5. 王宮での生活は
『拝啓、お父様、お母様、お兄様、そしてマーサ。王宮での生活は順調です』
出だしにそう書いた手紙に、王太子から婚約の証として与えてもらった私の花印、アイリスの花をデザインした封蝋をする。
王太子は多忙だそうで、婚約後は同じ王宮内でも殆ど会うことはなかった。王太子とは婚約早々すれ違っている。いずれルイス王子が結婚し、跡継ぎが生まれれば、王宮での私の立場が危うくなる懸念もある。子爵家立て直しの具体的プランもまだ思いつかず、決して順調ではないが、そんな事を家族あての手紙に書くわけがない。
父たちには私の現状など知られることなく、ルイス王子に世継が誕生する日までに、何とかこの立場を使って子爵家の立て直しだけ出来たらいい。
窓の外を見れば、ちらほらと雪が舞い始めている。このまま雪が積もれば、この手紙がウェリントン子爵家に届くのはだいぶ先になるだろう。特に中身のある内容でもないので別に構わないのだが。
窓の外を眺めていたら、一台の馬車が誰かを乗せる準備を始めていた。程なくして王宮の中からローブのフードをすっぽり被った、見るからに怪しい者が出て来て馬車に近づいて行く。その者は遠目でもわかる程大柄な体格で、男であることだけは間違いないだろう。
男の顔が見れないか身を乗り出そうとした時、部屋をノックする音がして窓から視線を外す。扉の外からはルイーザ王女の侍女の声がした。
「シルビア様、ルイーザ王女殿下からのご指示で書類をお持ちいたしました。お部屋に運び入れてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
扉が開くと、王女の侍女だけでなく、次々と女中達が書類や本を持って部屋に入って来る。その量は想像以上で、机に積み上げられる様子を見て呆気にとられた。
女中達は空の書棚や引き出しや机に、手際よく並べたりしまい終えると、素早く部屋を出て行った。
丁度良いタイミングで、最後にルイーザ王女が部屋に入って来た。
「これらは今まで私が代理で行っていた内のほんの一握りの仕事や、それらに関する資料等です。王妃になる準備として目を通しておいてください」
私はルイーザ王女にカーテシーをして挨拶をし、彼女がソファに座るのを待ってから対面に座る。
ルイーザ王女は表情を変える事なく、抑揚のない声で淡々と話した。
「国王陛下が病に伏してからは、実質王太子殿下がこの国と王室を動かしています。私や王子達の母である国王妃はすでに亡くなっており、王太子殿下にはまだ妃がおりませんでしたので、王女の私が代わりにその役目を果たしていました」
王女が私に笑顔を見せたことは、初めて出会った日から今日まで一度もない。常に厳しい視線で私を見て、私の所作に細かく指摘をしてくる。
今も氷のように冷たい目で私を見ていた。
「王太子妃の務めは数多く、全て承知と思いますが、改めてお伝えします。まず第一に世継を産むこと」
その言葉に咄嗟に「え?」と声を漏らしてしまい、王女もその声に瞬時に反応して「は?」と私に圧の強い声を掛けた。
ルイーザ王女の瞼はピクピクと痙攣しており、私の発言にお怒りなのがよくわかる。
「あなた……まさか、あなたが世継を諦めているの?」
「あの、でも、王太子殿下からは、身体の問題でルイス王子殿下の子が世継となると伺っていましたので……」
ルイーザ王女は立ち上がった。
「私も、ルイスも、アロイスの身体は必ず治ると信じています。だから、世継となるのはアロイスの子です」
「治る? 王太子殿下は成長が止まったとおっしゃっていましたが、何かのご病気であのお姿なのですか?」
ルイーザ王女はその質問には何も答えず、私の横まで来て座りなおすと、少し乱暴に私の手を掴んで、腕から指先までじっくりと眺めた。
「なぜアロイスは、貴方と出会った日に急いで婚約し、ここに住まわせたと思いますか?」
「それは、王太子殿下が先に結婚しないと、世継を誕生させられるルイス殿下が結婚出来ないからと」
ルイーザ王女はその答えにも不満そうな顔を見せて、私の腕から指先までを、人差し指で順々に指しながら声を出す。
「もう消えかかっている叩かれた痕、傷、とても硬い手の平、豆、二枚爪」
見苦しい部分を次々に言葉に出されて動揺し、爪先まで見られていたことに恥ずかしくて溜まらなかった。
「アロイスは、あなたが伯爵家で身体的にも傷つけられている事、硬い手の平は努力家であり働き者である事、二枚爪や爪の割れは栄養状態が悪い事を知り、あのまま伯爵家に戻しては行けないと思ったそうです」
「え……」
ルイーザ王女は立ち上がり、私を見下ろした。
「アロイスの妻としてあの子を支え、この国の次期国王の妃としての務めを果たしなさい。貴族の自覚と責任を持つのです」
ルイーザ王女は苛立ちを見せながら、それだけ言って部屋を出て行ってしまった。
