ひかれ合う2人(物理的)
序章 ひかれ合う2人(物理的)
大きな社交ダンス会場の控室にまで会場の拍手が聞こえて来る。俺、倉間 春太は自分達の番が回って来たので立ち上がりパートナーを探す。
――あなたとパートナーを解消します。大会には別の人と出ます――。
そんな無情な言葉と共にパートナーなしで1人ダンスの会場に立たされ、俺は何も出来ずに棒立ちになり、周囲で軽やかに踊る他の出場者達の背中を眺め続ける。そこには俺とパートナーをずっと組んで来た女性の姿もあり、彼女も楽し気に別の男性と踊りに励んでいた。
頭を抱えながら『どうして』叫びそうになった時だった、体が揺らされ、男性の声が響いて来て、俺は今見ていた景色が全て夢だと気付くのだった。
目覚めればそこは机と学生服を着た生徒達がひしめき合う、学校の教室であった。机の上には地理の教科書は出ているが、授業を受けた記憶はなかった。
またこの夢か、いい加減、解放してくれ……。
良く見る悪夢に気持ちがなえていると隣の席に座る友人が、俺の状態に構わず話しを続けている。
「――だから我々は世界に問わなければならない。どうして君は授業中に寝る事が出来るのかと。この難題の解決を急ぐ事こそ人類の明るい未来に繋がっていると僕は信じているのだよ」
瓶底眼鏡を掛けた黒髪の男性兼、俺の友人である三島 次郎は非常に厄介で面倒な性格をした人物だ。言動がオーバーと言うか、鬱陶しいと言うか。
俺が全く話しを聞いていないにも関わらず話し続けている所からも察して欲しい。
そんな人物とどうして友人なのかと聞かれたら『気付けば』や『何となく』と曖昧な事しか言えない。でも仲は良い方である。
「この世界は腐りきっている。だから今こそ世界に問わなければならない! この問題の問いを!」
次郎は、俺の眼前に教科書の宿題として出されていた箇所を指さし、誰よりも真剣な眼差しで見詰めて来る。
「宿題は自分でしろ」
「次の授業で何が起こるか君も世界も全く理解していない」
俺は机から教科書を引っ張り出して次の授業の準備を済ませる。
「次の授業で僕が確実に当てられるのだよ! だから世界は僕の要求に応えてこの問題の問いを教えるべきなのだよ!」
次郎は瓶底眼鏡を掛けて『如何にも勉強出来ます』と表情をしているが、実際は中の下、良くもなく少し悪い程度の成績である。
だから自分でしろよ! って言うのは少し可哀想か。友人だし、一応な。
「だったら良い方向に考えたらどうだ?」
「良い方向とは?」
次郎は瓶底眼鏡をこれ見よがしにくいっと上げた。特に意味の無い行為だ。
取りあえず言ったけど全然先の事考えてなかったな。
「当てられた瞬間、何処かから狙撃されるとか。そしたら授業も無くなって皆幸せだろ?」
「成る程、その手があったか。僕は今すぐ狙撃手を手配しよう。しかし、それでは僕は死んでるではないか?」
「撃たれろとまでは言ってないけどな」
「成る程、撃たれずに死ぬと言う事か」
どうしてそうなる……もう、付き合い切れない。
俺は次郎を横目に先程の夢の事を思い出していた。
繰り返し見る悪夢に、俺は情けなさやら悲しさやらで、思わずため息を吐いてしまう。
悪夢の始まりは2ヶ月前、今までずっと社交ダンスのパートナーをしていた女性に唐突にパートナーを解消され、目標にしていたダンス大会に出られそうにない事だった。ダンス大会の期限が迫り、新しいパートナーを探しているが、社交ダンスをしている人すら少ないのに歳の近い相手となると絶望的だった。何処かで俺はダンス大会への出場を諦めていた。
彼氏彼女と言う関係でもなく、あくまで社交ダンスは競技、勝つ為に勝てるパートナーを選ぶ事は当然の行為で責める事は出来ない。割り切るしかなかった。そう、思いつつもいつまでもウジウジとその事で悩んでいるのはそのパートナーだった女性、大谷 葉月が同じ教室で授業を受けるクラスメイトである所が大きい。
元々彼女とは学校ではあまり話したりしなかったが、それでも時折一緒に食事をしたり、ダンス教室では仲良く過ごしていた。偶に出掛けたり、ダンス道具を一緒に買ったりもしていた。お互いダンスに真剣に向き合っており、信頼関係もあったと思う。
好きと言う気持ちがあったのかどうか聞かれると、今はもう、過去の自分がどんな心境で彼女と過ごして来たのか、正直分からないとしか答えられない。でも最高のパートナーだとははっきりと言えた。
にも関わらず突然、パートナーを一方的に解消された。理由は単純、勝つ為である。パートナーを解消されて以来、彼女とは真面に話していないので、本人から直接聞いた訳ではないが――。
「すみません。葉月さんはいますか」
女生徒達の黄色い歓声の中、3年の新谷と言う、イケメンで勉強もスポーツも出来る爽やかな雰囲気のある男性が尋ねて来る。
ショートカットの可愛いと言うより美人と言うべき黒髪の女性、葉月が駆け足で教室からその先輩と共に廊下に出て行く。
そう、彼が俺の代わりに葉月が新しく選んだダンスのパートナーである。2人は少し前に合った小さな大会で見事に優勝を収め、今では学校が認める公認のカップルの様な状態であった。
つまりそう言う訳だ。自分より上手い相手とパートナーを見付けたのだろう。
元々俺と葉月がダンスのパートナーと言う事を知っていたクラスの男子の一部が、この光景を見る度、俺の方に視線を向けて『寝取られ』や『NTR』と言ってからかって来る。
NTRは寝取られの略語である。クラスメイトにからかわれなければ、一生知らなかった言葉だっただろう。
その中でも特に目立って寝取られとからかって来るのはクラスのお調子者の山本である。
ほら、今回も速攻でからかいに来た、勘弁してくれよな。
「なあ、倉間、正直に言ってくれ。NTRって興奮するだろ? 今とかたまらないんじゃないか。あー俺も心の底からその感覚を味わいたいぜ」
山本はニヤニヤとゲスイ笑みを浮かべて俺の事を見つめて来る。何度もそうやってからかわれ続けると心は次第に死んで行く。今の俺は一言言葉を返すだけになっていた。
「変態」
「何とでも言えば良い。同じ穴のムジナと言う事は分かってるんだぜ」
そもそも付き合ってた訳じゃないし。あくまでダンスのパートナーだ。
俺は机の中に仕舞い込んでいた1枚の紙を取り出す。そこには踊れるのなら誰でも参加可能と言う、うたい文句と共に大きなダンス大会の案内が書かれていた。
この大会を目指して俺と葉月はダンスの練習を積み重ねていた。大会は1週間後、もはや参加出来そうにないにも関わらず、未練がましく持っているのもきっと悪夢を見る原因の一旦になっているのだろう。
「所で春太、君は今朝のニュースはみたかね?」
次郎は確かに面倒な人物だが恋愛関係に全く興味が無いのか、俺の事を一切からかって来ない。だから、こうして友達でいられたのかも知れない。
「朝にニュースを見る余裕はないけど」
山本がクラスの男子達をけし掛けて俺をからかおうとする雰囲気を一瞬にしてぶち壊してくれる。これには感謝しても仕切れない。
「全くこれだから、また金持ちの多くが地球を脱出して人工衛星に移住したそうだ。まだ世界が滅びるまで100年も余裕があるのにせっかちだとは思わないかね。この1件には必ず裏がある。僕のセンサーがビンビンとそう伝えて来る」
「そんな事より、今の内に宿題したらどうだ?」
俺は横目で時計を見る。残り時間5分、頑張っても怪しい時間である。しかし次郎は、俺の忠告を完全に無視して、眼鏡をくいっと上げながら話しを続行する。
