挑戦、初日
早朝。日曜日。休日。
いつもなら休日はだらだらと何もせずに自堕落に過ごす僕だが、今日は珍しく、朝早くから活動を開始した。
玄関を開け、外に出ると少しまだ肌寒く、思わず手に息をふぅっと吹きかける。
ついこの前まで半袖で過ごせてたのになぁ。しかもまだ10月初旬だろ。
そんなことを思いながら、自転車にまたがり、ペダルを踏む。
向かっているのは、駅、ではなく、駅からだいぶ離れた街のはずれにあるアパート。
大屋さんに悪いが、古ぼけていて、見た目進んで住みたいとは思わない、はっきり言ってぼろくさいアパートだ。
しかし、見た目のわりに、中はしっかりとしていて生活に大きな支障はなく、家賃も安いため、田舎から出て来て学校に通う学生にはぴったりであろう。
何でそんな知ったようなことを言えるのかというと、僕が以前、実際にそこに住んでいたからだ。
車の通りがだんだんと少なくなり、車道と歩道の区別がつかなくなり、次第にただの一本道となる。
昔見た街並みが記憶のそこから甦ってくる。
「ふぅ……やっと着いた」
家を出て、約15分、件のアパートに到着した。
相変わらず古くさいなぁ。
そんなことを思いながら、僕は以前の部屋を見る。
アパートの二回、左から二番目、右から三番目の部屋。
それを見て、一度僕は嘆息する。
僕が、ここへやって来たのは、間抜けな自分の尻拭いのためであることを思い出す。
僕は一階の端の部屋―――大屋の部屋に目を向ける。
どうせ来たんだから、久しぶりに大屋の顔でも拝んでおくか。
扉の前に立つと、昭和な雰囲気漂うおっさんがフラッシュバックしてくる。
「…………」
いざ、久しぶりに会うとなるとなかなか気恥ずかしいものがある。
そんな風に尻込みをしていると、眼前の扉が開いた。
「っあぶね」
扉の近くに立っていた僕は、勢いよく開けられた扉をすんでのところで避ける。
危なかったが、このお陰で、すんなりと再開が出来た。
「なんだよおっさん。あぶねぇなぁ」
僕は、そう言い放つとすぐに笑顔を取り繕う。
今回はできる限りフレンドリーに事を進ませなければならない。
そんな再開に当のおっさんは一瞬目を見開くと、すぐに億劫そうに僕を見やり、
「何しに戻ってきた?小僧」
と、無愛想に言った。
小僧とは言っても、こちらの方が背が高いので、おっさんは見上げるかたちで見ているのだが。
別にそんなことはどうだって良い。
僕はできる限り友好的に言う。
「たまたま近く通ったから、久しぶりに、おっさんの顔でも見とこうと思ってさ」
そう言いながら部屋の奥に目線を向ける。
おっさんの部屋。
おっさんはその射線を自然に遮りながら、
「おぉぅ。そうか。てっきり出戻りだと思ってヒヤヒヤしたわい」
「俺は娘じゃねぇけどな」
部屋、前と変わらず綺麗だったなぁ。
そう思い、おじさんの身なりに目をやる。ぼさっとした髪に、少しくたびれた灰色のTシャツ。客観的に見て、決して清潔感のあるおじさんとは見えないだろう。
やっぱり、人は見た目じゃ、物事判断できねぇな。
これから気を付けよ。
「お前、今失礼なこと考えてるだろ」
「まさか」
流石、何十年も生きてきただけあるなぁ。勘が無駄に鋭い。
僕は「見た目で人を判断するべからず」と心に刻もうとして、ふと思い出す。
聞いておくことがあったんだ。
「それでさ、おっさん。俺が前住んでた部屋、今空いてる?」
できれば空き部屋であって欲しい僕は、それをさりげなく聞く。
空き部屋であると、この件は迅速かつ穏便に済ます事が出来る。……のだが。
全てはこの目の前のおっさんの返答次第。
まぁまぁ重大な任務である。
密かに重い期待を受けているおっさんは少し考えた後、
「あー、今新しく、礼儀正しくて愛想が良い人が住んどるよ」
と、軽く、そっけなく、答えた。
内心、うわ〜っと気を落としながら、言葉に含まれている皮肉には気づいてない風にしようと決めた僕は、
「良かったな。入居者が見つかって」
と表面上純粋に祝った。
そこには、決して「昨今こんなアパートに住む人なんて居るんだな」などという皮肉は無かったのだが、
「へっ。もっと家賃あげても住みたい人いるだろうよ」
彼は皮肉に受けとったようで、対抗するようにそう言った。
このおっさん。素直ではないのである。
聞きたいことを聞き終わった僕は、
「じゃ、予定あるからそろそろ行くわ」
と、言い残し、一旦退散することにした。
といいつつもタイミングを見計らって、すぐに202号室(以前僕が住んでいた部屋)を訪ねたいと思っていたのだが……。
おっさんが家を出るタイミングを見計らうため、アパートを去る振りをして、おっさんの動向を見ていると、家を出た理由は、どうやらただのゴミ捨てだったようで、予定を変更して、事が済んで家に戻り次第、202号室を訪ねようと思っていたのだが。
そこで不測の事態が発生する。
おっさんが近所のおっさんと立ち話を始めたのだ。
僕は「ただの通りすがりだよ」と言った自分を睨みつけながら、おっさん達を見る。
普通に、要件言っておけば良かったなぁなどと思っても、後の祭りというやつだ。
ここはひとつ自分への戒めとしてじっと待とうと決める。
しかし、そんな簡単に割り切ることは難しい。
二人のおっさんを恨めしげな眼で見ながら、歯ぎしりする。
いや、いくらなんでも長くないか。
そんなに、話すことあるのかよ。
なんか、おっさん。大爆笑しだしたし。
あの手振りなんだ?泳いでるのか?ん?犬かきしてる?溺れたのか?なんだ、二人して笑ってやがる。
ていうか、おっさんってあんまり立ち話するイメージないけどなぁ。
これ偏見なのか?
