115.山脈の結界(2)
去っていくディーノさんの背を見送り、私は再び薄黒い結界に目を向けた。
目の前にあの謎の結界がそびえ立っている。上の方にも所々薄靄がかかって見える範囲は狭いけど、きっと頂上まで続いていると思う。
この結界、触れても大丈夫かしら。さっきディーノさんも触ってたし、大丈夫よね。
右手を出し、私は恐る恐る結界に触れた。
瞬間、スルッと手がすり抜けた。
えっ!
びっくりして思わず手を引っ込める。
えっ……え……?
私はもう一度結界に触れた。指先が結界の中に何の影響もなく入っていく。
え、入れるの……? 誰も結界の中に入れないんじゃ……あ、そういえばお父様からカイルの手記のことを聞いた時に、山脈の結界に入れるのは満月の光を浴びた「女神の化身」だけって言ってたっけ。だとしたら私の魔力は月の女神様の神力だから私も入れるってことなのかもしれない。
……どうする? 中に入ってみる……? てか黒竜がいたらもう浄化をしたほうが良い……?
私ははっとしてステータスを開いた。
13万7500……!
浄化を行えるのに十分な魔力値だ。
公爵の依頼のこともある。なら森の魔獣より黒竜を先に浄化した方が良い。浄化をしたら天界に帰るかもしれないし、黒竜がいなくなったらあの依頼は無効になるもの。
私はピスケスの月に黒竜が現れた時の光景を思い出した。黒曜石のような巨大な体、あの輝きを失ったような深紅の目……
私は意を決して、石を跨いで薄黒い結界の中に入った。
結界の中は外側とあまり景色は変わらず、黒い木が乱立していて、雪も少し積もっていた。
歩きにくいのでここでも私は風竜の魔石で空中を飛び、懐かしさと魔獣にも似た魔力を頼りに北に進んでいった。
登っていくにつれその魔力がだんだんと濃くなっていく。もう近いということかもしれない。
5分程登る。後ろを振り返ると、薄黒い結界越しにラヴァナの森と、その奥に広がる雪化粧した街並みが見渡せた。
だいぶ上まで来たと思ったけどまだ六合目くらいかしら。でも魔力はこの辺から感じる。夜明けまでに「女神の化身」に結界を張ってもらう必要があるから案外近い所にいると思うんだけど……
薄靄の中、私はキョロキョロと辺りを見渡した。
あ……
50m程先で何か光が見えたような気がした。
もしかして……
私は地面に下りて、ザクザクと土と雪を踏みしめてゆっくりと近づいた。
近づくにつれ、金色の光に覆われた黒い大きな影が、長い首をもたげてこちらを見ているのがわかった。
その輪郭はドラゴンそのもの。でも火竜と風竜みたいな恐怖の権化とは違った。夢の中で女神様たちを前にした時のような、畏怖のようなものを感じながら私は勇気を出して近づいた。
そして立ち止まる。
目の前に金色の光を纏う黒い竜が私を静かに見下ろしていた。その高さは3階建ての建物くらいあって火竜や風竜よりも大きい。獰猛な顔だけど、思わず跪いてしまうような王たる風格もあって、侵略派が黒竜を「魔獣の王」と呼ぶのも少し納得してしまいそうになる。
黒竜は翼を休め、疲れたように冷たい地面に座り込んでいる。漆黒の体は「女神の化身」の結界によって全て覆われていた。
生命力というものがあまり感じられない暗く淀んだ深紅の瞳をしばらく見つめていると、突然頭の中に低い美声が響いた。
〈何者だ? 何故姉上と同じ神力を持っている〉
「……!」
うわっ、喋った……てか、え? ちょっと声がまじでイケボなんですけど! 落ち着いた低い声でちょっと艶もあって……ねぇ、脳が溶けそうなんですけど!
黒竜が深紅の目を細めた。
〈……それは偽りの姿か〉
お、落ち着け私……今はイケボにときめいている場合じゃないのよ。変身してるってバレてるんだから。でもそうよね、相手は神様だもの、それくらい見抜くわよね。
それに、会話が可能なら事の経緯を伝えることができる。ならこの「冒険者ミヅキ」の姿じゃない方が良いかもしれない。
私は変身魔法を解いた。
全身が金色の光に包まれる。
背が少し低くなり、髪は白銀に変わって腰まで伸び、少年から少女の骨格へと変わる。服も冒険者の身なりからよく着る青い室内着のワンピース姿へと変わった。
金色の光が収まり、目を開いた。
黒竜が息を呑んだ気配がした。
〈その神力とその姿……まさか姉上なのか……?〉
白銀の髪と金色の瞳の私を見て黒竜が驚愕の眼差しを向ける。
姉上……私の魔力は月の女神であるルナ様と同じ。さらにこの姿を見てそう言うということは、黒竜は女神様の言う通り弟さんだということ。女神様に託された救うべき相手が目の前にいることに、私はより引き締まる思いがした。
でもまずは自己紹介よね。
私はワンピースの生地を摘み、最上の敬意をもってカーテシーをした。
「初めまして。私はヴィエルジュ辺境伯家が長女、ディアナと申します」
〈……〉
「月の女神ルナ様と創造の神オルベリアン様より、あなたを救うよう託されました」
〈……何?〉
しばらく黒竜は呆然と私を見つめていた。
黒竜の声の感じを付け足しました。