「これより重要な案件はない。世界がそう言っている。そう、僕の予想では製作中のコロニーが間に合わず、100年後、地球から宇宙に避難出来る人数が限られているのだよ。だから金持ち連中は、それを見越して自分達だけ助かる為に先に宇宙へと出ているに違いないのさ。君の父は政府の諜報員であろう? 何か聞いてないか?」
本当に人の話しも聞かず、空気も読めない奴だよな。助かるけど。
「諜報員じゃなくて研究者な。それに機密機密で何か知ってる方が問題――」
その時、軽めの揺れをハッキリ感じられる程度の地震が発生する。教室内に複数のスマホの地震速報のアラートが鳴り響くが、手慣れた物で誰1人として慌てず、スマホを少し弄るだけで、昨日見たドラマの話しなんかを始めてしまう。
「最近増えた地震や異常現象もまた世界が僕に何かを訴えかけて来ているのだよ」
「地震でそこまで思えるのも才能だな」
もう1度、今度は少し強めの地震が起こる。ガタガタと揺れる机の音に、教室内が一気に静まり返る。しばらくして、その地震も何事もなく収まるが、地震が収まると同時に山本が声を大きく張り上げ、クラスメイトの注目を集めた。
「それより昨日は山の木がグラビティフライで飛んで行く様子さ、マジで凄かったぜ。家が飛ぶ時より迫力満点。もしあの木に乗っていたら空飛べたかも知れないぜ」
山本の話しに数名の男子がその時の木は憎き杉の木だの、そのテレビの感想を話し始める。
グラビティフライとは2年前に起きたある1件を機に増えている建物等が重力に逆らう様に上空へ、そのまま宇宙へと飛んで行ってしまう現象である。
「地震とグラビティフライには大きな関係があると思うのだよ」
それはグラビティフライで家が地面から引き抜かれている訳だから、近くにいれば揺れるかも知れないが、それが地震かと言われると完全に別物だろう。
鼻をズルズルとすすったクラスメイトが杉の木なんて全部滅びれば良いのにと漏らしていると教室のドアが開かれ、チャイムと共に数学の教師が入って来る。
「全員席に付く様に」
クラス全員が話しを中断して、それぞれの席に付いた後、授業が始まる。
普段と何も変わらない普通の授業だった。悪夢の所為で眠れなかった俺は、今回の授業も少しうとうとしながら聞いていた。
だから気付いた時には全てが遅かった。
「倉間、急に立ってどうした? 質問か? それともトイレか?」
「は? 立って?」
立った記憶なんか全くなかった。なのに下を向くと机との距離が遠く、俺は自分の置かれている状況が全く理解出来なかった。
「!? は、え?」
俺は訳も分からないまま机に手を伸ばそうとするが、机との距離は一方的に離れて行く。そこで俺は、自分の足元が視界に映り込み、自分が浮き上がっている事実に初めて気付くのだった。
「引っ張られてる!?」
次の瞬間、俺を引っぱる力が、重力を完全に上回り、教室の天井に張り付いてしまう。手に持っていたシャーペンは俺の手から零れ落ち、重力に従い床に落ちて行く。
如何やら可笑しな事になっているのは俺だけらしい。
教師もクラスメイトも誰もが俺の事を見上げて唖然としている。驚きの追い打ちでも掛ける様に窓も開いていないに関わらず、教室の中に突風が吹き荒れ、教室内の多くの物が俺と同じ様に舞い上がって行く。
教室の中は瞬く間にパニックになって行く。それは地震の時等とは比べものにならず、まるで本当に銃撃でも起きたかのようだった。
俺はと言うと、逆様の世界に迷い込んだ様な感覚に陥り、どうしら良いかも分からないまま、天井を足場に立ち上がろうとしていた。片膝を曲げ、両腕に力を込めようとした時、全身が斜め後ろに引かれる。バランスを崩した俺は軽く天井に叩きつけられ、成す術もないまま天井を滑る。
「な、何だこれ!? ああああ!?」
必死に何か掴む物を探すが、あったのは部屋を照らしてくれる蛍光灯くらいで、それにすら手が届かずに、俺はまるで崖から転落する様に勢い良く、背後にあった窓ガラスに接近ししまう。
窓ガラスが割れる音が聞こえて来る時には、俺は体を丸めて顔を庇っていた。
出来る事はそれだけだった。遅れて背中に衝撃と共に痛みが走る。その後は、いつまでも落下し続ける感覚が続く。その感覚は、正に地獄だった。いつまでも落ち続けるジェットコースターに乗っている様な感覚だった。決して慣れない、気持ち悪さと不安感が、俺を襲い続ける。
「――っ」
閉じていた目を開くと、視界一面に街が広がっていた。ついさっきまで自分が住んでいた街である。遠ざかって行く街を見ながら、俺はやっと自分に何が起こったのか理解する。
「空に落ちてる?」
俺は体を捻って空を見上げる。そこには視界を埋め尽くすほど大きな、もう1つの地球と言うべき巨大な青い星がいつもの様に浮かんでいた。
今から5年前突如として、そのもう1つの地球と言うべき星が何の前触れもなく出現した。出現した当時は世界の終わりや神の裁き等、大きな騒ぎになり、全てのメディアがこの事を取りたて、テレビもドラマやバライティーが中断され、暫くもう1つの地球に関する討論が放送されていた。
すぐにそのもう1つの地球に別の知的生命体が住んでいる事が発覚して、格研究機関が様々な通信手段を使ってコンタクトを取ろうとする。そこからは割と映画とかでありきたりな展開だった。相手から未知のコードがアメリカの研究機関の1つに送られて来て、それを解読しつつ返事を返す、只、相手はそれに返事を返さず、1人の使者をその星から、派手に、この世界の全ての人々に宣伝するかの様に送って来た。この事によって研究機関や政府は情報を世界に公開するしかなくなり、一般人にも、もう1つの星についての情報が知れ渡る事になった。
その使者の見た目は、何処かのタコの様な宇宙人とは打って変わって、地球人と見た目だけなら大きな差は無かった。違いは肌が赤み掛かったオレンジ色と言う事と頭の両サイドから生えた青色をした小さな鳥の翼である。後は服を着て2本足で立ち、2つの瞳に1つの鼻に口、地球人と同じと言って良かった。
そこから使者と政府との間でどんな話し合いが行われたのか不明だが、使者が地球に来てから約半年で、リベイスと呼ばれるもう1つの青い星と和平条約が結ばれ、アメリカ政府とリベイス政府を中心に2つの星に何が起こっているのかと言う調査が開始さる事が発表されたのだった。
当時は本当に大きな騒ぎになっていた。その時を機に多くのリベイス人が地球に来た事で、お祭り騒ぎになる反面、終末理論や政府の陰謀等、本当に色々な憶測が飛び交い、リベイス人を追い出そうとする過激な活動家等も現れ、戦争が起こるのではと危惧までされていた。
しかしそんな事態が訪れる事は無く、全てが杞憂で終わる。それから4年の月日が流れ、リベイスから地球に観光に来る人や地球からリベイスに観光や旅行に行く人が増えるまでなり、交流は極めて順調と言えた。
順調なのは人間同士の交流だけであり、2つの星に関してはあまり良い事態とは言えなかった。2つの星は互いの重力により引き合い続け、僅かながら接近を続けており、100年後に接触し、互いの星が崩壊すると言う事実が判明していた。
とは言え、日本に住む俺からすれば全部テレビの中の話しだった。世界がどれだけ騒ごうが、所詮外国の話しであり、日常に大きな変化が起こる事は無かった。
唯一影響があったのは、例のグラビティフライだけである。このグラビティフライは2年前にエアーズロックと言う世界のへそと呼ばれる大きな岩の塊が空に飛んで行った事で、有名になった現象である。日本だけでなく世界各国で問題視され、人々を不安に陥れている現象であった。
これって、これ……これってもしかしてグラビティフライ?
