳払いをする。
「……店主。この中には満月や満ち欠けを模した品があるが、新月はないのか」
「新月? ああ、黒い月のことか。新月も月だから女神ルナ様を信仰している身としては作りたいところだが、黒はちょっとここの土地の人間には好まれないんだよな」
俺は眉根を寄せた。
「……どういうことだ?」
「俺のじいさんから聞いた話なんだが、なんでも、100年程前の収穫祭の時に新月の日でもないのに満月が黒く染まったことがあったらしい。人間も黒い何かに呑み込まれたって伝承があるんだ。不気味だろ? それがあって当時の人はみんな黒を見るとそれが思い出されて今も黒に敏感な人は結構いるんだ。女神ルナ様には申し訳ないけどな」
「何故姉う……女神なんだ? 新月の神ではないのか」
店主が怪訝な顔を浮かべた。
「新月の神? 新月に神様はいないだろ」
俺は目を瞠った。
「月の神様といえば昔から女神ルナ様のことだ」
店主の言葉に呆然と立ちすくんだ。
「どうかしたのか? 何も買っていかないのなら商売の邪魔だぞ」
「……失礼する」
俺はそれだけ言って足早に立ち去った。
……なるほど。どうやら俺が人間界に追放され天界との繋がりが途切れたことで、新月の神の存在が人間に忘れられているようだった。月の神は俺と姉上ではなく、姉上だけとなっている。
そのことに特に憤りは感じなかったが、あの店主との会話以来、俺は人間の集落に降りることはなかった。
次回は6/13(金)に投稿致します。