私は急いで立ち上がり王女のあとを追う。
部屋の扉を開けて、ルイーザ王女の名を呼びながら彼女の背中を追うが、まったく止まってくれる気配がない。
これ以上追いかけるのは逆に失礼と思い、追うのは諦め、その場で立ち止まった。
大きな溜息をひとつ零すと、誰かが肩にポンと手を乗せた。
「姉上を怒らせてしまったのかな?」
横を見ればルイス王子が私に微笑んでいた。
私は急いでルイス王子にカーテシーをする。
「ルイス王子殿下にご挨拶申し上げます」
「いいって、そういうの。いずれシルビア嬢の義弟になるんだし」
「そういうわけには……」
「ところで、なんで姉上を怒らせたの?」
「ああ……いえその、それは……」
まさか世継の話からとは、ルイス王子には口が裂けても言えないと思った。
ルイス王子は私の様子を見て察したのか、話題を変えてくれた。
「まあいいか。それより、よかったら一緒に温室まで付き合ってくれない?」
「温室があるのですか? 願ってもないお申し出です」
「温室に興味あるの? ああ、あとその堅苦しい喋り方やめて」
ルイス王子は人を和ませる力があるようで、結局温室までの道のりで砕けた話し方になってしまった。
「ええ!? 野菜を自分で育ててたの?」
「そう! 料理だってしてた。ちなみに私が育てる野菜は美味しいって評判だったのよ」
「いいねー! シルビアの野菜をぜひ食べてみたいなぁ」
背の高いルイス王子と和気あいあいと話しながら、彼の姿にアロイス王太子の姿を重ねていた。もしも彼が十二歳で成長が止まらなければ、今頃こんな姿になっていたのだろうか……?
「そんなに私の顔を眺めて……もしかして惚れちゃった? 兄上がいるのにだめだよ」
ルイス王子は悪戯っぽく笑いながら、私の頬を指でつついてちゃかす。
「ルイス王子、そんなわけないでしょ」
「あはは、ルイスでいいよ」
「ではルイス、そんな冗談にも出来ない冗談はやめて」
「ああ、ごめんごめん。シルビアみたいな子、初めてだからさ」
ルイス王子は涙を拭きながら笑っていた。
いつの間にか温室の前まで来ていたようで、温室の方に顔を向けると、その扉はすでに開かれている。
王太子の侍従が扉を支えて立っており、温室の中には腕いっぱいに白い花を抱えた王太子が立っていた。
「王太子殿下!」
久しぶりにその姿を見て心が浮き立ち、カーテシーも忘れて声だけが先に出た。
「王宮での生活が楽しそうで良かった」
王太子の表情はその言葉とはうらはらに険しい。
「殿下、ちょうど私も温室に用事があり、シルビアにもお付き合いいただいていました。彼女はとても面白くて、私達良いお友達になれそうです」
「は?」
王太子は片眉を上げて不服そうである。ルイスも少し挑発しているような物言いで、私は慌ててルイス王子を止めようと声を掛ける。
「あの、ルイス、何だか誤解を招いているような……」
慌てすぎて、うっかり先ほどまでの調子でルイス王子に話しかけてしまい、王太子はその呼び名に反応する。
「ルイス……? シルビア? お互い呼び捨てとは、随分親しい間柄になったんだな」
王太子は持っていた花を乱暴に侍従に押し付け、先を歩き出す。
「私はまだ仕事が残っている。では」
侍従は花を抱えながら急いで王太子の後を追うが、途中で引き返してきてルイス王子に花を渡す。そしてルイス王子に耳打ちすると、私達に一礼してからまた急いで王太子を追って行った。
ルイス王子は困り顔で溜息をつき、それから身体をこちらに向けて、持っていた花を私の腕にバサリと落とすように渡してきた。
ボリュームのある個性的な形をした純白の美しい花は、甘く芳しい香りを放っている。
「これは?」
「兄上からシルビアに」
「え?」
「シルビアに渡しに行こうとしていた所だったそうだよ」
「なぜ?」
「なぜって、それは本人に聞いた方がいいんじゃない?」
確かにルイス王子の言う通りだ。純白の花を見つめながらそう思った。
「それ、兄上がシルビアに送った花印の花だよね?」
「あ、これ、アイリス?? 色が真っ白だったから気が付かなかった」
「アイリスの花言葉は……」
「花言葉?」
ルイスは自分で花言葉の話題を出してきたのに、なぜか口をつぐむ。
私が答えを待ってルイスを見続けるものだから、困った様子で教えてくれた。
「ああ、えっと、確か、希望……だったかな」
ルイスは花粉で鼻がかゆくなったのか、軽く鼻をこすっている。
「希望……」
私が王太子の希望になれるようなところは一つもない。だからルイスも言葉を濁してしまったのだろう。そもそも、王太子は花言葉まで考えて贈ったわけではない気もするし。
そして、どちらかというと、私の方がこの婚約と結婚によって子爵家が立て直せるかもという希望を持っている。
とにかくこの花は純粋に嬉しかった。お礼に行かなくてはと思い、ルイスと別れて王太子の部屋に急いで向かった。