「でも人が飛んで行ったなんて……家とか岩とかなら――っ!」
学校ごとなら、まだ納得も理解も出来た。しかし俺1人だけがこんな現象に陥るなんて、不幸を通り越してある意味、奇跡だった。
一体どんな確率なんだ? そんな確率引き当てるなら宝くじに当選させて欲しかった。
俺は宝くじが当たった時の想像を膨らませ、必死にこの後自分がどうなるか考えるのを避け続ける。……たが、視界に小さな岩の塊が見え始めると想像せざるを得なかった。
グラビティフライに掛かったら当然無事に生還出来る訳がなかった。上昇するにつれて気温が低くなり体が震え始める、死神が鎌を研ぐよりも早く自分の死期が迫って来ていた。
「はは……」
もう笑うしかなかった。泣き出したい気持ちも恐怖も、地球に置き忘れて来た様だった。何も考えられない。風による目の渇きの所為なのか涙が溢れて来る。
思えば葉月に大会の直前にパートナーを解消されてからは、抜け殻の様な毎日だった。彼女と顔を合わせ辛くなり、ダンスの練習にも行かなくなり、気付けばダンスすらもしなくなっていた。
「こんな時に、俺は何を考えてるんだ」
走馬燈が頭の中に流れ始める。
どうしていきなりこんな生死をさ迷う事になるんだ。さ迷うというより死ぬ事になってるんだ? 俺が一体何をしたんだ? 理不尽過ぎる、余りにも理不尽で惨い。夢も希望の1つもない。
「もっと良い方向に考えないと、夢だ、夢ならある」
幼い子供が見る夢だ。空を飛ぶ夢、覚えてないけど俺もきっとそんな子供らしい夢を持っていたに違いない。その夢がかなってるんだ。……但し夢を叶える代償は命で支払う事になるけどな、ははっ!
「……思った以上に長いかも」
ビルから飛び降りれば死ぬまでの時間は10秒にも満たない一瞬だが、グラビティフライの場合、最期を迎えるまで想像以上に長い時間があった。エベレストや雲よりも遥かに高い所に行く訳だから時間が掛かるのは当然であった。
「良く考えたらぶつかる前に酸素……それに凍えそう」
俺は目の渇きによって溢れる涙を拭いながら、真っ白な雲と接触する。視界が霧に覆われ、真っ白になるが、それは一瞬の事、すぐに視界が開け、同時に今までの寒さが、冗談に思えるほどの凍える様な寒さと気圧の変化による耳の痛みが襲って来る。只、呼吸の方に大きな問題が起こる事は無かった。
呼吸が平気な理由について考えるよりも先に、視界に映るどの場所から見るよりも綺麗な星の海に吸い込まれそうになる。
綺麗だが死の終着点でもある星の海から目を背けようと頑張るが、体が言う事を聞かず、仕方なく目を閉じるが、視界が真っ暗になる事で恐怖が爆発的に増大して結局瞳を開いてしまう。
はあ、はあ、自転車に乗りながら目を閉じてる様な恐怖があった……。
視界が何処までもクリアになって行くと同時に距離感が全く分からなくなって行く。
やがてリベイスと地球の間にある、小さな衛星が見えて来る。その衛星の名前はリンカーと呼ばれており、グラビティフライで飛んで行った全ての物の終着点だった。
リンカーには緑の森の様な部分もあるが、マグマがむき出しになっている箇所や、高温の水蒸気で溢れている個所、壊れたビルなどが突き刺さり針山の様になった場所もある。遠く離れた場所にあるにも関わらず双眼鏡でも覗いたかの様に全てがはっきりと見えてしまう。
視界から完全に青い色が消え、全てが黒く染まって行く。ふと、自分の体の震えが止まっている事に気付く。
冬山での遭難とか震えなくなったらヤバいって言うよな。
「最後だし、良い方向に考えよう」
例えばそう、伝説的な死に場所じゃないか、今後語り継がれて行くだろう。その内、神格化されて映画にもなるかも……結局死んでるけどな。
「と言うか何だ? 暖かい?」
俺は自分の手足が動き、感覚がある事を確かめる。風を余り感じなくなると同時に周囲に熱が戻って来る。理解出来なかった。宇宙空間こそ、世界で最も冷たい場所と言っても良い。だから温かさを感じるなんてありえない事だった。
と言うか空気って何処まであるんだ? まだ息出来てるし……と言うかもしかして俺、もう死んだとか? 意識だけの存在になってるとか?
「……? 何か飛んで来る?」
理解を超えた出来事は立て続けに起こり続ける。視線の先にパイロットスーツの様なスマートな赤い宇宙服を着た人の形をした物が、こっちに迫って飛んで来るのが見える。
一瞬助けが現れたのかと思ったが、すぐにその希望は砕かれる。正面から真っ直ぐ俺に向かって飛んで来る宇宙服の人物も手足を慌てた様子でバタつかせ、俺との接触を避けようともがいている様だった。
……接触?
俺はリンカーに落ちるよりも先に、その宇宙服の人物と接触しそうな事実に慌てふためく。決められた死が直後に用意されていると分かっていても、本能には逆らえなかった。
「嘘、嘘嘘嘘嘘!?」
俺も体を捻ったり、手足をバタつかせるが、全く意味はなく接触までの時間だけが迫って来る。
互いに物凄く早いスピードで移動していた為、互いの姿を認識してから接触までの時間はほんの数秒だった。
互いに接触する瞬間、体を捻り合う。紙一重を体現した様に互いに数センチにも満たない僅かな距離で接触を避けて、すれ違う。
すれ違ったのは、刹那の時間のはずだったが、宇宙服のヘルメットの中の人物と目が合った瞬間、時間が止まったかの様な感覚に陥る。その間、お互い時間を越えて見詰め合っていた様に思えてならなかった。その所為か、俺は相手の顔を細部まで覚えてしまう。
ヘルメットの中にあった顔は赤み掛かったオレンジ色の肌に黄色い綺麗な瞳を持つ人物だった。その人物の綺麗な瞳に吸い込まれる様な感覚に、俺は時間が止まったのかと錯覚させられただけでなく、自分の置かれていた状況までも忘れさせられたのだった。
「――ああ、そうか、そうだった」
何の感情も籠っていない自分の声が聞こえて来る。俺は正面にあったリンカーを見て自分の運命を思い出す。その周囲には山ほどのデブリがあり、この速さで突入すれば、惨劇は回避不能と言えた。
「せめて……何かしたかった。具体的に何か出て来ないけど、色々したかった」
もっと人生を謳歌して、最期には我が人生に一片の悔いなしとか言いたかった。
「――っ……あれ? 減速してる?」
宇宙空間に吸い込まれる速度が急速に遅くなったと思った瞬間、今度は少しずつ正面に浮かぶリンカーから離れて行く。
「上がってる? いや、落ちてるのか!?」
混乱する時間すら与えられずに俺は今までと逆方向に落下して行く。まるで本物の紐なしバンジーをさせられている様な感覚に陥る。
背中からの落下、進行方向に何があるのが見えない事が落ち着かず、俺は体を捻る。視界に移るのは若干丸みを帯びた巨大な地球と下に広がる真っ白な雲の塊だった。
「何だ……全然宇宙に出てないじゃないか」
すっかり宇宙の旅をしている様な感覚に陥っていたが、実際はまだ地球から出ていると言い難い状態だった。