そんなことを考え始めた僕に、「いまそれはどうでもいいだろ」と、頭のなかで小さい自分が突っ込む。
一人でボケとツッコミをするなんて、なかなか寂しいじゃねぇか……。
段々見ているのも飽きてきた僕の眼は、ポケーっと、電柱の上――電線に止まるカラスをとらえる。
一匹の真っ黒な翼をしたカラスは、こちらの目線に気づいたようで、上から見下ろすように僕と目線を合わせる。
何と無く目を逸らしてはいけないような気がした僕は、逸らさぬままカラスを――。
慣れてない、らしくない早起きをしたことの代償。口から特大の欠伸が出てしまった。
「ふぁ~……ん?」
欠伸の反動で目を閉じた時、その一瞬、頭部にぬちょっとした、スライムのような感触の物体が降ってきた。
なんだこれ、と手を頭に伸ばして触感を確かめる。
生暖かい。
それを触った手のひらを見てみると、白いびちゃびちゃな物がついている。
しばらく考え、はっとして奴がいたほうを見やる。
既にそこに奴の姿はなく、そこには奴が残したであろう、汚らしい黒い翼が宙を舞っていた。
一瞬、あの野郎……と怒りに燃えたが、すぐに自分が目を逸らしたのがいけないと思いなおし、次回の邂逅時の復讐を心に決める。
ちらりと、おっさんのほうを見る。
変わっていない光景を見て、思わず嘆息した僕は、今回はもういいかと、退散の決断を下した。
そろりそろりと自転車にまたがる。
そして、おっさんに気付かれないように通りを曲がると、自転車のスピードを上げる。
ずいぶん長いこといた気がするが、時間の割りに、収穫少なかった気がするなぁ。
冷たい風を真っ向から受けながら、そんなことを思った。
家に帰ってベッドに腰を下ろした僕は、ぼんやりと掛け時計を見る。針は、9時ぴったりを指していた。
家を出たのが、7時すぎだから、かれこれ2時間も家を出ていたことになる。
「にしては、報酬が少ないなぁ」
ぼやきながら、なんとなく冷蔵庫を空けにベッドを立つとうとすると、横の丸テーブルにて、携帯が震えだした。
着信画面を見てつい思わず「うげっ」と、声が漏れ出す。
スクリーンには「部長」の二文字が表示されていた。
二文字で多くの情報を受け取り、受け止め、察した僕は、暫くその場に固まる。
この無意味な時間よ続けと願う僕。
部下の、ささやかで無意味で無力なな抵抗である。
四コール程して「流石に……」と、ビビった部下は携帯を手に取る。
「おぉ、村本。お前12時半迄に出社してくれ。12時半迄だ。絶対。頼んだぞ」
「は、はい。……ってもう切ってるし」
要件だけ伝えて通話を切るとは、随分と身勝手なものである。
悪態をつきながら、だらだらしていたら、12時半に間に合わなくなってしまうことに気づいた僕は、そそくさと準備を始める。
スーツに着替えた僕は、家の鍵を閉めて、自転車にまたがる。
そして、さっきとは逆の方向へ自転車を出発させた。
緩やかな勾配の坂道を上り、信号を渡り、最寄り駅へと向かう。
途中、小径に入る。最近見つけた駅までの最短ルートだ。この道を通ると、今までのルートより五分も短縮できる。
ほかの人から見ればたいしたことではないのも知れないが、僕にとっては貴重な朝の時間を延ばしてくれる幸福の道なのだ。
感謝と寒さを感じながら僕は、その道を快走する。
ここで曲がる交差点が見えてくる。道を一本挟んだ小径から、一台の自転車が走ってきている。中学生くらいの少女が乗っているようだ。
僕はスピードを落とさぬまま交差点に出た。
スピードを落とさないまま曲がろうと、膨らんだカーブのコースを進もうとした瞬間。突如視界が横に倒れた。 下にある地面が、眼下に流れていく。
視界の端にさっきの女の子が流れていく。その表情は驚倒に満ちている。
ゆっくりと流れていく視界のなかで自分が撥ねられたことを悟る。
ドンっという衝撃とともに、ゆっくりと流れていた時間が止まる。
理解するまで数秒。そして理解し、認識すると同時に出来事相応の激痛が体を襲う。
その苦痛に悶え、思わずその場にうずくまる。
そしてはっとして顔を上げる。遠くにおそらく自分を撥ねたであろう車が走っていく。
うそだろ……救急車は……。
救急車を呼ぼうとするが、手が思うように動かない。
まさかこんなとこで、死に直面するとは……。助けが来るのを待つしかないか。
そう思って振り返ると、さっき空中で見たままの表情を浮かべている女の子がいた。
「た、たすけてくれぇ」
声を出すのが辛い。精一杯を出す。
すると少女は我に返ったような表情を浮かべ、ポケットに手を入れて、携帯を取り出した。
良かった。と、僕は腹の中で安堵する。
少女がこちらをパッと見る。
「110番か119、どっちがいいですか?」焦ったように言う。
僕は内心どっちでもいいから早くしてくれと思いながら、最後の力を振り絞って言う
「1…1、9……」
言い終えると同時に、僕は意識を失った。