それにしても地球ってこんなに大きくて、綺麗な星だったんだな。特に宇宙から見るのは特別としか言いようがなかった。
死が遠ざかった事で少し余裕の生まれた俺は、ぼんやりとそんな事を考えながら重力に身を任せる。また一気に凍える様な冷たさが襲って来て、体が震え始める。
虚ろな眼差しで、どうして俺は毎日バラシュートを着けてなかったのだろうかと、意味の分からない自問自答を繰り返していると、正面に見える雲を突き抜けて、先程の赤い宇宙服を着た人物が手足をバタつかせながらこちらに向かって飛んで来るのが見える。
すぐに今回も直撃コースに入っている事を悟り、俺は今すぐ頭を抱えて嘆きたい衝動を押さえながら腕を使って大きく左を指す。
すると相手も同じ様に腕を使って右を指し示す。俺はそれを見ながら意思が通じ合った喜びと同時に、自分は一体何をしているのだろうと言う疑問で頭の中が埋め尽くされそうになっていた。
時の流れが止まらない様に、また先程と同じ様に互いが物凄いスピードで加速し合いながら距離が縮まって行く。迫って来る相手を見ていると自分の中に浮かんでいた疑問や考えが全て消え去り、全力で回避する事に集中する事になる。
「――っ今」
俺は左に、相手は右に体を捻り、互いに背中の服が軽く擦れ合うが、接触する事なく無事に難局を乗り切る。
すぐに振り返って相手の姿を見ようとするが、俺はすぐに雲の中に突入してしまい、相手の姿を見る事は出来なかった。
雲の層を抜けると、眼下には地球が広がっており、体が風の抵抗を受けて持ち上がっている様に感じる。しかし目が強い風に晒され開いていられず、俺は背を向けて重力に完全に身を任せた。
「時間にして何分くらいだろうか? 20分も経ってないよな」
20分も時間が与えられれば、人間死ぬ覚悟を決められるのだと知ってしまう。地面が近付いて来たらまた怖くなるのだろうけど。今は、只、重力に身を任せられた。
「スカイダイビングをする人って、こう言う感覚を味わってるのか……違うか」
目が風に晒されている訳でもないのに、涙が溢れて来る。余命を医者に宣告された様な気分になって来る。
「また!?」
また、落下速度が減速して行き、まるで重力が反転したかの様に今度は上昇して行く。上下に激しく動く絶叫マシンに乗せられている様な感覚だった。
いや命の保証がされている絶叫マシンの方が遥かにマシか。
加速しながら近付いて来る雲を見ながら俺は嫌な予感が頭の中が駆け巡って行く。
「嘘、嘘嘘嘘嘘嘘!?」
2度ある事は3度ある。もし、今回も赤い宇宙服を着た人物も重力が逆転してしまっていたら? それも今度は雲の中で接触する事態に慣れかねないとしたら?
近付いて来る雲の層を見ながら言い様の無い恐怖が全身を駆け抜けて行く。
「あああああ!?」
雲の中に突入して視界が真っ白になった瞬間叫ばずにはいられなかった。思わず手足をバタつかせるが、手足は霞を掠めるだけで何も得る事は無かった。
今にも赤い宇宙服の人物が目の前に出現して大惨事になりそうな想像が、頭の中を何度も駆け巡る。
その時、雲によって真っ白に染まった視界の向こう側で、赤い光が微かに点滅するのが見える。見間違いか幻覚かも分からなかったが、俺はその僅かな光を頼りに、タイミングを計って体を左に捻る。
まさにその瞬間だった、正面から赤い宇宙服の人物が飛んで来て、体を捻る俺の姿を見て急いで体を動かすが、時はそんな間を与えてくれずに俺の背中と相手のヘルメットが軽く接触する。
「がっ!?」
その衝撃は凄まじい物だったが、致命的なダメージでは無かった。代わりに互いが磁石のN極同士の様に弾け合い、真っ直ぐな軌道から斜めに大きくずれてしまう。
「いってー」
雲を突き抜けた俺は、背中に走る痛みに耐えながら手足が動く事を確認する。
背中や腰を痛めたらダンスが――って、こんな事態なのにダンスの心配って、こんな殆ど死んでいる様な状況なのに。
「は、はは……」
こんな時までダンスの心配をしている自分が可笑しくて、笑いが込み上げて来る。耳は痛いし、体は寒いし、何も笑えない。今の状況に面白い要素は何1つとして存在しない。なのに笑う事を止められなかった。
「――っな、んだ、うっ」
体に掛かる凄まじい負荷に内臓が揺らされる気持ち悪さがあった。先程までとは比べものにならない程の負荷に歯を食いしばって耐える。
雲の層を突き抜けた俺の体は、まるで観覧車にでも乗っているかの様に円を描く様に移動して、気付けばまた雲の中に突入してしまっていた。それが数回繰り返される。
今までの様な上下移動と違い、体に掛かる負荷が大きく、この避けようのない空での高速観覧車に耐える事しか出来ずに、拷問の様な時間が過ぎ去って行く。
雲の層に何度も突っ込んでいる内に次第に雲を掠めるだけとなり、俺は少しずつ高度が落ちている事と、俺の対角線上に俺と同じ様に理不尽に振り回されている宇宙服の人物が見える。
その人物との距離は少しずつ縮まっている様で、同時に回転する速度も少しばかし緩やかな物へと変わって行っていた。
「どう……なってるんだ?」
俺は今更ながら現状を全く理解出ずに、向かい側を自分と同じ様に円を描く様に飛んでいる宇宙服の人物を見ながら首を傾げる。当然そんな事をしても答えが返って来る訳もなく。時間だけが過ぎ去って行く。
空を飛び回りながら、宇宙服の人物とお互い成す術もなく顔を突き合わせる事になる。お互い何をする訳でもなく気まずい時間が過ぎて行く。
距離が縮まっていると言っても、互いに紙飛行機程の大きさにしか見えない程の遠い距離である。だから気まずいと言っても今の所は気まずさにもギリギリ耐えられていた。
「向こうの人物ももう抵抗も諦めて完全に身を任せてるし」
相手も俺を見て同じ事考えてたりして。まあ、何の力もない俺に現状を打開する様な方法を期待されても困るけど。
慣れと言うのは怖い物で、ダンスの経験をしていると、こんな絶叫マシンも裸足で逃げ出す様な回転に襲われても目を回す事もなく、それ所か、余裕まで生まれて来る。
「良い方向に考えるなら、今日より三半規管が鍛えられる日もないだろうな……鍛えてもミンチになったらどうし様もないけど」
俺は下に視線を向けた。眼下には青と緑の区別しかつかない地球が見える。雲との距離は確実に離れて行っている。つまり高度が下がっていたのだった。
宇宙に投げ出されて死ぬ事は無くなっても、結局地面に叩きつけられるのか。
見納めになるかも知れない最後の絶景を見ながら先の事を考えない様にしていると、現在、下方を旋回中の宇宙服の人物が、ヘルメットをまるで空気の抜いた風船の様に萎ませてスーツの中に仕舞い込む姿が視界に飛び込んで来る。
俺が視線を奪われたのはヘルメットを仕舞い込む姿ではなく、その人物の素顔に対してだった。ヘルメットを取り外した事により、白く長い髪が、まるで解放された事に喜びを見出す煙の様に風に煽られてシュルシュルと暴れ、頭の両サイドから生えたプリズム色の入った綺麗な鳥の翼がはためき、同時に赤い肌が目に飛び込んで来る。
そのインパクトだけでもかなりの衝撃だったが、それ以上に綺麗な顔立ちの人物だと印象に残ってしまう。
女性に見えるその人物は俺に背を向けて、俺と同じ様に地球に視線を送る。すぐに俺と彼女の位置は入れ替わり、地球に視線を向ける俺の視界から消えてしまう。
彼女の姿に名残惜しさを感じるよりも早く、また位置は入れ替わり視界に彼女の姿が映り込む。
「また目が……」
俺は目の乾燥を感じて風に対して背を向ける様にして目を閉じる。
目の乾燥が収まるのを待ってゆっくりと目を開く。気付けば、宇宙服の彼女との距離は更に狭まっており、お互いの顔がはっきりと認識出来るまでの距離まで近付いていた。
「な――っ!」
俺は驚きのあまり言葉に詰まってしまう。只、この驚きは近付いていたと言う事実よりも、宇宙服の彼女と目線が確り合ってしまい、お互いに金縛りにあってしまったかの様に視線を反らせなくなった事に対しての驚きだった。
彼女の金色の瞳に移る自分の黒い瞳が見えた様な気がする。自分の意識が彼女の瞳の中に吸い込まれた様な感覚。あまりにも現実からかけ離れた状況なので、今の光景が全て幻だと言われても違和感なく受け入れられるだろうが、彼女のその瞳は本物だと確信を持ててしまう。
「――っ」
先に視線を気まずそうに反らせたのは彼女の方だった。俺もそれに合わせる様に急に気恥ずかしくなりながら視線を背ける。
俺達の視線とは裏腹に、お互い逃れられない運命の様に、互いの体はまるで鏡映しかの様に対角線上にあり続け、その距離は確実に狭まって来ていた。そして、同時に地面との距離も接近し続ける。もう青と緑しか見えなかった地球は消え失せ、わずかに街や建物の形が認識出来る様な距離まで落ちてしまっていた。
お互いに状況を確認し合った後は、気まずさも消え失せてしまっていた。彼女の方はジェスチャーで背中から何が出す様な仕草をして、俺の事を見つめて来る。
「パラシュート? 持ってるって事?」
俺は現状を見て、バラシュートで打開出来る物なのだろうかと小さな疑問符を浮かべる。
彼女は次に手を自分に向けて伸ばす仕草を繰り返す。
「手を取れって事か? 助けようとしてくれてる?」
只、その距離はまだ1キロ以上離れている為、とても手を伸ばした程度で届く距離では無かった。
これ、地面に落ちるより早く彼女の元に行けるのか? いや、行けると信じよう。
俺は腕で大きく丸を作りながら返事を返す。如何やら伝わったらしく、彼女は下を見ながら俺との距離を何度も確認してもどかしそうな表情を作る。
彼女は腕をクルクル回した後『分かる?』と尋ねる様に腕を伸ばして来る。
きっと、俺達がこうして空を回っている理由が何かと尋ねて来ているのだろう。
俺の答えは当然『さっぱり分からない』と言う意味を込めて首を横に振る。
と言うかこの学生服姿から察して欲しい。そっちは宇宙服とか着込んで、まるでこうなる事分かってたみたいに見えるんだけどな。
「? ゴミ?」
俺と彼女の間に現れた真っ黒な点に最初は目に入ったゴミかと思い、俺は何度かまばたきを繰り返して、その点を見つめる。
その黒い点は自分の存在を主張するかの様に目に見えて拡大して行く。球体にも見えるのに平面的で凹んでいる、まるで穴だった。空間に広がった穴、俺はその穴に吸い込まれている様な感覚になり恐怖が湧き上がる。
彼女の方が何か叫んでいるが、俺はその言葉を聞き取る事は出来なかった。
「どうしようもないって!」
遠心力よりも遥かに強力な力で引き寄せられ、俺達は瞬く間に黒い点に接近して行く。
「こ、これ、まさかブラック――」
黒い点に接触する瞬間、俺は腕で顔を庇いながら目を閉じる。その直後、体に強い衝撃が走る。まるで車にでもひかれた様な感覚だった。
って、俺、車にひかれた事なかった。
痛みで思わず目を開いてしまう。見たくなくても人間、痛みを感じると自分の体が無事かどうか確認してしまう物だと初めて知った。
ふと正面を見ると例の黒い点はまるで幻だったかの様に消えていた、代わりに俺と同じ様に痛みに悶えている彼女の姿があった。どうやら俺達はぶつかり合った衝撃で、距離が開いた様だった。それでも懲りる事なく、また俺達の距離は少しずつ近付いて行く。今度はお互いの間に黒い点の邪魔は入らなかった。
もしかして、助かるのか?
手を伸ばして来る彼女に合わせる様に手を伸ばしながらそんな淡い期待が膨らんで行く。黒い点の出現により俺達の距離は一瞬にして縮まり、助かる希望が見えて来ていた。だた、すぐにその希望も儚い物だと思い知る事になる。
「!? もう、地面がそこまで!」
そう、既にはっきりと家の形や車に人が認識出来る距離まで接近してしまっていた。あの少し前の接触の時に彼女と手を取れていれば、そう思わずにはいられなかった。
地面との距離に彼女も気付き、慌てた様子で俺に向かって手を伸ばして来る。
まだ諦めていない彼女の気持ちに答え様と俺も彼女に向かって必死に腕を伸ばす。お互いの指先は10メートルにも満たない距離まで接近して行く。
僅かに発生している遠心力によって縮まりそうで縮まらない距離にじれったさを噛み締めながら、お互いに手を伸ばし続ける。
――地面までの距離がドンドン縮んで行く。
スカイダイビングの知識が全くなくてもパラスシュートを開いて助かる距離かそうじゃないかの区別くらいは何となく分かる。きっとこの手が彼女に届く頃には高層ビルより少し上空を落ちているかぐらいだろう。そんな所でパラシュートを開き、その上2人分の体重が掛かれば、2人も助からないのは明白だった。
昔に何度か理想の死に方について考えた事があった。テロリストから好きな子を守ってとか、凄く恥ずかしい妄想である。その中の1つに誰かの身代わりになって、と言う物があった事を思い出していた。
俺は目の前で必死に手を伸ばし続けている彼女の姿を見る。
――もう覚悟は必要なかった――。
伸ばした指先が2センチ、1センチを近付いて行き、遂に触れ合う。彼女は伸びきった右腕を更に伸ばして、俺の手を掴もうとしながら左手を自分の背中に手を当てる。
俺は彼女の手の平に自分の手の平をありったけの力を込めて押し当て、僅かでも上に押し上げる。タイミングを計っていた彼女は、俺の手の平が触れた瞬間にパラシュートを開き、風に煽られて、一気に距離が離れて行く。
彼女から発せられたと思われる聞き慣れない言葉の叫び声が上空から聞こえて来る。
我が人生に一片の悔いなしと言えるだろうか、言えなくても良いか、最期が良ければ全て良しって事で良いんじゃないか?
朝の人通りの少ない道路、俺は自分の死に場所を1度見た後、目を閉じる。まるで時間が止まったかの様な感覚だった。体感速度が遅くなって行く。
これが思考の加速と言う物な――っ!?
「――上昇してる!?」
体に掛かる重力が変わったのを感じて俺は慌てて目を開く。目の前には遠ざかって行く地面があった。理解出来ないまま、体を回転させると、開いたバラシュートが絡まってしまった様で、俺に向かって真っ直ぐ落ちて来る宇宙服を着た彼女の姿があった。
「嘘だろ!? 嘘嘘嘘!? なんでこうなる!?」
もう何度目になる交差が行われ様としていた。今回、速度は速くないが、相手は身動きが取れそうな様子では無かった。
考える間もなく接触してしまう。俺は何とか体を捻りながら彼女との直撃を避けながら、パラスシュートの端を掴んでいた。
掴んだ後、自分がどれだけバカな事をしたのかと気付いたが、その時は、この上昇する力で彼女を引っ張れば彼女を助けられる等と安易な事を考えていた。
彼女に絡まっていたパラシュートは俺が引っ張った事であっさり解けるが、その直後、腕が肩から千切れそうな痛みと共にパラシュートは中央部分で完全に裂けてしまう。
腕の脱臼だけでなく、もしパラシュートの紐が彼女の首に絡まっていたりしたら、俺のした事は、取り返しのつかない事だった。只、パラシュートを引き裂いてしまった事も完全に取り返しのつかない事なのは間違いなかった。
自分の身代わりになる様に地面に向かって落ちて行く彼女を見ながら、俺は只々自分の無力さを呪う。
時計の針が同じ箇所を毎日指す様に、次の瞬間、重力も当然の事の様に反転して、今度は俺が地面に向かって落ちて行く。それに反比例する様に宇宙服を着た彼女の重力も反転して、今度は上昇し始める。
良かった、本当に、俺の身代わりにならなくて……。
安堵するのも束の間、真っ直ぐ俺に向かって上昇して来る彼女の姿を見ながら、俺はまだ何も終わっていない事を理解する。
「またかよ!」
合図する時間も与えられず、俺は右を腕で指さしながら体を大きく捻る。地面が見えている分、その恐怖は計り知れない物だった。自分の傍を紙一重で交わして上昇して行く彼女を横目に、迫り来る地面を祈る様な気持ちで見つめる。
地面が迫るにつれて減速して行く自分の体。俺は舞い降りた天使の様に道路に降り立つ。硬いアスファルトの上にフワリと降り立てたと思ったが、それなりに強烈な衝撃が体中に走り、只でさえボロボロだった体が悲鳴を上げる。
俺が降り立った場所は学校のすぐ傍の道で、手を伸ばせば学校を囲む柵に手が触れられそうだった。
「待って! 嫌だ、嫌! 愛しの地面――っ!?」
体が浮き上がり始め、俺は慌てて目の前にある学校の柵にしがみ付こうとするが、時は遅く、伸ばした指先は宙を掠め、上昇する力に逆らえずに加速して行く。
もしこの速度なら海に落ちれば助かるかも知れない。
そんな考えが風の様に頭の中を駆け抜けるが、近くに都合良く海の様な物が存在する訳もなく、何度も繰り返されたすれ違いの時が訪れる。
ライン工事の様に俺は決まった動きで体を捻り彼女との接触避ける。彼女も自分と同じ様に体を捻るのだとばかり思っていた俺は、次の瞬間、期待を大きく裏切られる事になる。
彼女はすれ違う瞬間、俺の背中を強く推す。それによってお互いの距離が地面に対して斜めにずれる。横に掛かる力はまるで、自分の体に紐でも付けられている様に円を描き始めて、俺達はまた回転を始める。
只、今度は回転の速度も遅く、離れたと思った俺達の距離は一気に縮まって行き、まるで2人がコマにでもなったかの様に近距離で回転を続ける。
俺は彼女が何を考えているのか理解も出来ないまま、宙を車輪の様に斜めに回転しながら、接近し続ける彼女を見つめる。彼女との距離は数十秒程でほぼゼロ距離まで近付き、手を繋ぎ合う。それでもお互いに引っ張られる力は緩まず、頭を思いっきりぶつけ合ってしまった。俺は慌てて離れようとするが、宇宙服を着た彼女に体をがっちりと掴まれる。理解出来ない彼女の言葉に促されるまま、俺も彼女の腰に抱き着く様に腕を回す。
その瞬間に予備のパラシュートが開かれ、地面までの数十メートルの距離をゆっくりと降下して行く。俺達は学校の中庭に生えていた大きな木の上に不時着する。
俺の人生、今ほど嬉しいと思った事はない。
木の上で彼女に捕まりながら、俺は溢れる涙を止められなかった。高校にまでなって本気で泣く時が来るなんて思いもしなかった。俺は生きて地上に降り立てたこの奇跡に対する感動を分かち合いたくて、共に生還を果たした赤い肌の彼女に視線を向けた瞬間だった。
「ムラッツ!」
少し怒った様にそう言った彼女は、頭の白い煌きを放った翼を大きく広げながら、俺の腕を自分の腰から引き剥がし、木の上から俺だけを下に落とす。お腹から土の上に叩きつけられた俺は痛みに悶絶する。
「いつつ、もう少し優しく――ううっ!?」
一瞬、体が浮き上がったと思った直後、木の上から赤い宇宙服を着た彼女が落ちて来て、俺は見事にクッションにされてしまう。
これは――涙出て来たんだけど、今度は痛くて、涙出て来たんだけど!
「……おい、おーい!」
俺は背中の痛みに耐えながら、いつまでも俺の背中の上に座ったまま放心している彼女に冷たい視線を向けていると、我に返った彼女は俺の事を睨み付けながら距離を取る。
もう自分の感情が無茶苦茶だった。制御出来ないと言っても良い。死を覚悟して、全身は痛みでボロボロ、そして生還した事に対する安堵感、この全てを自分の中で消化するには時間が必要だった。
「本当に生きて帰れ――」
正に喜びの言葉を述べようとした時だった。俺は真横、彼女がいる方向に何かの力によって引っ張られ、咄嗟に近くにあった雑草を掴む。
彼女も同様に俺の方向引っ張られる力に抵抗して近くにあった雑草を掴むが、根の浅い雑草程度で防げる物ではなかった。俺と彼女の抵抗も虚しく、力に引っ張られるまま互いの距離を近付け、体がくっ付き合った後、お互いの頭がゴツンと勢い良くぶつかり合う。
俺と彼女は互いの手に持った雑草を交互に見詰めた後、体をくっつけ合ったまま、視線を上げてキス出来そうな程の距離で見詰め合う。
どれだけ察しが悪くてもここまであからさまだと流石に、自分達に何が起こっているのか察してしまう。
「マッチュ、アグラ――ッ」
彼女が話した言葉で聞き取れたのはそれだけだった。苛立ちながら立ち上がった彼女に俺は磁石の様に引き寄せられ、地面を滑って足元に頭を突っ込んでしまう。それによってバランスが崩れた彼女は、俺の体の上に倒れ込んで来る。彼女の絹の様な真っ白で長い髪が俺の鼻孔をくすぐり、体の冷えとも掛け合わさり、俺は盛大なくしゃみをしてしまう。
うわ、俺の鼻水が彼女の服に……拭けば許されるかな?
「ギル、アムト! エエバイラ!」
彼女は俺と体をくっつけたまま、自分の宇宙服についた俺の唾や鼻水を見て怒りの形相を浮かべる。俺はそれに追い打ちをかける様にもう1度くしゃみを繰り返してしまう。
これは致し方ないと言うか、何と言うか。絶対怒ってるよな。
少し引き合う力が緩むのを感じる。それは彼女も同じで、すぐに俺を押し退けながら、距離と取るのだった。距離を取ってから暫くは、変化と言うべき変化は無かったが、次第にまた引き合う力が強くなって行き、俺は中庭の芝生の上を滑り始める。
意地を張る様に彼女は、俺との距離を離そうと足で強く地面を踏みしめて歩いて行く。
「マグラ、イイラ……アイウイ」
まるで急斜面を登っている様に足が全く前に進まなくなった彼女の足は、遂に前に進む所が、マイケルもビックリする様なムーンウォークを披露しながらこっちに引き寄せられて来る。歩く事を諦めた彼女は、振り返り、地面を滑りながら乾いた笑いを浮かべる。
「アハハハ」
笑い始めた彼女に合わせる様に俺も笑う。
良い方向に考えよう。そう、どうして自分達が空を飛ぶ事になったかと言う答えが目の前にあった。この先、突然、空に落ちないか心配しながら過ごす事にならない事実が判明した事は、喜ばしい事と言えば喜ばしい事だった。
「は、ははは」
彼女は、俺の傍まで引きずられて来たタイミングで肘を立てながら俺の上に倒れ込んで来る。見事な肘鉄が俺のお腹に直撃して、俺は暫く声も出せずにもだえ苦しむ事になった。
わざとやったのか? 肘鉄入れて来た? いや、違う、良い方向に考えよう。きっと俺は肘鉄が好きだと思って好意で入れて来たに違いない。それなら、うん、仕方ないよな。それか肘鉄が挨拶とか、あり得るよな。なら俺も同じ様に肘鉄をしないとな!
「これで!」
彼女は、俺がお返しに放とうとした肘を両手で押さえながら睨み付けて来る。俺も彼女の瞳を真っ直ぐ見つめながら肘に力を込める。ジリジリと張りつめた空気の中、俺と彼女の間に火花が散り始めた。
この無意味な攻防から先に降りた彼女は、俺から顔を背けたかと思うと、宇宙服の中に仕舞い込んでいた折り畳まれたヘルメットを膨らまして無言で頭に被る。
「あの……」
彼女はプイと俺から顔を背けて会話する事を完全に拒否してしまう。
絶対わざと肘鉄食らわせて来た! その態度で俺は確信を持ったからな! くっ、きっとくしゃみのお返しなのだろう。服を鼻水で汚されるのと比べたら割に合わない。肘鉄か鼻水のどちらかを選べと言われたら皆鼻水を選ぶだろ?
不意に視線を感じて顔を上げると、俺の教室や他の教室からも生徒達が窓から顔を出し、俺達の様子を伺っていた。
無数の視線に俺は、どうして良いか分からず俯くと、ボタンが弾け飛び、土と泥で汚れ、所々が裂けた自分の制服が視界に映り込む。夏終わり、秋の初めの季節とは言え、それなりに肌寒く、空を滑空していた事もあり、体は冷え切っていた。
「くしゅん!」
くしゃみをしながら、昨日降った雨の所為で泥となった土に顔や髪が汚れている事に気付いて、俺はどうした物かと途方にくれるのだった。
暫くすると、校舎から女性、俺のクラスの担任の教師であり、親戚で、現在、仕事で家を留守にしがちな両親に変わって面倒を見てくれている北野 冬華さんが疲れ切った表情でトボトボと俺達の所に歩いて来る。
「とにかく無事で良かったわ。窓から飛んだって聞いた時は、遂に自殺したのねと思って少し心配したのよ」
冬華さんは、ワカメの様な真っ黒な天然パーマの髪の毛を整えながら、スーツについた茶色い染みを見て小さくため息を吐く。彼女の気苦労や疲れた表情が化粧の上からでもはっきり分かってしまう。
遂に? 少し? あれ? これ、俺、自殺すると思われてたって事?
「とにかく……2人とも来なさい」
俺の両親は2人とも研究職に就いている。母は民間の父は政府関係の研究をしていた。母は海外出張や泊まりも多く、元々余り家に帰って来なかったので、家に母のいない光景は当たり前だったが、ここ1ヶ月父も忙しいらしく泊まり掛けで、家に全く帰って来なくなってしまった。
近所に住んでいた冬華さんは、親戚で両親と仲が良い事もあり、両親が留守の時は、親代わりとしてずっと面倒を見てくれている。個人的にお姉さんの様な物だと思っていた。
俺は冬華さんの後を追って校舎に向かうが、宇宙服の彼女は腕を組み、そっぽを向いたまま学校の校門の方に向かって行く。最初の方は2人とも特に異変もなく離れられたが、それも僅かな時間であり、すぐに体を引っ張られる様な感覚に襲われ、それは時間経過と共に強くなって行く。
「春太? 何しているのって」
冬華さんは後ろに滑って行く俺を見て、慌てて俺の腕を掴む。宇宙服の彼女の方は彼女の方で、まるでランニングマシンに乗っている様に前のめりになりながら駆け続けていた。
そこまでするか? そんなに俺は嫌われたのか? くしゃみで?
それでも引き合う力の方が強く、彼女は、少しずつこちらに近付いて来る。更に引き合う力は強くなり、冬華さんも綱引きでもする様に体重を後ろに掛けながら俺の事を引っぱり続ける。
「い、いたたた、千切れる! 腕、千切れる!? と言うか、足! 足浮いてるから!? 頼むから離して! 今すぐ!?」
「あ、ごめんね、分かった」
そう言って冬華さんが手を放した瞬間、俺はそのまま後ろに吹き飛び、宇宙服の彼女と背中合わせに激突し、後頭部を互いに強打するのだった。お互い立っていられず、そのまま中庭に背中をくっつけたまま座り込む。
「――っ!? なんで……」
背中合わせの彼女から肘による打撃攻撃を脇腹に受けて俺は内蔵に来る痛みに悶える。
流石に腹立って来た。命を救われた相手だけど、どうして俺が理不尽な暴力を受けなければならないんだ! こうしてぶつかったのだってついて来なかったそっちが悪い!
「普通ついて来るだろ……頭痛い、ヘルメット付けてないからこっちの方が絶対に痛い」
言葉を理解しているとは思えなかったが、それでも文句を口にせずにはいられなかった。
「マクトォタッタ……イバント!」
苛立った様子で立ち上がった彼女は勢い良く立ち上がって、校舎へと向かって行く。
「結局行くのかよ」
俺も立ち上がり、急いで彼女の後を追い掛け、ぴったりと後ろに張り付く。1度だけ鬱陶しそうに振り返られたが、俺は気にしたら負けだと考え、何も言わなかった。
冬香さんは汚れた俺達をまずシャワー室に案内してくれる。
「……そう、なるよな」
俺は自分の数センチ後ろに立っている宇宙服の彼女を横目に見ながら頭を悩ませる。冬華さんも当然気付いていただろうに、更衣室に案内をするだけして、着替えを取って来ると言って1人で先に出て行ってしまった。
相手が男性ならともかく別の星とは言え、女性だし……気にし過ぎてる? 他の動物の裸を見ても何とも思わない様に何とも思わないとか? いや思うって! 少なくとも俺は気にするって!
彼女は周囲を見渡しながらシャワールームや更衣室を確認して、真っ直ぐと俺の事を見て来る。
「あの、そんなに見られると流石に恥ずかしんだけど」
俺の言いたい事が通じたのかは不明だが、彼女は無言のまま、ヘルメットの前で指先を軽く動かす。すると透明だったヘルメットの正面部分が、光りでも失ったかの様に真っ暗に変わり、彼女の顔が完全に見えなくなってしまう。
ヘルメットの暗くなった部分に未知の青い文字がゆっくりと浮かんでは消えて、目を閉じて眠りについている様な顔文字が表示される。
ヘルメットに浮かんだ安らかな顔文字とは別に、彼女は腕を組み、機嫌が悪そうに顔を斜め上に向けていた。
「……見ない様にしてくれたのか?」
疑ってもきりがないので、俺は痛みに耐えつつ勢い任せに服を抜き、彼女をシャワールームの入口の傍まで誘導して、慎重に距離を取りながら、シャワーを浴びる。
うわ、全身あざだらけ……病院行った方が良いかも。それに右肩、痛くて上がらないし。傷を見た所為か、急に痛くなって来たし。
離れている距離は70センチ程だったが、2分後には弱弱しい引き合う力を感じ始め、俺は急いでシャワーで汚れを落とす。
約5分の短いシャワーで体の汚れや髪の毛の土を流し終えた俺はシャワールームを出ながら、冬華さんがまだ着替えやタオルを用意してくれていない可能性が高い事に気付いてて、思考が真っ白に染まって行く。
でも裸のままウロウロするのもヤバいし。それに引き合う力も強くなってるし! 仕方ない、最悪元々来ていた学生服をタオルの代わりにしよう。
そんな気持ちで更衣室に戻ると、既にタオルと俺の体操着が用意されていた。
絶対関わりたくないから、さっさと服だけ置いて逃げたな、そう言う人だからな。
「でも、裸で対面する可能性もあったのか。良かった……と言うか肩、本当に痛い、脱臼ってどうやって治すんだ? 骨折とかしてないと良いけど。服着るのもきつい」
と言うか冬華さん、俺の体操着の隣に女性用の制服の着替えを用意してるって事は、やっぱり気付いてるって事だよな。でも男女別々の更衣室を使う様に言われても困るから、その点は、彼女の面倒な事に関わらない主義は助かるな。
俺はさっさと着替えを済ませ、着替え終えた所で彼女の肩を軽く叩き、話し掛ける。
「終わったけど」
俺の言葉を聞いた後、彼女はヘルメットを取り外して、勢い良く俺の頭に被せて来る。視界は真っ暗になり、本物の闇の中に吸い込まれたかの様に何も見えなくなってしまう。あまりの暗さに恐怖すら感じそうになる中、彼女が更衣室を出てシャワールームに入って行く音が聞こえて来るのだった。
「なるほど」
これは何も見えないな。
ヘルメットの中は果物の様な甘い香りがしており、何とも言えない気分になってしまう。俺は彼女の顔を思い出す、金色の大きな瞳、赤い肌に白く長い髪の毛、美人だと思う。そんな彼女がずっとこのヘルメットを着けていた……。
俺は何を考えてるんだ!? 思いだせ、その後の彼女の身勝手な行動の所為で酷い目に遭っている事を、でも翌々考えたら同じ様に彼女も酷い目に合ってる事にならないか? 額をぶつけたら当然お互い痛いし、いや、ヘルメットだったか。
「こ、こんな時は良い方向に考えよう」
言葉も通じず互いの意識を通じ合わせて同じ行動を取る。例えばそう社交ダンスの様な、それなら得意じゃないか? ああ、でもパートナーに急に解消された挙句、今ではダンスも踊っていなかった……。
浴槽から聞こえるシャワーの音に込み上げて来る気恥ずかしさやら、今後の事を考えると不安で悶えそうになる。
時間にして3分程で感じていた引き合う力は先程とは比べものにならないくらい強烈な物になっていた。
先程と違う事は、距離だった。今回俺は、シャワールームには近づかず更衣室の中で待機していた為、2人の距離は約2メートル離れていた。
俺は引き合う力に抗おうとするが、視界が塞がれていた為、何かを掴む事も出来ずに滑ってしまい、ベンチか何かでスネを打って悶える事になる。
俺は痛みから自分がヘルメットを被っている事も忘れて、頭を抱え様としてヘルメットに触れてしまった時だった。変な所に触れてしまったらしく、真っ暗だったヘルメットの中の視界が晴れ、何故か数分前のヘルメットの中の自分の様子が映像として映し出される。
うわ、俺、こんな気持ち悪い表情で!? こんなの誰かに見られたら――っ!
俺は急いで、ヘルメットの正面モニターにVR表示された自分の顔を消そうと手をバタつかせながら消そうともがく。
「これが、これで……えっと、赤いのが消す奴……違うし! 撮影始まった!?」
俺はパニックを起こしながら、撮影画面をどうにかしようと更にモニターに触れて行く。その時だった、背後のドアが開き、咄嗟に振り向いてしまうのだった。
「あ……」
手足や顔は赤く、他は淡いオレンジ色の肌、それ以外おおよそ人間の女性と大差のない肉体を持った人物が、濡れた宇宙服を小脇に抱えて立っている。
はだ、はだか――っ!?
「――っ!? 待ってくれ、これには深い訳が――っ!?」
彼女は憎しみの籠った瞳を俺に向け、頭部の白い翼を逆立てながら、俺からヘルメットを一瞬で奪う。その直後、渾身の力のこもったビンタが飛んで来た。
強烈なビンタによって吹き飛んだ俺は、近くに置いてあったロッカーに頭をぶつけて、そのまま意識が飛んでしまうのだった。
咄嗟に出て来た言葉とは言え、深い訳って、どんな訳だよ。
目覚めた時、視界には見慣れない真っ白な天井が映り込む。天井を眺めながら俺は今までの出来事が全て夢だった様な気がして、フワフワした気持ちのまま体を起こす。
ベッドの周りは白いカーテンで覆われており、一瞬病院かとも思ったが、如何やら保健室らしい。寝惚け眼のまま横を見ると、自分が寝ていたベッドの脇で、体育座りで座り込み、サナギの様にジッと動かずにいる赤い肌の彼女の存在に気付く。その瞬間、俺の思考は一瞬にして覚醒するのだった。
彼女は学校の制服に身を包んでおり、白い制服と赤い肌は何とも言えずミスマッチの様に思えてならなかった。彼女の傍には萎んだヘルメットと折り畳まれた宇宙服が置かれており、俯いている彼女の姿と相まって妙な悲壮感が漂っていた。
今までの事が夢でないだけでなく、自分が彼女に対して何をしたのかまで思い出し、急いで取り繕おうとする。
「あ、えー、その」
取り繕うって言ってもなにをどうするんだ? 無理だ。もう修復不可能なまでに嫌われていても可笑しくないだろ。そのはだ……裸を見た訳で。
言葉に詰まった俺の姿を彼女は黙って見つめたと、ベッドの脇に置かれたラップのされたアンパンを指さし、そのまま俺から顔を背けてしまう。
普通なら俺のした行為は、警察に捕まっても可笑しくなかった。しかし彼女のたったそれだけの行為で、俺は何故か全て許された様な妙な気分に陥るのだった。
地球人とは違い裸を見られても平気とか? いやいや、それならビンタはどうなる?
アンパンを食べている間は、明確なやるべき事が目の前にあった為、そこまで気にもならなかった。しかし食べ終わってしまうと、ベッドで知り合って間もない別の星の女性と2人だけ、気まずくない訳がなかった。
俺は何度か話し掛けようとして、結局何も言葉が出て来ず、気まずい沈黙の渦の中に落ちて行く。
そもそも話し掛けても……言葉、通じないよな……それにしても気まずい。
俺はこの気まずい雰囲気を何とかしようと周囲を見渡す。しかし視界に移るのは白いカーテンだけで、この状況を何とかする様な便利な道具が転がっていたりしなかった。結局視線はベッドに腰掛けている彼女の元に戻って来る。
ふと肩の痛みがなくなっている事に気付く、只、代わりと言わんばかりに頬と頭に出来たタンコブの痛みが増えていた。
「それにしても静かだな」
「その内戻って来るわ」
俺は自分に視線を向けている彼女を真っ直ぐと見つめ返す。たった一言、言葉のニュアンスが日本語に似ていただけで全く別の意味の言葉かも知れなかったが、その時の俺は、そこまで考えが回る事は無かった。
「今、喋った?」
全てを自分にとって都合が良い方向に解釈しながら、そう彼女に尋ねていた。
「べ、別に……。不便だから必要になる言葉をインストールしただけだわ。必要以上にコミュニケーション取るつもりとかないから」
彼女はプイと視線を俺から背けてしまう。
「本当に不幸だわ。何でこんな目に合わないとならないのよ」
少し気の強い言動は彼女のイメージとぴったりに思えて、思わず笑みを零してしまう。
俺は、意思疎通が出来る喜びに、今までの事を全部忘れて、改めて自己紹介から始める事にする。
「俺は倉間 春太。春太って呼んでくれて良いから。良かったら名前教えてくれないか?」
「……ルナイン」
その時、俺はやっと彼女、ルナインとの距離が本当の意味で少し縮まった様な気がするのだった。